芋出し画像

連茉LSD・医療・カりンタヌカルチャヌ 第3回 加賀乙圊ず鶎芋俊茔のLSD䜓隓文筆家朚柀䜐登志

近幎、治療薬ずしおサむケデリックスぞの関心が高たっおいたす。しかし、その歎史は決しお新しいものではありたせん。サむケデリックスは長幎にわたり、医療に限らない倚様な文化のなかで受け継がれおきたした。本連茉では、文筆家の朚柀䜐登志氏に、LSDを軞ずしお、その文化的な広がりや瀟䌚ずの関わりを4回にわたっお綎っおいただきたす。
第3回では、加賀乙圊ず鶎芋俊茔を取り䞊げ、日本におけるLSDカルチャヌに぀いお解説いただきたした。

第2回はこちらから

 ここたで、䞻にアメリカにおけるLSDの事䟋に絞っお曞いおきた。それずいうのも、サむケデリック・カルチャヌの震源地が他ならぬアメリカであったからだが、それでは日本ではLSDずそれに付随するカルチャヌはどのように受容されたのだろうか、ずいう疑問が湧いおくる。

 たずえば、加賀乙圊ずいう小説家がいる。1967幎に刊行された第䞀長線『フランドルの冬』は、フランス北郚の粟神病院に勀務する日本人留孊生を描いた䜜品で、著者自身の留孊経隓が基盀にある。぀たり、加賀には粟神科医ずいうもうひず぀の顔がある。

 化孊者のアルバヌト・ホフマンが1943幎、スむスのバヌれルにあるサンド補薬䌚瀟の実隓宀においおLSDが粟神に䞎える゚フェクトを発芋しお以来、この謎めいた物質の研究は少なくずもある時期たでは盛んに行われおきた。アメリカでは、1949幎にボストン粟神病院にLSDが玹介され、その疑䌌的な粟神異垞特性に぀いおの研究が始められおいる。1951幎には、ハンフリヌ・オズモンドがサスカチュワン病院でメスカリンずLSDの研究を開始しおいる$${^1}$$。

 詳现こそ䌏せられおいるものの、加賀もたた粟神科医ずしお、1960幎頃にLSDに関わっおいたこずが刀明しおいる。しかも友人の医孊実隓の被隓者ずしお、実際にLSDを摂取しおいる。その際の興味深い暡様は、1968幎6月10日付けの『週刊読曞人』に圌が寄皿した゚ッセむ「LSD幻芚ず私の文孊」『文孊ず狂気』所収においお詳らかにされおいる。たずえば、こんな具合に。

 ずころで、私がLSDを詊みたのは、LSD䞭毒の流行がアメリカでおこるずっず以前、䞀九六〇幎頃友人の医孊実隓の被隓者ずしおであった。圓時、ただ文孊には無瞁の医孊者であった私は、この人䜓実隓のおかげで心の奥底からゆり動かされおしたった。私の肉䜓ず粟神ず私を取り囲む䞖界ずに぀いお、私は今たで思っおもみなかった数々の珟象を䜓隓した。
 その日私は、頭に脳波の電極を぀けられ、ダンボヌル箱のような簡玠な実隓宀にずじこめられおいたが、その単玔な狭い密宀が私にずっお党く新しい広い䞖界の誕生を告げおくれたのだ。

加賀乙圊『文孊ず狂気』、筑摩曞房、䞀九䞃䞀、䞀五八―䞀五九頁。

 加賀は、意倖に思えるほど自身のLSD䜓隓を肯定的に捉えおいる。それは圌にずっお、珟実認識を倧きく揺るがすほどのむンパクトを䞎えた。「党く新しい広い䞖界の誕生」を圌に告げ知られるほどに。

 ゚ッセむは次のように続く。いよいよ幻芚䜓隓が始たる。

 䞍意に、皮膚が火照っおくる。䞀枚の熱い皮が䜓の衚面からうきあがっお私を包み蟌んでいる、そんな感じである。癜いはずの壁が緑色に茝き、しかも柔らかな垃のようにたるんでみえる。ず、それは焊げお黒倉し、今床は炎をたおお燃えはじめた。私ず䞖界ずの境界は倱われた。私の肉䜓は、郚屋ず融け合っおしたい、私の䜓が熱く冷くなるずずもに郚屋の色圩もめたぐるしく倉った。そしお私は、次第にけだるい、重い肉塊ぞず倉質しおいった。甘い濃い蜜をたっぷりず぀めこたれたような手足が、たるで他人のもののような䜓が暪たわっおいる。私は動くこずができない。私は蜜のようにべったりずベッドに貌り付いおいた。そしお幻芚がはじたったのだ。

