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糖質中毒は自責か他責か、音楽中毒は能動か受動か (サンタナのことは何も知らなかったしこれからも知らない。そしてストゼロ飲んで軽く閾値を超えてみよう)


いつものように外猫ズ🐱が朝食に集まったところでクルマに乗り込んだ。最近は「蚊」が入りませんように! とお祈りしつつ速やかにドアの開け閉めをする。昨日もそうして家を出ていった。

足が痒い。靴下をさげて掻く。追い払ったつもりの一匹が、やはりいた。しばらく窓を全開にして、まあいっかと閉めたとたん ドロ〜ンとドローンのようにフラフラ浮かび上がってきた。

反射的にクソッ! と握った左手に、俺の血をたらふく吸って重たくなっていた蚊は楽勝でおさまった。手を開くと潰れた蚊で血まみれになっている。いったん蚊の血になった俺の血で。

気持ち悪い (過剰防衛で懲役5年だろうか)

それにこの季節、真正面から朝日を浴びる地点があって、信号🚥や、走る視界さえ見えなくなったりする。本当は止まらなきゃなくらい。しかし、ここで人を轢いたり事故を起こしたら言い訳にもならない (安全運転義務違反で懲役15年だろうか)



荻上チキさんがラジオで何だか体調がいいことに気づくといっていた、涼しくなった日に。
それが全てではないにせよ、体調が悪く感じていた6割? 以上は猛暑のせいだったんだなと。

毎朝、毎昼スクワットするときわたしも気づいた。猛暑に入ったころから屈伸の上げ下げ一つひとつが、非常に重荷になっていたのだ。それが突然、軽くなった。猛暑は 「続いた」 のだ。

懲役3ヶ月 (環境破壊の罪) だったのだろうか。



糖尿境界型パイセンとの、難解なフリー・ジャズを聴いてみるムーブが続いている。どういう話のながれだったか…そうだパイセンの永遠なるアイコン、カルロス・サンタナが、アリス・コルトレーンと共作した『啓示』(名盤!) を貸してくれて、今度はわたしが見っけたアリス・コルトレーンとジョン・コルトレーンの共作『コズミック・ミュージック』を見っけてきて聴いてもらう…というところからだった。

フリー・ジャズといえば、なんちゃって話になるのだが…もはや40年以上も前になる若い頃、当時読んでた中上健次と村上龍の対談によく出てくるコルトレーンやアイラーのレコードを、すぐには買えなかったが、その後のCD化💿ラッシュにより入手、やっと聴くことができた。

しかし『スピリチュアル・ユニティ』の、何がいいんだか全然わかりません。その後も思い出したように引っ張り出して聴いても、何度か聴いてもよくわかりませんでした。

久しぶりに今回、それがやっとわかるチャンスかも! と、懲りずに💿をダビングしてパイセンに聴いてもらうことにした。それと同時に「人に薦めたものは改めて自分でも確認聴きしたくなる法則」を利用し良さがわかれ! と聴いてみた。

パイセンもわたしも、やはりダメだった。

そして今度はまた、パイセン側がカルロス・サンタナの💿を発掘してきてくれて、前に気になっていたと伝えていた『ONENESS』からさっそく聴いてみた。サンタナとてもよかった。

スピリチュアル・ユニティの刑 (懲役1時間)
その明け直後だったせいもあるのだろうか。
ちなみに同時にお貸しした中上健次だか村上龍だかが推していたコルトレーンの『クル・セ・ママ』の方は今回よさがわかってしまった。

あれやこれやと能動的に、受動的に、工夫を重ねたりして、相対的に聴き比べたりなんかして
そうしてやっとたどりつける音楽がある。
(しかし何をしているのだろうかとも思う😅)



猛暑で脂肪肝続出! 「果糖ブドウ糖液糖」の怖さ
(職場の安全衛生委員会ニュースレターより)


人はぶっ叩かれなきゃ痛みがわからないし、
足を踏まれたひとの痛みもわからない。


陰謀論さえ見分けられれば、トロピカーナとか忖度なしに言ってしまえる YouTube は最強 !


