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林子平に聞く🎤鎖国の国で、なぜ海の向こうの危機が見えたのか🌙千夜一夜物語第150夜 日本語版


黒船より六十年以上前に鳴らされた警鐘

1853年、ペリー艦隊が浦賀沖に現れ、日本は外国の軍艦がもたらす圧力を目の前で知ることになった。しかし、その六十年以上も前に、日本が海から攻められる危険を訴えていた人物がいる。
仙台藩ゆかりの思想家、林子平である。
林子平が生きた18世紀後半、日本はいわゆる鎖国体制の中にあった。海外との交流は厳しく制限され、多くの人にとって外国は、地図の端に書かれた遠い世界だった。
だが、世界の側は日本を忘れていなかった。ロシアはシベリアを東へ進み、千島列島や蝦夷地に近づいていた。欧米諸国も航海力と軍事力を背景に、アジアへ進出していた。
日本が外国を見ないようにしていても、外国から日本が見えなくなるわけではない。
林子平は、その単純だが恐ろしい現実に気づいた。欧米の植民地政策やロシアの南下を知り、日本は四方を海に囲まれた「海国」である以上、長崎だけでなく全国の沿岸を守らなければならないと考えた。(jmapps)

本を読むことから始まった少年

林子平は1738年、江戸で幕府に仕える武士の家に生まれた。3歳のころに父が職を失い、医師である叔父に育てられた。幼いころから本を好み、分からないことがあると、周囲の大人に質問して回る子どもだったという。
20歳になるころ、兄とともに仙台へ移った。兄は仙台藩に仕えることができたが、子平自身には藩からの正式な役職も給与もなかった。後に「無禄厄介」と呼ばれる、兄の扶養を受ける立場で生活することになる。
普通なら、不遇な身分と考えるところだろう。しかし、子平は違った。
藩の役職がないから、役所に毎日出なくてもよい。給与がないから裕福ではないが、行動は比較的自由である。
林子平は、身分の弱さを、移動する自由へ変えた。
友人から旅費や生活用品を借りながら、江戸、長崎、蝦夷地などを訪ね、学者、商人、蘭学者、外国事情に詳しい人々から情報を集めた。(仙台市公式サイト)

海の向こうから近づく足音

長崎は、海外情報が集まる重要な場所だった。林子平は日本人と外国人の会話が厳しく制限されていた時代に、出島のオランダ商館関係者からロシアの動きを聞き出した。
ロシアが日本を狙っているという話を耳にした子平は、事実を確かめようとした。そして、ロシア船が蝦夷地周辺の海に現れ、北から南へ進んでくる可能性があると知り、大きな衝撃を受けた。
当時の日本では、藩ごとに防衛を考える傾向が強かった。仙台藩は仙台藩を守り、薩摩藩は薩摩藩を守る。しかし、外国の艦隊は藩境を尊重してくれない。
林子平が考え始めたのは、仙台藩だけの問題ではなく、日本全体の海岸線を誰が、どのように守るのかという問題だった。

『三国通覧図説』と『海国兵談』

林子平は、周辺地域の地理を知らなければ国を守れないと考え、朝鮮、琉球、蝦夷地などの地理や位置関係を示す『三国通覧図説』を著した。
さらに、日本の海防体制を論じる全16巻の『海国兵談』を書いた。そこではロシアの南下への警戒、沿岸防備、大砲、海戦、大型船の必要性などを説いた。(HugKum)
子平の有名な認識は、江戸の日本橋から中国やオランダまで、海には境がないというものだった。
陸上には関所がある。藩境もある。通行手形も必要である。
しかし、海の上には幕府の関所札など立っていない。
海は、日本を守る堀であると同時に、外国を江戸まで運ぶ街道でもあった。
それでは、本人に話を聞いてみよう。

インタビュー開始

――まず、自己紹介をお願いします。
林子平:林子平です。江戸に生まれ、後に仙台で暮らしました。藩から禄をいただく立場ではありませんでしたが、日本の政治、経済、地理、軍事について調べました。特に、日本の海岸を外国からどう守るかを考え、『三国通覧図説』と『海国兵談』を書きました。
――仙台藩の正式な役人ではなかったのですね。
林子平:はい。役職も給与もありません。現代風に言えば、所属なし、固定給なし、研究費なしです。
――かなり厳しい研究環境です。
林子平:ただし、上司もいませんでした。
――急に魅力的に聞こえます。
林子平:自由には、給料が付いてこないことがあります。

なぜ海の向こうの危機が見えたのか

――鎖国の時代に、なぜ外国の危機を見ることができたのですか。
林子平:鎖国とは、外国が消滅する制度ではありません。日本側が交流を制限している間にも、外国では航海術が進歩し、軍艦が造られ、領土が広げられていました。
――多くの人は、その動きを知らなかった。
林子平:知らないというより、自分の生活には関係がないと思っていたのでしょう。蝦夷地に外国船が現れても、江戸や仙台からは遠い。しかし、外国船にとって海はつながっています。
――遠くの危機が、そのまま遠くにとどまるとは限らない。
林子平:そのとおりです。距離が安全を保証するのは、相手に移動する力がない場合だけです。