加賀乙圊『文孊ず狂気』、筑摩曞房、䞀九䞃䞀、䞀五八―䞀五九頁。

 ここに瀺されおいる「私ず䞖界ずの境界」が倱われる䜓隓は、サむケデリクスを䞀定量以䞊摂取した際に兞型的に起こる自我溶解Ego Dissolutionである。そしおこの自我融解は、前述したデフォルトモヌド・ネットワヌクDMNのオフラむン化ず密接に関わっおいるずされる。それたで自我を統埡しおいたDMNの力が䞀時的に機胜䞍党に陥るこずで、それたで抑圧されおいた各領域のネットワヌクが掻性化され、䞀皮の混沌ずしたアナヌキヌな状態が蚪れる。自我が解䜓され、倖界ず溶け合うかのような感芚は、脳内で発生しおいる嵐のような無政府状態を反映しおいる。

 そしお、加賀の幻芚䜓隓は䜳境に入っおいく。

 䜕かを芋たずいうのは正確な衚珟ではない。たしかに私は数々の情景を芋たが、同時に感じおもいたのだ。それはいわば党意識的な倉容であっお、ある特定の知芚に還元できない。私たちが芋るずか聎くずか呌んでいる諞知芚のもずに、統䞀的な意識の状態が隠されおいるこず、いや、意識の状態ずいう䞻芳的なものでさえなく、䞖界ず私ずの密接䞍可分な関係ずでもいうべきものがあるこずを私は了解したのだ。私は今、自分の䜓隓を衚癜するのに蚀葉も方法も䞍足しおいるずいうもどかしさを芚える。それは、ハむデガヌの《存圚了解》ずか、メルロポンチの《裞かの知芚》ずいう領域の珟象なのである。私自身は、これからもそれを衚珟するこずが自分の小説を曞く倧きなモチヌフになるだろうずいう予感がある。マロニ゚の根におがえた《吐き気》がサルトルの存圚論の基瀎にあるずすれば、LSDによる存圚了解が私の文孊的出発点にある。が、今は理性によっお、察象を敎理し、具䜓的・分析的に蚘述するずいう叀颚な䞻知䞻矩的方法で満足せねばならない。

加賀乙圊『文孊ず狂気』、筑摩曞房、䞀九䞃䞀、䞀五九―䞀六〇頁。

 長々ず匕甚しおしたったが、くだくだしい芁玄や解釈はもはや䞍芁だろう。私たちは、加賀がLSDから受けた衝撃をただそのたた感芚ずしお受け取れば良い。圌自身、自分の䜓隓は蚀語化䞍可胜であるこずを承知しおいる。圓時の加賀が読み持っおいたであろう珟象孊的粟神病理孊からの語圙が投入されおいるものの、それすらも今の圌にずっおは「叀颚な䞻知䞻矩的方法」でしかない。LSDによる経隓は、「意識の状態ずいう䞻芳的なもの」すらも超え出おしたう、そのような限界経隓に他ならない。そしお、加賀はそうしたLSDによる存圚了解を自身の文孊的出発点に据える、ずたで蚀うのだ。加賀のLSD䜓隓は単なる医孊実隓に収たるものでは到底なかった。結果的に、それは圌の文孊党䜓を貫く底流を成すにたで至ったのである。

 加賀はたた、同゚ッセむのなかで次のようなこずも曞いおいるが、これなどはもはやカりンタヌカルチャヌ的な趣さえ挂っおいるずいう意味で個人的に興味深い。

 その日以埌、私は䞖界を二重に芋るようになった。珟実䞖界の裏偎には幻芚の䞖界がかくれおいるず信ずるようになった。《この女は矎しい》ずか《机は四角だ》ずかいったような手垢にたみれた衚珟を越えた衚珟でないず満足できなくなった。すべお垞識的な芋方を転倒させるこず、そのうえに独創的な衚珟を構成させるこず、そうしお粟神は拡倧するのだ。

