今さら「イン・ザ・メガチャーチ」を読んで90~00年代の険しきオタク道を振り返る
「ゆりこさんは読んだほうがいいと思います。きっと楽しめると思うので」
ラジオ番組を担当してくださっているディレクターさんがオススメしてくれた、朝井リョウさんの小説「イン・ザ・メガチャーチ」。
「読んだほうがいいと思います」
この言葉の意味は、本を開いて数行で理解しました。これは……まさに私と私を取り巻く世界の話だ。そう思いました。
売れに売れた小説「イン・ザ・メガチャーチ」とは
主な登場人物は、俳優の追っかけをする派遣社員の女性、アイドルオタクの女子大生、そして「推し活ビジネス」を推進しようとするギョーカイのオジサンの3人。普段はそれぞれ別のフィールドで懸命に生きている3名の人生が「推し活」を軸に、意外な形でどんどん絡まりあっていく……という物語です。
アイドルオタクかつ元エンタメ会社のスタッフも震えるリアルさ
アイドルや芸能人を追っかけるオタクたちの、生々しすぎる会話やSNSの投稿文、そして”仕掛け側”が会議で話す内容に至るまでーー
「なんか、コレ……知ってるぞ……」
のオンパレード。リアルすぎる描写と「何でここまで見えているの?」という情報量。フィクションじゃなくてノンフィクションなのでは?と思うほどの取材力です。おそらくですが、朝井さんの周辺にリアルなモデルが数人いらっしゃるのでは?と見ました。
特にアイドルを追いかける女子大生の描写は、時代背景は違えど、若かりし頃の己の黒歴史を呼び戻させ、レコード会社内の会話や雰囲気は、かつてエンタメ企業で働いていた頃の思い出がよみがえります。実際に関わっているアーティストに対し「担当者以上」の感情を抱いてしまう同僚を見て、危うさを感じたこともありました。
それらの記憶を朝井リョウさんに観察され、恐ろしく解像度の高い言葉で「改めて解説される」「傷をえぐられる」ような、ちょっとした屈辱感と恐怖。それが快感でもあるという不思議。
「もう、これ以上は勘弁してくれ」と叫びながらも完読
「もう、これ以上はやめてくれ~!」心でそう叫びながら、ページをめくっていたら、あっという間に完読しました。一部では「結構ホラー」「地獄の始まりでは」という意見もあったラストシーンも、私はわずかな希望が感じられて好きでした。みんな、あそこから再出発するんですよね、きっと。
何かの追っかけをしたことがある人、またはエンタメ業界やコンテンツビジネスに関わったことがある人は、必読図書と言えるかもしれません。純粋なエンタメとしても、めちゃくちゃ面白いです。
ただ、ひとつ気になったことがありました。作中にいろんなオタクのキャラクターが出てきたり、マーケターが「オタク分析」をしてタイプ別の特徴について語るシーンもあるのですが、どうも抜け落ちている要素がある。それは「ナチュラルボーン・オタク」の存在です。
理由なく追ってしまう「ナチュラルボーン・オタク」の不在
ややネタバレになってしまいますが、「イン・ザ・メガチャーチ」に出てくるメインキャラクターたちには、「推し活」に走るきっかけや背景が明確にあります。家庭の不和、失恋、友人とのすれ違い、職場環境への不満。つまり心の傷や、虚しさ、生きづらさを抱えており、それを埋めるかのように「推し活」またはそれに準ずる行為へのめりこんでいきます。つまり、推し活が”鎮痛剤”や”幻覚剤”みたいに作用している。
理屈ではわかります。そういうパターンは実際に多いだろうし、周囲にもきっといる。でも、病めるときも健やかなるときも、シラフで何かを追っかけてしまう人もいるんですよね。あえて「ナチュラルボーン・オタク」と言いましょうか。この小説には、その人たちがいない。確実にその世界に存在するはずなのに。
そして、これは小説に限った話ではありません。近年の「推し活」を語る記事やニュースでも、「ナチュラルボーン・オタク」は盲点というか、なきものにされているように感じています。
「ナチュラルボーン・オタク」とは、どんな人々か?
