見出し画像

哲学素人がデカルトと西田幾多郎を読んでみる~西洋と東洋の形而上学~その①


読んだ本

「方法序説」 デカルト 谷川多佳子 訳
「善の研究」 西田幾多郎 小阪国継注釈

はじめに

哲学素人の私が読んで思ったことを、備忘録的に残すことが目的であって、誰の役にも立ちませんので悪しからず。

なんだろう、この2冊の読了感の差は。

デカルトの言っていることはよく分かる。当時、スコラ学に否定的な態度を取るのはさぞ勇気のいることであったろう。その状況の中で、いかに腐心して自然科学に向き合おうとしたのか、ということも読み取れる。自然科学に対する真摯な姿勢も、人類による科学の発展を期すような発言も、爽快感すら覚えるほどである。

いわゆる神の存在証明も、そのロジックは破綻しているように思われるが、その爽快感を前にすれば、破綻していることなど、どうでもよいものにさえ思える。これは訳者の上手さもあるのだろう。

一方、西田はどうだろうか。何となく言わんとしていることは分かる。ただし、ディテールが見えてこない。だからお前はバカなんだという声が聞こえてきそうであり、実際そうなのだが、読みにくいものは読みにくい。 

それは、おそらく同じ対象を微妙に言葉を変えて表現したり、主客未分と言いつつ唯心論寄りの思想が垣間見えたり、そもそも使われる単語は西田が作り出したものが多く、素人には挫折要素が満載である。

これらの言い回しにこそ意味があるのかもしれないが、つまり、言葉の選択の意図を読み取れない自分がいけないのだが、誰か面白く単純化して解説してくれてはいないだろうか。

方法序説の功績

ここでは、方法的懐疑やら、四つの規則、三つの格率やら、心身二元論的な思想、この二元論こそが近代科学に貢献したことなどは脇に置いておく。これは簡単に読み取れるので。じゃあ自分が思ったことは何なのか。

①帰納のガリレオ・演繹のデカルト
よく知られたガリレオの異端審問。ガリレオは有罪になるが、デカルトも自然を無神論的に捉えているにも関わらず、異端と見なされなかった。この違いは、二人の真理追求のアプローチの違いにもあったのではないか、ということである。

ガリレオは、徹底した観察による真理追求であり、この帰納的アプローチに神の存在を紛れ込ませることが出来ず(できるわけがない、観察しても神は見えないのだから)、異端審問につながったのではないか。つまり、簡単に言うと、「だって観察したらそうなってるんだもん、しょうがないじゃん!」という感じだろうか。

一方のデカルトは、神の存在証明と、その神により担保された我(我思うゆえに我あり)という唯一の実在をはじめに定義し、ここを論理展開の出発点とする演繹的アプローチを採用した。これにより、自説の起点に神を据え置くことができた。簡単に言うと、「神に担保された私は(無神論的だけど)こう思うんです、いやいや、神が言ってるのと同じだよ?」という感じだろうか。

デカルトは、ガリレオがどうなったかを理解していたし、であるが故に、自説の公表にはかなり慎重になっていたことが読み取れる。その慎重さゆえ、神を切り離さずに、自然科学をいかに機械的に(無神論的に)捉えるか、という二律背反を克服することに神経を尖らせた。このことが、近代科学の黎明期において重要な役割を果たしたのだろう。

②デカルトの思いを実現したニュートン
冒頭述べた爽快感の部分、少々長いが以下に引用する。

自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促すことだ。その際、各自がその性向と能力に従い、必要な実験に協力し、知り得たすべてを公衆に伝えるのである。先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである。

方法序説 第六部

これこそが、デカルトの自然科学に対するフラットで、真摯な態度をよく表している。個人的に最も爽快感を感じた部分である。

対して、ニュートンは、

私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。

という手紙をのこしている。この思想は西洋全体を覆っていたのかもしれないが、デカルトのこの思いが、後のニュートンの偉業に繋がったのだと言ったら、言い過ぎだろうか。

小休止

しかし、自分の文章を読み返してみると、哲学と関係ないことを述べてるなあ、まあいいか。これが今の実力です。

話が長くなったので、西田の要諦と、デカルト・西田比較から西洋と東洋の違いに関しては、また今度続きを書いてみようと思う。

いいなと思ったら応援しよう!