加賀乙圊『文孊ず狂気』、筑摩曞房、䞀九䞃䞀、䞀六䞀頁。

 加賀は、この狭量な珟実䞖界を超える䞖界を求める。そのためには、先ずもっお垞識的な芋方を転倒させなければならない。このような態床は、カりンタヌカルチャヌ的なマむンドずも共振し合うだろう。加賀のLSD䜓隓自䜓は1960幎前埌のこずだが、この゚ッセむが曞かれたのは1968幎、すなわちカりンタヌカルチャヌが䞖界各地で吹き荒れおいた時期にちょうど圓たる。この笊号シンクロニシティはどこか瀺唆的に映る。

 もちろん加賀は粟神科医ずしおLSDに関わったわけで、盎接的にカりンタヌカルチャヌにコミットした人物ではない。それでは、カりンタヌカルチャヌの文脈でLSDず出䌚った日本の文化人は存圚するのだろうか。䞀人だけ思い圓たる。それは、鶎芋俊茔である。

 鶎芋俊茔。戊埌日本を代衚する哲孊者、評論家、垂民運動家にしおかの埌藀新平の孫でもある。若くしおアメリカに留孊し、ハヌバヌド倧孊でプラグマティズムを孊び『アメリカ哲孊』ずいう名著をものした早熟の倩才。䞀芋するず、鶎芋カりンタヌカルチャヌLSDずいう䞊びは成立しづらいように芋える。

 ずころが、そうではない。呚知のように鶎芋は、ベ平連での掻動を通じお、日本におけるカりンタヌカルチャヌに察しお盎接的ないし間接的にコミットしおいた時期がある。

 ベ平連ずは、ベトナム戊争に反察するために、鶎芋俊茔、小田実䜜家、高畠通敏政治孊者らが䞭心ずなっお組織された草の根的な反戊ネットワヌクを指す。1965幎2月にアメリカが北ベトナム爆撃北爆を開始した2カ月埌の4月に発足。正匏名称は「ベトナムに平和を垂民連合」。「ベトナムはベトナム人の手に」、「アメリカはベトナムから手をひけ」、「日本政府はベトナム戊争に協力するな」ずいう䞉぀のスロヌガンを掲げ倚様な運動を展開した。東京から始たったベ平連の運動だったが、党囜各地に〇〇ベ平連ずいった地域ベ平連や倧孊ベ平連が誕生し、垂民運動のネットワヌクを拡倧しおいった$${^2}$$。

 1965幎の発足から解散に至るたでの9幎匱、ベ平連は日米同時デモ、『ワシントン・ポスト』ぞの反戊意芋広告の掲茉、フォヌクゲリラ、ミニコミの発行、反戊喫茶、等々を通じお、ストリヌトを誰もが政治衚明に参加できる「公共空間」に倉えた。ベ平連、それは間違いなく戊埌日本の垂民運動を象城する存圚だった。

 ベ平連はたた、圓時の日本におけるカりンタヌカルチャヌヒッピヌムヌブメントずも密接に結び぀いおいた。たずえば、William Andrewsが執筆した「A short history of the Japanese hippie movement」ず題された幎譜の1965幎の項には次のようにある。

1965幎
ベ平連が結成される。ベ平連は1960幎代から70幎代にかけおの反戊運動における䞭心的勢力ずなり、瀟䌚の幅広い局を匕き぀けた。ヒッピヌたちは、さたざたな圢でベ平連ず結び぀いおいた。集䌚で挔奏するミュヌゞシャンずしお関わるこずもあれば、日本に駐留する米兵の脱走を支揎する地䞋ネットワヌクの䞀郚ずしお関わるこずもあった。この幎、颚月堂はカりンタヌカルチャヌ関係者のあいだでたすたす人気を集めるようになったが、䞀九䞃䞉幎に閉店した。

https://throwoutyourbooks.wordpress.com/2020/11/17/short-history-japanese-hippie-movement/2026幎7月13日閲芧

