【私がいるよ 1/3】119番を押した朝
入院してからの1ヶ月間、夫は記憶を失っていた。
その間に何があったかを、夫は5ヶ月以上あとに知ることになる。
この記録は、夫が知らなかった1ヶ月を、
妻シマエナガの視点で書いたものだ。
以前書いたクマの闘病記録「生きてくれてありがとう」全4話と、同じ日々。
どちらから読んでも大丈夫です。全3話。
第一章 8時35分
2025年11月20日
あの朝の前の日まで、ふたりの朝は普通にあった。
一緒にご飯を食べて、他愛もない話をして、それが当たり前だった。
あの朝のことは、一生忘れないと思う。
11月20日(木)の朝、ソファで寝ていた夫が、
突然目を大きく見開いて、痙攣し始めた。
怖かった。苦しかった。
でも、戸惑っている時間はなかった。
私しか、いない。
その感覚が全身を貫いた瞬間、体が動いていた。
手が震えて119番できない、なんてことを恐れている暇はなかった。
私は夫を救う。今できることを全力でやる。
それだけだった。
救急車を呼んで、夫の状態を伝えて、
玄関を開けて、隊員の方を案内した。
そのまま一緒に、救急車に乗り込んだ。
病院に向かう救急車の中で、初めてちゃんと息をした気がした。
それ以来、しばらくの間、毎朝8時35分に目が覚めた。
怖さで、体が震えて。
あの朝の光景が、毎日その時間に戻ってくるのだった。
第二章 足元が崩れた
2025年11月20日
病院に向かった。
夫の緊急手術を執刀予定の先生から説明があった。
「手術はしても命は助からないかもしれません。
意識は戻らないかもしれないです。
寝たきりになることもあります。
自宅にも戻れない可能性もあります」
面談室の椅子に座っていた。
お義母さんも隣にいた。
先生の言葉が聞こえた。
10秒か、15秒か。頭が真っ白になって、
目の前が真っ暗になった。
言葉が出なかった。
でも、ほんの数秒後には、もう次のことを考えていた。
もし意識が戻らなかったとしたら、
これからのふたりの生活をどう作るか。
やれることはやった。
あとはできる限りのことをするしかない。
泣くのは、無事だった時でいい。
今やるべきことは、手術の同意書にサインすることだ。
同意書が、次々と出てきた。5枚か、7枚か。
夫はもう意識がない。
早くサインしなければ手術が遅れる。
1秒でも早く手術を始めてほしい。
そのことだけを考えながら、ペンを動かした。
ただ、頭の片隅では、こう思っていた。
いや、クマくんは戻るんじゃないかな。
先生が言っているのは可能性の話だし、
クマくんは体力オバケだし——。
(クマくん、というのは私が夫を呼ぶときの呼び名だ。)
以前、看護師の親友が話してくれたことが、
ふっと頭をよぎった。
彼女は私の結婚式にも来てくれた、大切な人だ。
「人間の身体って本当に良く作られていて、
自分で回復しようとする力が凄いんだよ」
あの言葉が、あの瞬間に浮かんだ。
隣でお義母さんが言った。
「大丈夫。奇跡は起きるから」
「そうですよね!」と返した。
戻る期待と、戻らない可能性。
どちらも半々で持つようにしようと、
心の中で決めた。
良い方に期待しすぎて、後から今より辛くなるのは自分だから。
でも、病室の外から、夫に向けて、全身全霊でエールを送り続けた。
戻ってきて、と。
第三章 毎晩、手紙を書いた
2025年11月20日〜12月4日
入院してすぐの夫は、意識が朦朧としていた。
記憶も残りづらいだろうと思った。
だから、残してあげたかった。
その日に誰が来てくれたか。
夫がどんな反応をしたか。
どんな言葉を交わしたか。
元気になった時に、夫が読み返せるように。
毎晩、LINEを送り続けた。
最初のメッセージは、倒れた当日の夜、
11月20日(木)の21時53分に送った。
「早く起きて帰ってきて、またご飯一緒に食べようよ!!