私の思う「ナチュラルボーン・オタク」とは、その文字通り「生まれつき追っかけ体質」「好きになったら研究したくなっちゃうサガ」の人です。一番わかりやすい例が「さかなクン」だと思っています。
彼ら・彼女らの「追っかける」「研究する」理由はシンプルです。「ものすごく心惹かれたから」
なんかいいな、好き、もっと知りたいな、仲良くなりたいな。単純に知的好奇心がくすぐられて、どんどん衝動が止まらなくなる、という感じでしょうか。そこに複雑な理由や動機はないと思うのです。
なぜ「ナチュラルボーン・オタク」の不在にモヤモヤするのか
少しだけ昔話をさせてください。90年代、2000年代以前に子供時代・学生時代を過ごした人ならわかると思いますが……あの頃の「オタク」の扱いは、なかなか酷いものでしたよね?
平成の学校で「オタク」と言われたら、それは最大級のディス。喧嘩やイジメの狼煙が上がるサインと言っても過言ではありませんでした。
当時、私が通っていたのはヤンキー&ギャル文化上等の、地方の荒れた公立中学。アニメや漫画にハマるなんてもってのほかで、メジャーじゃない音楽、乱暴に言えば「Mステに出てないミュージシャン」を好きだと公言しようものなら、たちまち「オタク」扱いでした。きっと今の35歳以上のオトナは、学生時代にオタク趣味を必死で隠してきた人が多いと思います。
実は、私もその一人でした。「本来の仲間」がいるはずの文化系の部活へ入る勇気がなく、イケてる友達に誘われるまま興味のない運動部に入りました。一種のカムフラージュです。
今振り返ると、自分軸のなさに呆れるのですが、あれも防衛本能だったのでしょう。めちゃイケやMステを見て話を合わせ、番組が終わったらMTVに切り替えてジョージ・マイケルのMVが流れてくるのを待ち、お風呂上がりに漫画「天使禁猟区」やCLAMP作品を読む。そんな二重生活を送っていました。
それは、高校や大学に入ってからも同じくでした。今では信じられない光景ですが、K-POPや韓国エンタメだって日本の若者社会では「冷めた目で見られる」時代があったのです。詳しくはこちらのnoteに書いています。
「オタクの価値」上がりすぎ問題
つまり大きな理由なんてなく、ただ好きだから追ってしまうサガで、しかもそれを長いこと隠して生きてきた。だからこそ「推し活には必ず背景がある」という語られ方に、どこか居心地の悪さを覚えるのだと思います。
体を動かすのが好きな人がスポーツを続けたり、筋トレにお金をかけていても、「背景に孤独感が」「職場や私生活に不満が」なんて言われないですよね。推し活やオタク趣味だって、原理は同じはずなんだけどな。
かつてイギリスの登山家が、山に登る理由を聞かれて「そこに山があるから」と答えたのは有名な話ですが、まさにそんな感じなんですよね。先天性のナチュラルボーン・オタクは存在するし、それは誇れるステイタスでもなければ、異常者の証でもない。単に「そういう性質」なのだと思うのです。
一方で、近年は「オタク」「推し活」の価値が急騰しすぎているようにも感じます。「○○じゃないとオタクとは言えない」「あの人は△△をしていないからオタク失格」「推し活勢とガチのオタクを一緒にするな」といった言説も見かけるようになりました。
いずれにしても、何かを追う人を「現実逃避だ」「自分の人生を頑張っていない」と揶揄するのも違うし、逆に「その程度でオタクを名乗るな」と界隈にヒエラルキーを作ろうとすることにも、違和感を覚えます。
本音としては、夢中になれるものがあるだけでいいじゃん!と思っています。現実逃避の手段でも、理由はなくとも、浅くても、ディープでも、新規でも古参でも……楽しかったら、何でもいいよね?!
そう、楽しかったらいいんだよ。ここは強調したい。楽しくなくなったら撤退してもいい。どうか、必要以上に悩んだり、罪悪感を抱えたり、心病んだり、誰かをガシガシ責めたりしないでね。
小説の感想文のはずが、なんだか遠い結論に至りました。説教くさく感じたらミアン。
<余談>「イン・ザ・メガチャーチ」の中にもいた?!「ナチュラルボーン・オタク」
もう一度「イン・ザ・メガチャーチ」を読み直したら、おそらく「ナチュラルボーン・オタク」であろうキャラがいました。女子大生”ちゃみする”の推し活仲間、花冠さんです。
「私、色んな界隈のオタク渡り歩いて20年」
「現場で得られるのは、かけがえのない経験ばかり」
40代で子育てしながら、在宅勤務で働くエンジニア。彼女のセリフや描写はそう多くありませんが、同じ“現場”にいても、物語のテーマとは少し離れたところにいる感じを受けました。皆さんはどう思いましたか?