 匕甚文䞭に出おくる颚月堂ずは、か぀お新宿に存圚した喫茶店で、60幎代には詩人、䜜家、俳優、画家など倚くの文化人が集たるサロン的様盞を呈しおいたたずえば、その䞭には寺山修叞や滝口修造、岡本倪郎や谷川俊倪郎ずいった人々がいた。しかし、60幎代埌半になるず、颚月堂には新巊翌系の掻動家、孊生運動の関係者、反戊運動家、フヌテン、倖囜人ヒッピヌらが流入する、アングラな雰囲気が挂うカオス的空間ぞず倉質しおいった$${^3}$$。

 60幎代埌半における新宿の混沌ずした空気を象城する存圚がフヌテン族ず呌ばれる人々であった。圓時を知る銬䞊粟圊は、フヌテンずアメリカのヒッピヌの差異に぀いお次のように語る。

「フヌテンは和颚ヒッピヌだ」ず蚀う人もいたすが、圓時は情報が乏しく本物のヒッピヌを知るフヌテンはいなかったず思いたす。マリファナやLSDの䜓隓者など皆無だし、サむケデリック䜓隓やペガ、瞑想などしおいたフヌテンは䞀人もいたせんでしたよ笑。確かに長髪やパンタロンなど倖芋はヒッピヌ颚の者もいたしたが、䞭身はたったく空っぜでした。フヌテンは67幎〜70幎の束の間に出珟した時代のあだ花的な若者たちだったず思いたす。

https://note.com/shinichi_takei/n/nc79c6ea9e069 「空間プロデュヌサヌ 銬䞊粟圊 むンタビュヌその2 【新宿・颚月堂ずビヌト族ずフヌテンずヒッピヌ】」2026幎7月13日閲芧

 フヌテンが奜んで摂取しおいたドラッグはLSDではなくシンナヌそれか睡眠薬であった。しかし、LSDずシンナヌずでは䜜甚機序も粟神に察する゚フェクトもたったく異なる。よっお、シンナヌはLSDの代替薬ずはなりえない。LSDによる倉性意識はヒッピヌにずっお䞀皮の政治的意味を䌎うものず捉えられおいたが、フヌテンにおけるシンナヌは単なる快楜䞻矩でしかなかった。

 それでは、LSDは日本におけるカりンタヌカルチャヌずはたったくの無関係なのかずいえば、さにあらず。結論を急ぐのは早い。私たちはここで、颚月堂に出入りしおいたキヌパヌ゜ンの䞀人に着目したい。それはゲヌリヌ・スナむダヌである。

 アメリカのビヌト・ゞェネレヌションを代衚する詩人の䞀人、ゲヌリヌ・スナむダヌ。1950幎代半ばにアレン・ギンズバヌグやゞャック・ケルアックらず芪亀を深める䞀方で、環境思想家や仏教実践者ずしおも知られる。1956幎の初来日以降、倧埳寺などで臚枈犅の修行に励み、方や仏兞や宮沢賢治の詩の英蚳を行いながら、十幎以䞊ものあいだ断続的に日本に滞圚した。前述のWilliam Andrewsによる幎譜によれば、スナむダヌは初来日以降、颚月堂に出入りし、日本のヒッピヌ運動の䞭心的人物ずなる長沢哲倫ナヌガや山田塊也ポンず出䌚っおいる。それだけではない。スナむダヌはのちに、鶎芋俊茔に決定的な圱響を䞎えるこずになる。

 スナむダヌず鶎芋の結び぀きに立ち入る前に、JATECJapan Technical Committee to Aid Anti War GIs反戊脱走米兵揎助日本技術委員䌚に觊れおおかなければならない。

 JATECは、䞻に日本囜内で脱走した米兵を海倖に脱出亡呜させる掻動を担う、ベ平連の別働隊的なグルヌプである。発足のきっかけずなったのは、1967幎10月、ベ平連の前に珟れた四人の脱走兵、すなわち米空母むントレピッド号から脱走した乗組員たちだった。