情報は、待っていても届かない

――情報はどのように集めたのですか。
林子平:本を読み、人に会い、旅をしました。江戸や長崎へ行き、外国事情に詳しい人の話を聞きました。自分の考えに都合のよい話だけでなく、反対意見にも耳を傾けました。
――インターネットも鉄道もない時代です。
林子平:情報を得るには、自分の足で情報のある場所まで行くしかありません。
――旅費も相当かかったのでは。
林子平:友人に助けてもらいました。生活用品を借り、旅費を工面してもらうこともありました。
――クラウドファンディングの先駆けですね。
林子平:資金提供者への返礼品は、外国の危機についての長い話です。
――支援者には少し重い返礼品です。
林子平:国防の話は、軽量化できません。

なぜ仙台藩だけでなく、日本全体を考えたのか

――当時は藩の時代です。なぜ日本全体の防衛を考えたのですか。
林子平:外国から見れば、仙台藩も薩摩藩も幕府領も、一つの列島の一部です。敵が「ここから先は別の藩なので攻撃を控えよう」と考えてくれるでしょうか。
――藩ごとの防衛では限界がある。
林子平:海岸線はつながっています。一か所の備えが弱ければ、そこから入られる。国防を藩ごとに分断して考えるのは、屋敷の部屋ごとに別の主人がいて、玄関の鍵を誰も管理していないようなものです。
――かなり危険な共同住宅です。
林子平:しかも、海側の窓は開いたままです。

なぜ長崎だけでは足りなかったのか

――幕府は長崎で外国との接触を管理していました。それでは不十分だったのですか。
林子平:外国船が必ず長崎から来るという約束はありません。海は道です。相手は自分に都合のよい場所へ来ます。
――受付窓口を長崎に限定しても、侵入者は受付を通らない。
林子平:そのとおりです。幕府は外国との交渉場所を管理できても、外国船の航路まで命令できません。
――江戸湾も危険だと考えていたのですか。
林子平:当然です。政治の中心である江戸が海に近い以上、相模や安房を含め、湾の入口を厳重に守る必要があります。(東京都立図書館)
――その六十年以上後、実際にペリーが江戸湾へ来ます。
林子平:随分と遅れて届いた答案ですね。

『海国兵談』は何を訴えた本なのか

――『海国兵談』は、単なる外国排斥の本ですか。
林子平:外国人を嫌えば国を守れる、という本ではありません。相手の船、武器、航海術を知り、日本側も大型船、大砲、海軍力を整えなければならないと述べたものです。
――精神力だけでは足りない。
林子平:勇気は必要です。しかし、勇気だけで大砲の射程は延びません。
――武士が刀を持って海岸に並べば何とかなる、とは考えなかった。
林子平:相手が沖から砲撃するなら、こちらも海上と沿岸から対抗できなければなりません。戦い方が変われば、備え方も変えなければならない。
古い武器への誇りは、新しい武器への対策にはならない。

なぜ幕府から危険視されたのか

――国を守るために書いた本なのに、なぜ幕府から処罰されたのですか。
林子平:幕府から見れば、私は正式な役人でも軍事責任者でもない。それにもかかわらず、国防体制の不足を公に論じました。
――内容が間違っていたからではなく、勝手に論じたことが問題だった。
林子平:それだけではありません。海防が不十分だと書けば、幕府の統治能力に疑問を投げかけることになります。
――「危険がある」と言うことが、「幕府は何をしているのか」という批判になる。
林子平:危機を指摘すると、危機そのものより、指摘した者の声がうるさいと言われることがあります。
寛政の改革では出版統制が強まり、『海国兵談』も幕府批判と受け止められた。林子平は「世を惑わす説」を広めたとして、版木を没収され、出版停止と蟄居を命じられた。(山口県文書館)
――幕府を倒そうとしたのですか。
林子平:いいえ。幕府に国を守ってほしかったのです。
――守ろうとした政権から罰せられた。
林子平:組織は、ときに外からの警告を攻撃と間違えます。

わずか38部の出版

――『海国兵談』は何部出版されたのですか。
林子平:千部を目標にしました。
――実際には。
林子平:38部です。
――かなり目標との差があります。
林子平:資金が足りませんでした。全16巻ですから、版木を作るだけでも大仕事です。印刷を引き受けてくれる店も簡単には見つかりません。
林子平は自ら版木を彫り、友人の協力を得ながら出版を続けた。1791年に全巻を刊行したものの、資金難のため38部にとどまり、翌年には幕府によって版木を没収された。
――38部では、ほとんど広まらないのでは。
林子平:本は没収できても、読んだ人の記憶までは没収できません。

