今日は、昨日亡くなった人が痛切に生きたいと思った一日
私なりに幼い頃から「生」について向き合ってきたつもりです。
それは、「死」を知った瞬間から始まりました。
「今日を最期と生きるのです」は、人生の宝となった祖母の教えですが、生死について向き合うことなしには、宝とすることはできなかったでしょう。
今朝の『管長日記』(大本山円覚寺 横田南嶺管長)では、よく知られる禅語「日々是好日」を採りあげておられました。
タイトルは、その中で紹介されていた言葉
「私が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である」(『私の出会った大切なひと言』より)
を短くしたものです。
この言葉は、私もしばしば想い出す言葉です。
毎年夏になると先の大戦のことが採りあげられ、若い特攻隊員の話などから、「私たちが生きている今という時代は、先の大戦で生きたくても生きられなかった若者たちが生きたいと思った未来だ」ということが言われたりもしますが、この言葉が本にあるのではないかと思います。
日々是好日の意味
大ヒットした本や映画の影響で、「日々是好日」という言葉が一人歩きするようになったのはずいぶん前のことです。
それまでは滅多に使われなかったこの禅語が、かなりしばしば目につくようになりました。
多くの人が知るキッカケになったのはいいことですが、一方でその言葉を表面的に受け取って深い思索を巡らせることもなく使われるようになったことについては、私は苦々しく思いました。類似したことは他にもあり、その都度、その言葉や教え、あるいは文化そのものが消費されていくような嫌な感覚は歳を追うごとに濃くなっています。もはや焦燥感すら抱いていると言っていい。
『管長日記』のなかでは山田無文老師の『無文全集第一巻』(禅文化研究所)の言葉も引用されています。これこそ多くの人に知っていただきたい内容です。
「空襲じゃあるまいが、空から火の玉が降って来ようが、日々是れ好日と頂かねばしょうがない。目の前で幼稚園に行く子供が車に轢き殺されたら、泣かずにはおれんが、涙の中をそのまま日々是れ好日と頂かねばしょうがない。それができるか、どうじゃ」
どうでしょうか。
目の前で凄惨な事件や事故が起き、怒りや悲しみに身もだえするような状況の中で、ほとばしる涙をそのままに、それでも「今日はいい日だ」と言えるでしょうか。
言えません。
少なくとも私は言えません。
悲しみに暮れて、いったいこの世はどうなっているのかとさえ思うにちがいないのです。
生きるのがイヤになるかもしれません。それくらい私は弱いのです。
ただ、弱いながら、「それでも生きている以上は生きていく」とは思うでしょう。
そして「生きている以上は、どれほど小さくてもいいから喜びを見出そう」と切り替えるでしょう。
弱い人間には支えが必要だからです。どれほどささやかでも喜びは支えになります。
ささやかでも喜びを見出すことができた時、もしかしたら私は「それでも今日はいい日だ」と、言えるかもしれません。
実際、これまでもそうして人生のさまざまを乗り越えてきました。
出口の見えない悲しみを抱えながらも、「だけど、それでも」と。
みずから命を絶った人にとって、今日は本当に生きたいと思った一日なのか
「私が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である」という言葉から、もうひとつ、考えることがあります。
亡くなった人の中には、「日々是好日」などととは決して思えず、人生に絶望し、みずから命を絶った人もいます。
厚生労働省や警察庁の統計(令和6年の確定値)によれば、年間の自殺者数は19,608人。
1日平均にすると約53.7人が自ら命を絶っていることになります。
この方々にとって、私たちが生きている今日この日は、その人が「痛切に生きたいと思っても生きられなかった日」だと言えるのでしょうか。
私は、言えると思っています。
すべては当事者でなければわかりませんから、断固そうだとは言えません。
ただ、「自分のことは自分でもわからない」ということもまた真理です。それに照らし合わせれば、みずから命を絶った人たちも、心の深いところでは、痛切に生きたいと思っていたのではないでしょうか。
できることなら、生きたかったはずです。
生きて、幸せになりたかったにちがいありません。
悲しみに苛まれることなく、希望を持って明るく生きられたなら、どんなにいいか。それを願っていたのではないでしょうか。
幸せを願わない人などいないのです。
希望を抱きたいと思わない人もまた、皆無でしょう。
それを思えば、たとえみずから命を絶つという運命(まさに命の運び方です)を選んだとしても、やはりこの一日は、誰かが生きたくても生きられなかった日にほかならないのです。
誰もが生かされている命を生きている。今日の日は、与えていただいた一日の命
そこまで至ると、命というのは、与えられて生かされているものだと気づかされます。
よく「生きている」と誰もが言いますが、それは「生」を半分しか表現していないことになる。
「生かされている命を生きている」とするのが、十分ではないにせよ、もう少しありのままに近い表現ではないかと思っています。
つまり、今日という日は、与えていただいた一日なのです。与えられた一日の命を、私たちはどう生きるのか。
「今日を最期と生きる」という祖母の教えは、「明日はないかもしれない」「明日の命は与えられないかもしれない」ということを、示しているのです。
著者:石川 真理子(Mariko Ishikawa) 作家、随筆家、武士道研究家。 武家の家系に生まれ、明治生まれの祖母より武家伝来の教えを受けて育つ。ベストセラー『女子の武士道』(致知出版社)、『女子の教養』(同)など著書多数。米沢藩士・仙台藩士の末裔であり、和の美学と精神性を現代に伝える活動を行っている。
▷祖母の教えについて、公式サイトで新たに連載を始めました。祖母の半生を辿りながら、武士道や時代背景なども知ることができます。
いいなと思ったら応援しよう!
みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。