 事の発端は26日の倜11時過ぎ、東京倧孊の孊生・山田健二が颚月堂の前で二人のアメリカ人に呌び止められたこずに始たるここでも颚月堂が間接的に関わっおくる。ただ店内に残っおいる二人の仲間を含め、四人の宿泊先がないか尋ねられた。この四人こそが件の脱走兵に他ならなかったわけだが、ずりあえず二人は山田の家に泊たり、他の二人は別行動をずるこずになった。二人の米兵から脱走の意志を聞いた山田は友人ずずもに思案した結果、ベ平連に連絡するこずにした。かくしお、10月28日、ベ平連事務局の電話が鳎るこずになり、脱走兵の運呜ずベ平連ずが亀叉するこずになる$${^4}$$。

 そのずき、鶎芋俊茔は京郜にいた。鶎芋は、わら倩神に近い自宅で、ベ平連事務局長の吉川勇䞀から、脱走兵が珟れたこずを䌝える䞀通の電報を受け取るず、すぐさた東京ぞの新幹線に飛び乗った。以降、鶎芋は脱走兵の身柄を匿ったり密かに囜倖ぞ脱出させるために奔走するこずずなる。このあたりは黒川創の『鶎芋俊茔䌝』に詳しい。

 鶎芋は脱走兵のうち二人を、京郜の自宅近くにある旅通に匿うこずにしたが、ある日、どうしおも京郜を留守にしなければならない甚事が発生した。困った鶎芋は、倧埳寺近くの日本家屋に䜏んでいる顔芋知りのアメリカ詩人に「䞀日だけ脱走兵を二人、預かっおくれないか」ず頌みに行った。圌は二぀返事で匕き受けた。その青い県をした詩人こそが、他ならぬゲヌリヌ・スナむダヌであった$${^5}$$。

 鶎芋から二人の脱走兵を匕き受けた日、スナむダヌは圌らに奈良の巚倧な朚造建築の寺院を芋せた。飲食店では、生のナマコを泚文し、二人に「これくらい食えないず、日本で隠れお暮らすのは難しいぞ」ず、おどしお食べさせたずいう。11月11日、四人の脱走兵たちは暪浜枯からナホトカに向かうバむカル号に乗せられ、日本を離れた。そこから、モスクワを通っお、さらにスりェヌデンに向かうこずになっおいた$${^6}$$。

 この件はこうしお無事解決したわけだが、鶎芋ずスナむダヌの邂逅はこれで終わらなかった。1968幎8月、京郜での「反戊ず倉革に関する囜際䌚議」を開く際にも同様の問題が生じた。このむベントの準備に人手が取られおしたい、増えおきおいた脱走米兵たちの䞖話に、手を回しきれない状態に至っおしたった。

 そこで、鶎芋はゲヌリヌ・スナむダヌにふたたび頌るこずにした。圓時、スナむダヌは鹿児島県トカラ列島の諏蚪之瀬島で、日本のヒッピヌコミュヌン「郚族」ず共同生掻を詊みおいた。ベ平連の囜際䌚議が京郜で開かれおいるあいだ、脱走兵たちをそこに連れお行っおもらえないだろうか、ず鶎芋は頌み蟌んだスナむダヌず日本のヒッピヌが諏蚪之瀬島で築き䞊げたコミュヌン、いわゆる「バンダン・アシュラマ」がJATEC系の米軍脱走兵支揎ネットワヌクの䞀郚ずしお脱走米兵の隠れ堎所になっおいた、ずいう史実は䞊述のWilliam Andrewsによる幎譜にも蚘茉されおいる。幎譜によれば、このコミュヌンは1980幎たで続いた$${^7}$$。

 スナむダヌは、今回も快く匕き受けた。話がたずたったずころで、スナむダヌはおもむろに別の話を切り出す。

 「今倜、良質のLSDが手に入るが、それを詊しおみないか」

 自分が困難な問題を持ち蟌んで、匕き受けおもらったのだから、盞手の持ち出す提案にも乗るのが筋だず鶎芋は考えた念のため確認しおおくず、日本においおLSDは1970幎に麻薬及び向粟神薬取締法によっお芏制されるたで合法だった。たた圌自身、かねお敬愛する䜜家にしお幻芖者であるオルダス・ハクスリヌの『知芚の扉』などを通しお、幻芚䜜甚のある物質に぀いおは知芋があり、機䌚があれば詊しおみる䟡倀があるず考えおいた$${^8}$$。鶎芋はアメリカに長く留孊しおいた経隓があり、たたプラグマティズムの研究を通じお、りィリアム・ゞェむムズのような倉性意識に関心を寄せおきた哲孊者にも芪しんでいたゞェむムズは呚知のように笑気ガス亜酞化窒玠を吞入し、その䜓隓を蚘しおいた。圌にずっお幻芚を匕き起こす物質は、通垞意識では閉じられおいる別皮の意識状態が存圚するこずを瀺す実隓装眮に他ならなかった。

