ニディガアニメの普通の感想 ちゃんと旧エヴァやカラマーゾフへのアンサーになってるよ。あとは藤本タツキとかベテランちとか。
俺は結構このアニメ面白いと思ったんだけど、
ネットを探してもまともな感想があんまりないので書きます。
にゃるらの生育環境ガーとか、昔のギャルゲーの雰囲気の冷凍保存ガーとかもまあ真だとは思うんですけど、普通にアニメとしてどうだったかの話がしたいです。(バルト)
結論から言うと、俺はこの作品は「それでも現実を生きられない人はどう生きれば良いのか」を描いたという意味で、
しっかり旧エヴァやらカラマーゾフの兄弟やらへの幸福論的なアンサーになっていたと思うよ。
ということで賢しらな批評、書いてやるぜ。
(こういう感想書く時は一応アニメを見てない人にも意味が取れるように書くべきなんだけど今回はちょっと無理)
要するにどう生きれば良いのか
人生の分岐は、
1:社会に迎合できる人間が社会に迎合する
2:社会に迎合できる人間が社会に迎合しない
3:社会に迎合できない人間が社会に迎合する(しようとする)
4:社会に迎合できない人間が社会に迎合しないで引きこもる
4’:社会に迎合できない人間が社会に迎合しないでその感性のまま突き進む
くらいのものです。ここで「社会に迎合できる」は「隣人に優しくできる」と言い換えて良いし、「道徳を理解できる」と言い換えても良い。

このアニメにおいてはそれぞれ
1→かちぇ
2→ねちか様
3→ラストで超てんちゃんと海を見に行ったオタク/7話の喫茶店で出てきたモブたち
4→超てんちゃんのストーカー、あるいは13話での超てん+カラマーゾフのifルート
4’→超てんちゃん、みちか、ロリポップ
という配置ですね。
旧劇エヴァでは、2,4の人たちに、ちゃんと隣の人と向き合えと喝をいれたわけで、またカラマーゾフの兄弟でも、一本の葱になぞらえて、2,4の人たちに、結局隣の人を助けることくらいしかできないよと(長老は)説いたわけ。
翻ってこのアニメは、3,4の人に対し、4’の生き方もあるよと提示している。あなたのその瑞々しい感性には価値があり、それを持って突っ走るという生き方もあるよと。
突っ走るというのは、その感性を何かしらの作品に昇華し世に問うということ。
(※ここでいう”作品”とは、別にゲームやアニメを作ることだけではなく、ブログでもTwitterの140字でも何でも良い)
そういう形での社会参加もありうる。
そうやって走った結果、本当にほしかったもの(話を聞いてもらえる友達)も手に入るかもしれないよと。
カラマーゾフの兄弟的に言えば、フェラポント神父にも友達はできるかもしれないぜってことですね。

もちろん、その生き方は致死性が高いし、(それはifルートでのミチカの死などで何度も示されている)そもそも、やっぱり引きこもっていた方が幸福だったかもしれないわけだが。
だから、このアニメを見て俺が一番想起したのは「ルックバック」と「チェンソーマン二部」ですね。
ルックバックでは、どんな不幸なことがあっても私(藤本タツキ)はマンガを描き続けるという前向きな諦めで締められ、
チェンソーマン二部では、現実は確かに甘かったけど(承認も女も手に入れられるようになったが)それでもマンガを描き続けるのが私(藤本タツキ)にとっては「ほんとうのさいわいだった」という回帰で締められる。

こう見ると藤本タツキはにゃるらよりも更に自閉しているのかもしれないが・・・
閑話休題。要するに、感性を道徳という金型に押し込める作業に失敗した(”私”ではなく)そこのお前やお前”も”、その感性を世に問うことをすれば幸せになれるかもしれないよというのが、この作品の新しかった部分だと思うのだ。
「そこのお前やお前」程度の人間が発信活動をできるようになったのはごく最近のことだしね。
なにが「ほんとうのさいわい」なのか
ただし、そこのお前やお前が例えば発信をしたとて、幸せになれるとは限らない。いや、正確に言えば、さっきの1~4’の生き方はもちろんもっと細分化されるし、それ以外の生き方もあるわけで、たどり着いた生き方を正解にするしかないよね、というのがこのアニメの最後に言いたかったこと。
だから、一般人かちぇは結婚して幸せを手に入れるし、ロリポップやミチカは夢を見つづける。やりきった超てんちゃん(=頂点ちゃん)はネチカ様という友達を得る。

