日本とポーランドの保育!?(前編)
ぼくたちがやっている保育は、
これだ!という「正解」があるわけではなく、
時代や文化、歴史のうえに立つ
一つの形に過ぎない。
その感覚をよりリアルにするには、
いろんな保育のあり方を感じることだと思う。
ということで、先日見てきた
ポーランドの保育について考えてみたい。
日本の保育にある「余白」
まず、海外の保育について考える前に、
日本の保育について目を向けたい。
日本の保育に関するナショナルカリキュラム
(保育所保育指針等)を読むと、
そこには結構な「余白」がある
(これらをナショナルカリキュラムと呼ぶかについては議論がある)。
ここでいう「余白」があるとは、
やるべき「活動」が
あれこれ示されていないということ。
小学校以降と比較すると分かりやすい。
学習指導要領には、
「九九」は第2学年と明示されている。
しかも教科書会社は、
「九九は20時間程度」みたいな目安も
示してくれている。
他の教科も同様だ。
でも保育では、
「年長児は10時間、氷鬼をする」
なんてことは書いてない。
日本にも「余白」がなかった時代がある?
ただ日本でも、
活動が明確になっていた時代がある。
1964年の幼稚園教育要領や
1968年の幼稚園教育指導書には、
鬼遊びとして「追いかけ鬼」「まる鬼」など
示され、それぞれどう遊ぶか、
どんな発展が考えられるかなど、
とても親切に書いてある。
音楽やリズム遊びでも、
カスタネット、タンブリン、トライアングルなど
事細かに楽器が明示されていたり、
「かごめかごめ」「はないちもんめ」など
具体の内容が書かれている。
でも、いまの保育所保育指針などには、
こういう具体的なことは書いてない。
専門性への信頼としての「余白」
ではなぜ、
いまの保育には「余白」が求められているのか?
それは、
乳幼児期は発達の個人差も大きいし、
遊びが学びだから。
内発的動機による遊びの方が、熱中・没頭につながる。
つまり、遊び(学び)が沸き起こるのだ。
だから、その子なりの、あるいはその時々の
興味・関心に基づく活動を大切にするなら、
あらかじめ決められた活動ではなく、
創発的に生まれてくる活動や遊びが
いいということになる。
ただ、
決まっている活動を進めていく方が楽ちんだし、
創発的な遊びや活動をデザインしていくことの方が難しい。
だから「余白」があるということは、
そこに保育者の専門性があるということであり、
保育者の専門性への信頼を表しているといえる。
保育者ならやってくれるだろう、
やってくれるに違いない、
任せたよと。
この豊かな「余白」こそが、
日本の保育の特徴の一つであり、
日本の保育者のプロとしての誇りなんだと、
ぼくは思っている。
では、この視点をもって
海外、ここではポーランドの保育に
目を向けてみたい。
(後半へ続く)
