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森達也監督 『FAKE』 とアウシュヴィッツの余白


以前数回に分けて書いた、STAPとiPS細胞にまつわるアレコレや。

そこから派生する形で
【あっちとこっちの間、どっちつかずの空間にさまよう映画】
を取り上げております。

前回までは話題作『シラート』についてでしたが


さまよい作品については今回が最後のご紹介。

『FAKE』


STAP事件と同じ、2014年の日本を賑わせた騒動を追ったドキュメンタリーですから。これを扱わないわけにはいきません。



両極の「答え」のあいだにある豆乳



「全聾偽装&ゴーストライター騒動」

といえば、覚えている人は覚えてる。
忘れてる人は今やすっかり忘れてる。
メディアによってまさに消費され尽くした感もある事件です。

「クラシック界で異例のヒットを記録」
「現代のベートーベン」ともてはやされ、時の人となった

全聾の作曲家、佐村河内守氏の耳は本当は聴こえていた!

かつ、その作曲能力は貧しく、世間で評価されてる作品はすべてゴーストライターの手によるものだった!

というのが事のあらまし。

思えば1月にSTAP騒動、2月にこのゴーストライター騒動と、2014年は「ウソかホントか」に揺れた年だったわけですね。


そこから10年以上が経った現在の視点で見回してみると、今や「ウソを入れてた箱」も「ホントを入れた箱」もどちらも溶解。ドロドロに溶けちゃってウソもホントも天地開闢前の良く分かんねえ脂みたいな泥みたいな何かになってる感じ。

あれだけ「騙された!」と怒りまくってた世間(というかテレビ)が可愛いとすら思えてくるし、素朴だったなぁと遠い目になってしまう。

それほど現状の「ウソ&ホント」の泥濘化が進行していると感じます。

©2016「Fake」製作委員会



名手、森達也監督は『FAKE』において、

ウソかホントか白黒をつけるわけじゃありません。


佐村河内さんの立場に立って、テレビや週刊誌で報道されてる事象に対して反論を述べるわけでもありません。

「ウソをついた」とされる佐村河内さん。
「真相はこうだ!」と責め立てる世間。

そのあいだで宙ぶらりんになり、ひたすらジワジワし続けるだけ。


そこにこの映画の真骨頂があります。


両極どちらにもある「答え」、その中間スペースに解答はなく、どっちつかずの亜空間はボンヤリして落ち着かず、居心地は悪く、座るイスもない。

それぞれの先端にある陣営から聞こえてくる声に戸惑い、時間の無駄遣いなのではと脂汗がにじみ出る。いっそ座禅でも組んで忘我しちゃえば救われるのだろうか。

それでもひたすらジワジワし続けてると、双方が主張する「答え」とはまた違った風景が見えてくる。

『FAKE』において、それは例えば「豆乳」。


佐村河内さんが奥さんの手作りハンバーグを食べる際、1ℓ紙パックから豆乳をごっぷごっぷグラスに注ぐんですね。表面張力いっぱいまで。照明を落とした暗い部屋で、佐村河内さんは静かに押し黙ったまま、その豆乳をぐびぐびと一気に飲み干す。

飲み終わった後、佐村河内さん今度はどうすると思います?

もう一杯注ぐんです。
表面張力ぎりぎりまで。


見かねてカメラレンズのこちら側にいる森監督が声をかけます。

森「(食事の前に豆乳をぜんぶ飲むのは)なにか理由があるんですか?」

佐「………。
豆乳が大好き…」

ボソッと答える佐村河内さんの言葉を聞いた瞬間、目の前がパッと開けていくような感覚になるわけです。

「あぁこのおじさんは、モノでもなくケモノでもなく、生のヒトだ!」と。

フラッシュがパシャパシャ焚かれるなか、自信満々に何事か発表したり、何十秒間も頭を下げ続けて謝罪している映像とは違う、血の通ったぐにゃぐにゃの肉体だ!ってなんか感激してしまうんです。



考えるために必要な「余白」



今やウソかホントかの境界は腐って溶けておりますが、両極に属する人たちによる「我こそが”正”なるぞ」というアジテーションはいよいよ音量が大きくなってきております。

自らの立ち位置を高くするため、相手陣営の足下を掘り下げて徹底的に落とし込み、とにかく叩いて、踏み潰して、すり潰して、粉々になってもまだ許しません。

嘲り笑って吊るし上げ続けます。

根拠のない情報をもとに誹謗中傷をあおりまくり、あげく自殺者まで出すに至った首長選挙があったのもつい最近のこと。



ちょっと話は変わるんですが、
アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館ってありますよね。ポーランドに。

第二次世界大戦中にナチ・ドイツが作った
最も有名な「絶滅収容所」跡


そこのガイドをやられてる方々は皆さん

「観るものを圧倒しない」


という心構え・信条を持っていると聞いたことがあります。


圧倒ってどういう事かといえば、例えばBGMなどで被害の悲劇性をあおるとか、怒りとか憎しみを際立たせる文言で解説するとか。

そういう演出や説明のことなんだと思います。

アウシュヴィッツで起こった事を思えば、ちょっとでも油断すればすぐ「圧倒」する展示の方向に進んでしまいそうですよね。

Panoramer360, CC BY-SA 4.0


感情をあおる、観るものを圧倒する演出って「こう感じるべし!」とか「答えの先出し」みたいなところがあると思います。

悲しみとか怒りとか、観客はその演出された感情を追認するだけになっちゃって、自分自身で受け止める余地がなくなっちゃうというかね。

とすれば、
「圧倒しない」ことで何が起こるのか。

無用な意見の対立やミゾの発生を回避できるって意味合いもあるかもしれません。
しかし、何より一番大事なのは、

圧倒しないことで「余白」を生む

ことなのではないかと思います。

起こった事実だけを伝える。
「答え」は提示しない。
「余白」を埋めるのは来館者自身。


このスタンスは、人類史に残る巨大犯罪を保存し続ける博物館として大変力強いなと思います。


すべての映画がそうであれとは思いませんが、自分の頭を使って埋めなきゃならない「余白」のある映画がたくさんあると良いなと思います。




真っ白で自由な空間


『FAKE』の劇場公開当時、【観た人同士で感想を猛烈に話したくなる映画】ってことでも話題だったんですよね。

©2016「Fake」製作委員会


それだけ観客側にとって、考える余白のある映画だったんでしょう。

余白は自由ですから。

「聴覚にはこういう特徴があって」
「音大出身の友人はこう言ってて」

なんて色々しゃべれるわけです。

断定口調の味付けの濃い言葉には余白がありません。自由がありません。
一つの答え。一つの解決法があるだけ。

考える必要がないのは確かにラクなんですが、考える必要がないのは窮屈で苦しいです。

映画のラスト、森監督に「これが最後の撮影になりますが、いま僕にウソをついてることはないですか?」と質問されたときの佐村河内さんの答えはこうです。

「……うーん」


どちらか分からぬまま映画は終わります。

真っ白に広がる余白です。

答えが分からないことは、観る人によっては不快かもしれません。
でも答えが分からないのは、自由で爽やかなことでもあります。

<終>


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