禁書は消えなかった

幕府が版木を没収しても、『海国兵談』は消滅しなかった。残された本を友人や読者が書き写し、写本として受け継いだ。
海防問題が現実味を増すにつれて、その内容は再評価される。幕末には海防論を考える人々に読まれ、1851年には再び刊行された。(国立国会図書館サーチ(NDLサーチ))
――出版を止められても、写本で広がりました。
林子平:禁止された本は、内容によっては普通の本以上に読まれます。
――幕府が宣伝してしまったようなものです。
林子平:版木は没収されましたが、口コミの版木までは見つからなかったのでしょう。

警告の直後にロシア船が来た

林子平が処分を受けた時期と重なる1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本との通商を求めた。
幕府が「世を惑わす」と判断したロシア南下への警告は、すぐに現実の外交問題となった。(JapanKnowledge)
――ロシア船が来たと聞いたとき、どう思いましたか。
林子平:当たってほしくない予測が当たりました。
――自分の正しさが証明されて、うれしかったのでは。
林子平:国の危機を予測する人間にとって、最もよい結果は、予測が外れることです。
――警告が採用され、危機が回避されること。
林子平:そうです。「私の言ったとおりになった」と喜んでいる場合ではありません。

早すぎた警告者の孤独

――まだ危機を感じていない人に、危険を説明するのは難しかったですか。
林子平:非常に難しい。目の前で火が燃えていれば、誰でも水を持ってきます。しかし、遠くに煙が見えるだけでは、「こちらまで来ない」と言う人が多い。
――不安をあおるな、と批判された。
林子平:警告には根拠が必要です。しかし、根拠を示しても、聞きたくない人は「大げさだ」と言います。
――では、どうすればよいのでしょう。
林子平:一度で理解されなくても、記録に残すことです。すぐ採用されなくても、後の人が使える形にしておく。
先見性とは、未来を当てて得意になることではない。未来の人が間に合うように、現在の人へ嫌われながらでも警告することです。

「六無斎」と名乗った晩年

蟄居を命じられた林子平は、親も妻も子も版木も金もないと嘆き、自らを「六無斎」と称したと伝えられる。それでも「死にたくも無し」と続けたところに、彼のユーモアと執念が見える。(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)
――本当に何もなくなったのですか。
林子平:版木はありません。金もありません。自由もかなり減りました。
――それでも、考えは残った。
林子平:考えまで幕府へ提出した覚えはありません。
――かなり強いですね。
林子平:危機について考え続けた人間が、自分の処分程度で驚いていては困ります。
林子平は1793年6月21日、兄の家で蟄居中に56歳で亡くなった。(仙台市公式サイト)

林子平の警告は正しかったのか

林子平の地理認識や軍事論のすべてが、現代から見て正確だったわけではない。入手できる情報は限られ、伝聞や不確かな資料も含まれていた。
それでも、彼が示した基本認識は鋭かった。
日本は海に囲まれている。海には国境線が描かれていない。外国の技術と行動範囲は広がっている。従来の制度だけでは、新しい脅威に対応できない。
その後、ロシア船、イギリス船、アメリカ船などが日本周辺へ現れ、幕府は海防と外交への対応を迫られた。仙台市博物館も、後の歴史が林子平の警告の重要性を証明したと説明している。(仙台市公式サイト)

現代にも現れる「見えない黒船」

――現代の日本を見たら、どのような危機を考えますか。
林子平:現代の危機は、必ずしも軍艦の姿で来るとは限りません。
――例えば何でしょう。
林子平:情報、通信、エネルギー、食料、技術、金融、感染症。国境を越えるものは、すべて海路に似ています。
――現代にも「境なしの水路」がある。
林子平:インターネットなど、海より速いでしょう。
――鎖国はできませんね。
林子平:接続を切れば安全になるとは限りません。外の変化を知らない国は、安全になったのではなく、危険を発見できなくなっただけです。
――では、国を守るために必要なことは。
林子平:相手を知り、自分の弱点を知り、危機が来る前に備えることです。そして、都合の悪い警告をした人を黙らせる前に、その警告が事実かどうかを調べることです。

国を守ろうとした本が、国から禁じられた

林子平は、幕府を滅ぼそうとした革命家ではなかった。むしろ幕府に、外国の進出を直視し、全国的な海防体制を整えてほしいと願った。
しかし、彼の警告は幕府の権威と政策の不足を浮かび上がらせた。そのため、外から来るかもしれない脅威より先に、国内で警告する人物が処分された。
組織が危機に弱くなるのは、情報がないときだけではない。都合の悪い情報を、組織への敵意と判断するときである。
林子平が見ていたのは、ロシア船だけではなかった。
海によって世界とつながる日本の姿であり、変化する世界の中で、古い仕組みにとどまり続ける危険だった。
――最後に、現代を生きる人へ一言お願いします。
林子平:皆が危険だと言い始めてから備えるのでは遅い。
――早く警告すると、大げさだと言われます。
林子平:遅く警告すれば、なぜ早く言わなかったと責められます。
――警告者は損ですね。
林子平:それでも、言わなければならないことがあります。
――なぜですか。
林子平:危機を見つけた者の役目は、自分が正しいと証明することではありません。危機が現実になる前に、誰かを動かすことです。

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