感染症の苦しみへの責任(叢書 感染症の人間学4)/西真如(編) 春風社
学会前日にして、読み終わった。なんか、シリーズ4冊の中で、1番衝撃を受けたかもしれない。
4巻目のテーマ
「苦しみ」はなんかわかりやすい言葉だが、そこに「責任」がくっつく。そうなると「苦しい経験」や「苦しんだ集団」だけにフォーカスが当たるだけでなく「なんでそうなったか?」にもフォーカスが当たる事になる。
本書は、世界中の様々な場所でパンデミックの負の影響がどのように配分されたかを検討する。人々の苦しみに対して責任を負うことが正義であるとすれば、苦しみの条件を問うことは、パンデミック下の世界でどのように正義が実行されなかったのかを問うことである。
この言葉だけでかなりはっきり目的が示されているのだけど、「条件」についての議論なので「なぜ」ではなく「どのようにして」を問う。
それは最近医療や公衆衛生でもよく言われるBio-Psycho-Socialモデル(生物・心理・社会モデル:BPSモデル)と同じ議論な気がする。
これを、エスノグラフィや歴史、国際開発など多角的に論じている。
多角的に見せる
あまりに多角的すぎて衝撃的なのだけど、例えば
第2章 COVID-19流行下におけるワクチン分配の死政治(玉井 隆)[pp.69-105]では、 アシル・ンベンベ「ネクロポリティクス」とそれを援用した議論を引きながら「ワクチン分配によって、「どうやって「彼ら」は救われたのか」ではなく、「どうやって「彼ら」は死んだ・死んだかもしれなかったのか」(p71)を論じ、いかに世界がアフリカにワクチンを作らせず、さらにはその配分を決めさせなかったのか?が説明されていく(p76)。
第3章 現代インド経済の光と闇――経済成長は人々の健康に資することができたのか(脇村 孝平)[pp.109-141]では、植民地政策からの負の遺産を含めてインドが抱える構造的問題が示され、
第4章 ベトナムのCOVID-19対策――中央政府はどのような対策をとったのか(小田 なら)[pp.143-180]では、コロナ禍においてCOVID-19を「倒すべき敵」として戦時下体制のような仕方で感染症対策をした様が描かれる。
この流れで描かれる他国の事を「知らない」という事自体がなんか怖くなる。
正義や責任のあり様
第5章 COVID-19流行が指し示す歴史的共謀と未来の連帯――病床確保のための交渉(西 真如)[pp.183-216]は、「共謀性」という概念を用いて、現在の医療体制構築の歴史やフェミニズムから紐解いて「患者のケアと感染予防の負荷を家庭に押し付ける」(p184)事がどういう感じで達成されたか等が論じられる。
この辺りの「医療資源不足」は、昨今の薬局界隈でもリアルに起きていて、それが多分外部からはあまり気づかれてないので、「あぁ、なんか似ている…」と怖くなる。
いつも医療体制論が出てくると「自分達が書かれてない」気分になり、「うーん」と思ってしまう。(筆者の細やかな配慮ある文章は「これを糾弾するとかじゃないんだけどね」と所々フォローはしてくれる)
ところが、第6章 アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』読解――責任と、ある自由な主体の可能性(大北 全俊)[pp.217-240]を読むとそのモヤモヤが突然晴れてくる。
様々な責任概念を併置しながら「構造的不正義への責任」について論じられる。
日常生活において相互行為をしあう人々が、構造的不正義を少しでもなくしていこうと自らを組織化し行動に向かうプロジェクトにわたしたちとともに取り組むならば、そのとき、他者に個人的に応答するために費やすわたしたちの注意やエネルギーは、同時に、正義を実現するための政治的責任に費やされる注意やエネルギーとなるのだ。
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要するに、私が医療に関する「あの時」の色々についての議論を読んでモヤモヤしているのは、「構造的不正義に加担してませんでしたか?無自覚じゃなかったですか?」と言われている事に気づけなかったからだなと思う(実際気づいてなかったけども)し、「自分達も被害者だ」という気持ちがどこかにあったのかもしれないよ?と感じた。まだ、上手く言えない。
マラリア、覚えてますか?
「2」、「3」にもマラリアが出てきて色々思い出した、などと前回書いていたが、今回の第7章 人類とマラリア(金子 明)[pp.243-287]を読んでまた色々思い出す。
そこで語られる「イタチごっこのようなマラリア対策」、「アフリカばかりがやられている」みたいな事を読みながら、マラリアを「昔習ったけど、忘れたなぁ」みたいに思っている事自体が、マラリアやそれに苦しむ人々に対する想像力が無くなっているからだ、と気付かされてハッとなった。
確かにそうやって「日常あまり見ない」疾患は「専門家じゃないとわからん」と思ってしまう傾向があるし、そういうのと医学の専門分化とは関連しているのかもしれない。
暴力
ここで、中村寛「デザイン人類学」をふと思い出す。あそこでは暴力について以下の様にかかれていた。
9.《デザイン人類学/人類学デザイン》は、介入しつつ介入の暴力を縮減しようとする点で、ケアリング(caring)に近い営みである。人や生きもの、ものごとを、それらの身体や精神、心や魂を、そしてそれらすべての関係を、癒そうとする営みであり、ときとしてそれは、加勢すること、伴走すること、時間をともにすること、そっとかたわらにあること、でもある。
そして、中村はこれに至る道すがら「緩慢な暴力」(ロブ・ニクソン)にも触れる。
この本を読んでようやく暴力や不正義をなぜ書くのか?その無自覚を暴くのか?という議論の仕方みたいなものが繋がった気がした。
おわりに
そう考えてみれば私がマラリアのことを「忘れたなぁ」とか「習ったなぁ」とか言っているのも、「緩慢な暴力」、「構造的不正義」に加担しているからなのかも??と自覚すること。
それが多分、本書(あるいは、シリーズ)から学んだ最大のことかもしれない、と思った。
もっと勉強しよう。
そして、やはりこういう事こそ医学・薬学教育で教える方がいいんじゃなかろうか?と思った。