果糖ぶどう糖液糖でHbA1c (ヘモグロビン・エー・ワン・シー) が11.9%まで爆上がりし、異常な喉の乾き、頻尿、手足の痺れ、頻繁につる…などといった症状が発症するまで、そのヤバさに気づけなかったわたしとしましては…

予備軍たるまわりの人々を見ても、糖尿病はやはりどう考えても 「発症しないと気づけないシステム」 といわざるを得ないし、ここでもそう標榜してきたが、軽傷の段階でよくないとされるものを止めることはできないかと考えていたら、思い出したことがあって。

ストゼロのこと。ある時期『ストロングゼロ』等のアルコール度数 8%とか9%とかの缶チューハイが流行ってわたしも飲んでたことがある。酔いがまわるのが早くてまさにストロング、コスパがいいなと思いつつ。

しかし夜中に頭痛がやってきて、それがなかなかおさまらないやつで。バファリンさえも効かない。ストゼロのせいだと気づくのに余り時間はかからなかった。ツイッターでサーチ🔍するとストゼロやばい系のハッシュタグも確かできてたりした。二度と飲まないことにした。

正しくバッドエンドに終れた。
今でも普通に売ってると思うが、 
自主規制、自主禁止だ。

即症状と無症状の違いはあれど、
果糖ぶどう糖液糖も同じようなものだ。

食べる飲むという能動の中の受動、
さらに中動といえる選択があったりもして…
それに気づけるかどうかが運命の分かれ道に。

選択とはこの世界に満ちあふれている事実である。行為は常に実現されなかった行為をともなっている。たとえば私がリンゴを食べたのだとすれば、それはミカンでもスイカでもなくリンゴを選んだのであり、あるいはまた、「リンゴを食べない」という選択肢ではない方の選択肢を選んだのである。その意味であらゆる行為は選択である。
世界に満ちあふれているこの事実は、さまざまな要因の総合として現れる。リンゴを食べたのは、身体にビタミンが不足していたからかもしれない。昨晩、おいしそうなリンゴの映像を見たからかもしれない。あるいは、何者かに「リンゴという果物はおいしいよ」と唆されたからかもしれない (中略) 
とにかく、過去にあったさまざまな、そして数えきれぬほどの要素の影響の総合として、「リンゴを食べる」という選択は現れる。それはつまり、過去からの帰結としてある。

過去の要因の総合としての「選択」
國分功一郎『中動態の世界』新潮文庫より


國分功一郎さんはそのように考えて、そこから「過去を断ち切るものとしての『意志』」について、「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのか、そのリンゴは実は食べてはいけない果物であった場合に、食べてしまった責任を問割れねばならなくなったとして、その確定のために呼び出される「意志」についての考察へと進めていくのだが。

依存症 (摂食障害も含まれます) は「意志」と「責任」をめぐる問題と言われることがよくあります。だから患者さんたちは「意志が弱い」「甘えている」そして「無責任」と批判されてしまいます。このような人々の誤解は、依存が「能動」であるとみなすことから始まっています(中略)
というような議論はさておき、過食症のことを考えたいと思います。過食の人たちが食べるのは、食べ物を(自分の意思で)食べるという「能動」的な行為でしょうか、食べさせられるという「受動」的な行為でしょうか。

 周りの人たちはそれを「能動」であるとみなして(だから「意志」の問題と見て)、過食なんて甘えだと言う人たちがたくさんいます。しかし、能動的に食べようという意志で食べているのでないことは明らかです。

「依存・回復を能動・受動でなく『中動態』で捉える」
福島お達者くらぶだより(2019年4月19日発行)より


食べる・飲む、が中動態なのかどうかはわからないがこの note が『糖質中毒』(牧田善二) から始まっている通り、それに共感する考えは変わらない。糖質はアディクションである。


商品を選択する楽しみ、購買行動の自由。
快楽とは五感である。五感の、半ば無意識に埋め込まれているその人を代表する感覚に巧みにうったえかけ (それは視覚なのか聴力なのか、それとも体感覚なのか、言語や記憶なのか) 

いずれにせよその人の快感原則をのっとり味覚へと誘導し商品を買わせる。その不健康の回路 (サイクル) を操作的にこしらえ続ける現代消費社会、資本主義、つまり大手企業の責任は、これからも問われないままでいられるだろうか。

そんなはずはないと思っている。



ありがとうございました🐱

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