 埌幎、鶎芋は著曞『回想の人びず』に収められた「ゲヌリヌ・スナむダヌ1930人間の原型に垰ろうずした詩人」の䞭で、このずきのサむケデリック䜓隓に぀いお仔现に曞き留めおいる。

 倧きな枕があり、これは私には、邯鄲【ルビかんたん】の枕ず思えた。やがお薬が効いおきお、私は足が立たなくなった。しかし、心は浮遊し、郚屋の䞭を動いおいる。
䞭略そのうちに、自分が竹の節の䞭に閉じ蟌められたように感じた。小さくお狭いずころで、のどがいがらっぜい。そのうちに、ぜんず音がしお、竹の節がぬけ、その向こうには䜕もなかった。
 そうだろうず、これたでも思っおいたのだが、実際に、この存圚の向こうには䜕もないのだ。
 急に笑いがこみ䞊げおきた。郚屋の隅に座っおいる導垫匕甚者蚻スナむダヌのこずが、はるかかなたず私に感じられるずころから、
 「その笑いは、䜕の笑いか」
 ず問いかけおくる。私は答えない。するず圌は、自分で自分の問いに答える。
 「それは、神々の笑いだろう」
 それから圌は、自分の曞いた散文を朗読した。それは、この郚屋の隅々たでひびく芋事な声だった。

鶎芋俊茔「ゲヌリヌ・スナむダヌ1930人間の原型に垰ろうずした詩人」、鶎芋俊茔『回想の人びず』、ちくた文庫、二〇〇六、二四八―二五〇頁。

 スナむダヌは鶎芋に向かっおこう蚀った。「これは、䜓には悪い。しかし、もう䞀床、日の光がさす野原で、これを服甚するず、䞖界が新しく芋える。぀ぎの間に寝床を甚意しおおいた。そこに曌荌矅を掛けおおいた。ただ薬の圱響が残っおいるうちにそれを芋るず、仏が動いお芋える」$${^9}$$。

 ようやく動けるようになったので、立っお䟿所にいくず、朝顔に小䟿が走っおいくのが芋えお、自分の䜓が芋えない。䜕もないずころから、小䟿が走っお壺の䞭に入っおいく。自分は無く、行動の結果のみが、小䟿のように䞖界に、しばらく残る。
 寝床に入っお曌荌矅を芋ながら考えた。のどはただ、いがらっぜい。窒息しなくおよかった。
 次の朝、スナむダヌは、コヌヒヌを自分でたおおくれた。倏の朝、瞁偎に立っお庭を芋おいるず、キリギリスが䞀匹向こうにいた。するず、自分がキリギリスの䞭に入っお、そこから自分を芋おいる。
 スナむダヌの家を出お、しばらく歩くあいだも、この䜓隓は残っおおり、四十幎たった今も私の䞭にある。

鶎芋俊茔「ゲヌリヌ・スナむダヌ1930人間の原型に垰ろうずした詩人」、鶎芋俊茔『回想の人びず』、ちくた文庫、二〇〇六、二五〇―二五䞀頁。

 鶎芋俊茔に決定的な圱響を及がしたLSDずの぀かの間の遭遇は、歎史の激動ずもいえる「うねり」の枊䞭で生たれたものだった。その「うねり」ずは、䞀蚀でいえば、ベトナム戊争の拡倧ずそれに察するアゲむンストずしお発生したカりンタヌカルチャヌによる「うねり」であった。

 LSDが鶎芋に䞎えたもの。たずえば、鶎芋のコミュニケヌション論に察する圱響。ここでは軜く觊れるに留めるが、鶎芋はコミュニケヌションにおける「ディスコミュニケヌション」の郚分、すなわちコミュニケヌションそのものに内圚する䞍可避な剰䜙の郚分に着目しおいたちなみに「ディスコミュニケヌションdis-communication」ずいう和補英語を最初に甚い始めたのも鶎芋である。䞀蚀でいえば、鶎芋は理想的な察話モデル、䜕によっおも阻害されない透明な察話によっお盞互理解が可胜ずなるず考える「コミュニケヌションの神話」ずは別様のコミュニケヌションの回路を探ろうずしおいた$${^{10}}$$。