・・・ここでまた横道に逸れるが、現実を捨てて虚構の世界からも裏切られた超てんちゃんを救うためには、現実+虚構を上回る超現実のようなものを提示しなければならない。
だから、このアニメ世界には”現実”と”超現実”がある。
つまり、かちぇはアニメ内の”現実”を生きるが、ネチカ様はアニメ世界の外からやってきていますよね。だからネチカ様だけキャラデザもちょっと違う感じがするし、ネチカ様がカムパネルラなのだ。ネチカはアスカ。
ちなみに現実組はおっぱいがデカい。
閑話休題。ただ、この「たどり着いた道を正解にするしかない」という態度は極めてギャルゲー的だし、この作品ではそれを拡大解釈しているよね。
ルルーシュは確かにゼロ・レクイエムにたどり着く事がTrue Endかもしれないが、それはそれとして途中でシャーリィとくっついて等身大の幸せを手に入れても良い。確かに「コードギアス」世界では、それらはトレードオフかもしれない。
翻って、このアニメでは「自分の感性を殺さずクリエイターとして大成する」ことと「等身大の幸せを手に入れる」ことはまるでトレードオフのように書かれているがそんなことないだろ。
確かに賢治もキルケゴールもゴッホもゴダールも家族には恵まれなかったかもしれないが、ドストエフスキーは兄と同人誌つくったり嫁さんつくったりしてたろ。
賢治も、キルケゴールも、ゴッホも、ゴダールも、ドストエフスキーもきっと雪の中に天使をみたよ
別にグレートヒェンやヨル(アサ)から逃げなくても掴める幸せってあるし、両方手に入れるというベテランちのようなマッチョな姿勢の方が俺は好きだね。
その他感想
あくまでこの「感性を発信してみろよ」というのはこのアニメにおいて”も”1つの処方箋でしかない。俺はこのアニメに通底する、内容自体は高度に自閉しているくせに個々人の価値観だけは相対化しようとしている雰囲気が好きだ。
感性を閉じ込めて自閉したい人は結局コンテンツにしか癒されないので、
にゃるらが通ってきたコンテンツ(QUEENとかマリリンマンソンとか小室哲哉とかゴダールとかキューブリックとか宮沢賢治とか寺山修司とかとかとかとかとかとか)を「オススメ」することで、インターネット・サブカルチャーオンリーの感受性から解放しようとしている。(インターネットはエンドコンテンツのようにみえてエンドコンテンツではないので)
幸い人生は面白いコンテンツを消費しきれない程度には短い。
ラッセルの幸福論ド真ん中ですね。
多くの事物に興味を持てば持つほど、より多くの幸福の機会をもつことができる。そしてそれだけ運命の慈悲にすがらなくてすむ。なぜなら、好奇心が強く多くの興味の対象を持っている人間は、一つの事物を失っても、別の事物に目を移すことができるからである。あらゆる事物に対し興味を持つには人生は短すぎるが、毎日の生活を満たすに足るほどの多くの興味を持つことは幸福なことである。
また、個人的に違うんじゃないかと思ったキャラクターが一人いる。
かちぇと結婚したラーメン屋の店主だ。

あのシーンはラーメン発見伝と幽白のパロディなので、
ラーメン屋の店主自体は、藤本クンと浦飯幽助を足して2で割ったような、とっても良いやつなのだろうがそれはそれとして、
かちぇに渡す指輪をロリポップから「貰う」ってのは男らしくないよ。
(しかもかちぇのピアスのお返しとして!)

あそこは、旦那になる人間としてふさわしい行動は、「分割払いで買う」とか「安くても自分が買える上限を自分のお金で買う」かだったはずだ。
それに気づきながら貰うかちぇもかちぇだよ。
まあ、それも味だね。そもそも、ミチカとラーメン屋を同じリアリティで描ける人なんているわけがないから。