元気に帰ってこよー!!!」
読まれないかもしれないとわかっていた。
それでも書かずにいられなかった。
突然、家から夫がいなくなってしまった。
LINEを書いている時間だけは、
夫と繋がっていられる気がした。
私自身が耐えるための時間でもあった。

あの日、病院から初めてひとりで家に帰った。
玄関の鍵を開けるのが、怖かった。
開けてしまえば、夫がここにいないことが本当になってしまう気がした。
それでも、いつものように「ただいま」と言った。
返ってこなかった。
あ、今日から夫はここにいないんだ。
その場でしゃがみ込んで、しくしくと泣いた。
声を出さない泣き方だった。
クマくんの脱いだままのスーツ。
かけっぱなしのワイシャツ。
お布団に残った匂い。
顔をうずめて、包まれるようにして眠った。
眠れていたのかどうかは、わからない。
睡眠導入剤は飲んでいたけれど、
あの日から眠りはずっと浅かった。
ご飯は食べた。
私が倒れるわけにはいかないから。
でも少し口に入れると胸がいっぱいになって、
それ以上は入らなかった。
毎日ふたりで食べていたはずの、
作り置きのおかず。
——こんな味だったっけ。
味がしないのではなかった。
味が、わからなくなっていた。
あの頃の私は、夫にエールを送ることでいっぱいいっぱいだった。
私が倒れちゃいけない。それだけを考えていた。
自分がどれだけ削れているかには、
まったく気づいていなかった。
別の日記帳にも手書きで記録していたけれど、
疲れると字が乱れた。
だから夫には、見返しやすいLINEで残すことに決めた。
できるだけ細かく、丁寧に。
11月22日(土)、夫に意識が戻った。
目が合った。ぼんやりとした目だったけれど、確かに私を見ていた。
その夜、病院から帰ってひとりになってから、こう書いた。
「戻ってきてくれて本当にありがとう。本当に、その言葉に尽きます。」
「生きてくれて、本当にありがとう。」
「大好きだよ、本当に愛してる。だからこそちゃんと支えたい」
泣きながら書いた。
嬉しくて、ほっとして、それでもまだ怖くて。
入院から1週間が経った11月26日(水)の朝、こんなメッセージを送った。
「今日で入院してから1週間!本当に回復力(生命力)強くてびっくりしてる‼️ み〜んなびっくりしてるよ‼️ 今まだクマくん辛い状態だと思う。けど支えるから、頑張りすぎないくらいに頑張ろうね‼️ 私がいるよ」
自分で書いておきながら、
自分がいちばん救われていた。
「私がいるよ」——その一言が、支えだった。
11月29日(土)、亀さん(夫の大学の先輩)とお義母さんが面会に来てくださった。
その夜、こんなメッセージを書いた。
「15:00〜16:00で亀さん、お母さん来てくれたよ!頭洗ってくれたみたいなのと(髪の毛ふわふわだったよ!)、リハビリ頑張ってたみたいなので、眠かったみたい。」
「髪の毛ふわふわだったよ」。
そう書きながら、少し笑えた気がした。
HCU(高度治療室)で過ごした2週間、
私は一日も欠かさず送り続けた。
12月4日(木)、夫が一般病棟に移った夜、
最後のメッセージを送った。
「2週間のHCU生活、本当ーにお疲れさまでした!!
ここからは本人が携帯見られるのもあり、日記は終了します」
日記は終わった。
でも、夫とのLINEは、そこから本当に始まった。
そしてこの頃、私はもう一つ決めたことがあった。
46年間、一度も取ろうと思わなかった免許を、
夫が入院しているあいだに取ること。
退院するまで、本人には内緒にしていた。
次回は、意識が戻った夫の手に触れた日から書きます。
(第2話へつづく)
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