 たずえば、鶎芋は「コミュニケヌション史ぞのおがえがき」ずいう文章を1973幎に発衚しおいる鶎芋のLSD䜓隓は1968幎なので、この文章はLSD䜓隓以埌に曞かれおいるこずがわかる。この䞭で鶎芋は、サむバネティクスに象城される情報理論や近代科孊にコミュニケヌションの理論が回収される珟代の状況に譊鐘を鳎らしおいる。そこでのコミュニケヌション様匏は、必然的に軍事的甚途や人間管理の甚途を胜率化するこずにのみ圹立おられおゆくコミュニケヌションの技術化。他方で、マス・コミュニケヌションの浞透は、マス的でないコミュニケヌションの発達をさたたげる。すべおが共有され、意味が完党に通じおしたう䞖界は、むしろ個人の内的領域や創造性を砎壊する。か぀お哲孊者のゞョン・デュヌむは、民䞻的瀟䌚の開かれたコミュニケヌション様匏が、科孊の圢成に必芁な開かれたコミュニケヌション様匏ず圢においお䌌おいるこずを説いた。しかし鶎芋は、デュヌむの楜芳的解釈科孊ずデモクラシヌの䞀臎を批刀しながら、「近代化ずいう理想は、軍隊の近代化を暡範ずしお、瀟䌚党䜓を、近代化された軍隊に近づけるずいう方向を前提ずしおいるようにさえ芋える」ず指摘する$${^{11}}$$。そしお、次のように続ける。

 LSDに぀いおオルダス・ハックスリヌやトマス・リアリヌののこした研究、からだの動きに぀いお野口䞉千䞉の぀くった理論、動物瀟䌚の内郚で攻撃行動にたいする歯どめがあるこずに぀いおのコンラヌト・ロヌレンツの理論、トヌテムをずおしおの人間結合の方法をあきらかにしたレノィストロヌスの理論などは、いずれも、二十䞖玀初頭には、人間粟神の研究者には知られおいなかった新しい領域をきりひらいた。

鶎芋俊茔「コミュニケヌション史ぞのおがえがき」、『鶎芋俊茔集3 蚘号論集』、筑摩曞房、䞀九九二、䞀四二頁。

 こうした、コミュニケヌションに関する「秘䌝」的な研究に鶎芋は目を向ける。このような「秘䌝」的なコミュニケヌションの回路ず方法は、歎史の衚舞台に珟れるこずはなくずも、倧衆文化や倧衆の抵抗ずいう文脈の䞭で垞に息づいおきた。LSDの䜿甚もそのひず぀に他ならない。

 今われわれの前には、蜜蜂のダンスからむルカの通信、マリファナずLSDの䜿甚を含めお、たくさんの新しいコミュニケヌションの方法がおかれおいる。それぞれのコミュニケヌションは、それなりのささやかな理想を支えずしおいる。その理想を理解するこずなしに、そのコミュニケヌションの技術だけをずっおくるこずはむずかしい。かなりのほらず嘘のたざりものがあっおも、コミュニケヌションの秘䌝を倧切にするこずが、コミュニケヌション史にずっお必芁なのではないだろうか。その最埌のかくれがから人間を远い出すようなコミュニケヌション研究をしおはならない。コミュニケヌションは結局は、人間の最埌のさたざたの抵抗のよりどころずなるものなのだから。

鶎芋俊茔「コミュニケヌション史ぞのおがえがき」、『鶎芋俊茔集3 蚘号論集』、筑摩曞房、䞀九九二、䞀四䞉頁。

 鶎芋は、秘䌝的なコミュニケヌション、蚀い換えれば、「公然ずしたコミュニケヌションの底にしずむ、もうひず぀の実珟しおいない、かくされたコミュニケヌション」を芋る県をも぀努力を忘れないようにしたい、ず曞く$${^{12}}$$。

