40年前の高校国語教科書に載っていた「小松左京の文章」をAIと一緒に追いかけた話
最近、妙に気になっている文章がある。
私が高校生だった1980年代前半、高校の現代国語の教科書に載っていた随筆だ。
作者は、たしか小松左京。
だが、SFではなかった。
むしろ日本文化論、文明論のような内容で、「粋(いき)」と「野暮(やぼ)」について論じていた。
その中に、強烈に印象に残っている一節がある。
にぎり寿司を酢飯の側から醤油の小皿につけると、飯がばらけて、蛆虫みたいになって野暮だ――。
そんな趣旨の話だった。
高校生の私は、「小松左京ってSFだけじゃないのか」と少し驚いた記憶がある。
しかし、何年か前に探してみたものの、見つからなかった。
今回、ふと思い立って、AIと一緒に探索してみた。
最初はあやふやだった記憶
最初は、かなり断片的だった。
高校現代国語
1980年代前半
小松左京
「いき」「やぼ」
寿司の醤油の話
これだけ。
しかも、タイトルが「粋と野暮」だったかどうかも怪しい。
私は栃木県立の某高校に1981年から1984年まで在籍していたので、その時期の教科書であることだけは確かだった。
さらに記憶をたどると、
教科書はB5サイズ
表紙は薄緑っぽかった気がする
文体は「〜である」調
SF的ではなく文化評論風
「羅生門」や「檸檬」が載っていた
など、少しずつ輪郭が出てきた。
AIとの対話で起きたこと
面白かったのは、AIが単純に「検索」するだけではなかったことだ。
会話を続けるうちに、こちらの記憶が整理されていく。
最初、私は「『粋と野暮』というタイトルだったかもしれない」と思っていた。
しかし話しているうちに、
「いや、タイトルは違った気がする」
ということに気づいた。
さらにAIは、
「それは『粋』を主題にした文章ではなく、日本文化論・文明論の中で『粋』『野暮』を具体例として使っていた可能性が高い」
と指摘した。
これには妙に納得した。
たしかに、寿司の話は“主題”ではなく、“説明のための例”だった気がするのだ。
実は私は、今でも寿司を食べるとき、にぎり寿司を酢飯の側から醤油につけないようにしている。
ネタの側を軽く醤油につける。
それは単なる食べ方の作法というより、高校時代に読んだあの文章の影響だ。
「酢飯を醤油につけると、飯がばらけて野暮だ」というあの一節が、40年以上経った今も、身体感覚として残っているのである。
考えてみると、学校の国語教育とは不思議なものだ。
テストのために覚えたことは忘れていても、ある比喩や言い回しだけが、妙に生活の中へ入り込んでくる。
なぜあの一節が記憶に残ったのか
考えてみると、あの「蛆虫みたい」という比喩は強烈だった。
高校生の私は、
「寿司の食べ方ごときで、そこまで言うか」
と思った気がする。
しかし今になって考えると、あれは単なる食事マナーの話ではなかったのだろう。
合理性だけではなく、
所作
美意識
型
洗練
といったものを含めて文化なのだ、という話だったのではないか。
つまり、
「食べられればそれでいい」
ではなく、
「どう振る舞うか」
に文化が宿る、ということだ。
1980年代の高校現代国語には、そういう「日本文化論」が多かった気がする。
実際に調査を始めた
AIに背中を押されて、私は国立国会図書館サーチと教科書研究センターを調べ始めた。
まだ目的の文章そのものは見つかっていない。
だが、国立国会図書館サーチの利用者登録まで済ませた。
これは個人的にはかなり大きい。
40年前の教科書の記憶を追っていたはずが、いつのまにか「昔の雑誌や評論を調べる入口」を手に入れていた。
AIは「答え」をくれるだけではない
今回面白かったのは、AIが単なる検索エンジンではなく、「記憶整理の相手」になったことだ。
こちらの曖昧な記憶に対して、
それは文化論では?
タイトルではなく本文キーワードでは?
小松左京らしい文明論では?
と問い返されることで、記憶が少しずつ具体化していった。
その過程は、昔の記憶を発掘するというより、長い間ぼんやりしていた風景にピントが合っていく感覚に近かった。
まだ見つかっていない
今のところ、目的の文章はまだ発見できていない。
だが、かなり輪郭は見えてきた。
おそらくそれは、
1980年代初頭の高校現代国語
小松左京による日本文化・文明論系随筆
「粋」「野暮」が重要な概念として登場
寿司の所作を例に文化や美意識を論じる文章
なのだと思う。
もしこれを読んで、
「それ、覚えている」
という人がいたら、ぜひ教えてほしい。
40年前の教科書の中に、まだ名前のわからない文章が眠っている。