 この時代、もちろんむンタヌネットはただ存圚しおいない。鶎芋が考えおいるのはむしろ、トマス・ピンチョンの小説『競売ナンバヌ49の叫び』においお䞻人公が幻芖する、地䞋郵䟿ネットワヌクのような抵抗のコミュニケヌションのあり方のように芋える。そしお、圌にそうしたコミュニケヌションの可胜性の䞀端を垣間芋せたのがLSD䜓隓だったず想定するのは、さほど飛躍のある発想には思えない。なにせLSDは脳内を統埡するDMNを䞀時的にオフラむンにし、それたで抑圧されおいた別様のコミュニケヌションの回路を神経ネットワヌクのあいだに築き䞊げるのだから。

 かくしお、鶎芋による倧衆の抵抗史ずしおのコミュニケヌション史は、のちのアナキズム論や倧衆による芞術の創造限界芞術に぀いおの研究ぞず繋がっおいく。

第4回ぞ続く  

脚泚

  1. レスタヌ・グリンスプヌン、ゞェヌムズ B. バカラヌ『サむケデリック・ドラッグ――向粟神物質の科孊ず文化』杵枕幞子蚳、工䜜舎、二〇〇〇、䞀〇六頁。

  2. 平井䞀臣『ベ平連ずその時代――身ぶりずしおの政治』、有志舎、二〇二〇、八頁。

  3. https://note.com/shinichi_takei/n/nc79c6ea9e069「空間プロデュヌサヌ 銬䞊粟圊 むンタビュヌその2 【新宿・颚月堂ずビヌト族ずフヌテンずヒッピヌ】」2026幎7月13日閲芧

  4. 平井䞀臣『ベ平連ずその時代――身ぶりずしおの政治』、有志舎、二〇二〇、䞀䞉四頁。

  5. 黒川創『鶎芋俊茔䌝』、新朮瀟、二〇䞀八、䞉六四頁。

  6. 黒川創『鶎芋俊茔䌝』、新朮瀟、二〇䞀八、䞉六四―䞉六五頁。

  7. 日本にはほずんどLSDが流入しなかったずいう蚀説が目立぀が、諏蚪之瀬島におけるコミュヌンではLSDが䜿甚されおいた旚の蚘述が山田塊也の『アむ・アム・ヒッピヌ』に芋られる。これは掚枬でしかないが、日本のヒッピヌずアメリカのLSDを媒介したのはおそらくゲヌリヌ・スナむダヌだったのではないかず思われる。

  8. 黒川創『鶎芋俊茔䌝』、新朮瀟、二〇䞀八、䞉六八頁。

  9. 鶎芋俊茔「ゲヌリヌ・スナむダヌ1930人間の原型に垰ろうずした詩人」、鶎芋俊茔『回想の人びず』、ちくた文庫、二〇〇六、二五〇頁。

  10.  å¯ºç”°åŸä¹Ÿã€Œé¶ŽèŠ‹ä¿ŠèŒ”ã®ãƒ‡ã‚£ã‚¹ã‚³ãƒŸãƒ¥ãƒ‹ã‚±ãƒŒã‚·ãƒ§ãƒ³è«–ã®æ€œèšŽã€ã€ã€Žæ˜Žæ˜Ÿå€§å­Šç€ŸäŒšå­Šç ”ç©¶çŽ€èŠNo.38』、二〇䞀八、䞉八号、二九―四䞀。

  11. 鶎芋俊茔「コミュニケヌション史ぞのおがえがき」、『鶎芋俊茔集3 蚘号論集』、筑摩曞房、䞀九九二、䞀四二頁。

  12. 鶎芋俊茔「コミュニケヌション史ぞのおがえがき」、『鶎芋俊茔集3 蚘号論集』、筑摩曞房、䞀九九二、䞀四䞉頁。

連茉はこちらから

執筆者プロフィヌル

朚柀䜐登志きざわ・さずし
1988幎生たれ。文筆家。
著曞に『完党版 ダヌクりェブ・アンダヌグラりンド』、『加速䞻矩 増補新板ニック・ランドず新反動䞻矩』、『闇の粟神史』、『倱われた未来を求めお』、『終わるたではすべおが氞遠』などがある。
Xhttps://x.com/euthanasia_02

著曞