30年かけた答え合わせに行ってきた 映画『トイ・ストーリー5』感想・考察
映画『トイ・ストーリー5』の感想・考察。
30年続くシリーズの最新作は、笑うのと泣くのとで忙しい102分だった。あらすじも予告編も観ずに劇場へ向かい、中盤から涙が止まらなくなった一観客の記録。シリーズと一緒に育った人ほど深く刺さる、現代のための1本である。
シリーズのおさらい
公開前日、私はシリーズ全4作の考察記事を書き上げた。「トイ・ストーリーは〇〇の物語である」と5,000字以上かけて宣言したのである。つまり退路を断った。答え合わせをせずに済む道は、もう残されていなかった。
一文以外、知らない
最新作『トイ・ストーリー5』について知っていたことは、キャッチコピーの一文だけ。
これ以上の情報は持たず、あらすじも予告編も観ないまま、劇場へと向かった。── 上映時102分。鑑賞後、私はぐしゃぐしゃの顔で出てきた。中盤からずっと泣いていた。困ったことに、同じくらい笑ってもいた。涙腺と笑いのツボを交互に押される、実に忙しい映画だったのである。
採点の結果を先に言っておく。前日の主張は、合っていた。しかも、想像の斜め上の形で。
※この映画は、シリーズと一緒に育ち、いま誰かを育てている人にオススメです。
▼ここからはネタバレを含みます。未見の方はご注意を▼
是非、映画はあらすじも予告編も観ずに、
作品の情報を知らないまま、映画館で鑑賞してほしい。
タイトル:トイ・ストーリー5
原題:Toy Story 5
監督:アンドリュー・スタントン、ケナ・ハリス
出演:トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザック、グレタ・リー、コナン・オブライエン ほか
上映時間:102分
制作国:アメリカ
日本公開:2026年7月3日
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
30年目の、答え合わせ
物語の骨格はこうだ。ボニーの新しいお気に入りは、カエル型のタブレットのリリーパッドが与えられ、おもちゃたちの居場所が揺らぎ始める。
監督は、1作目から全作の脚本に関わってきたアンドリュー・スタントン。『ファインディング・ニモ』や『ウォーリー』の監督である。シリーズの生き字引が、30年目にして初めてトイ・ストーリーの監督席に座った。
そして本作、とにかく忙しい。次から次へと怒涛の展開が押し寄せ、どのシーンにもクスッと笑えるユーモアが沢山仕込まれ、今までのシリーズを観ているとより楽しめる小ネタが満載である。おまけに、おもちゃも歳をとる。ウッディは禿げて腹が出た、おじいちゃん? になっていた(笑)。この経年変化にはちゃんと意味があるのだが、それは最後に書く。
まずは、前日の宣言の答え合わせから始めたい。
この映画には、親が大勢いる
『トイ・ストーリー』シリーズは親離れ・子離れの物語である ── そう書いた翌日にスクリーンで対面したのは、親離れどころではなかった。
この映画には、親が大勢いるのだ。
30年前に子どもと引き裂かれた親。最新型の、生まれたばかりの親。そして、まだ誰の親にもなれていない親たち。彼らが1人の女の子をめぐって、ぶつかり、空回りし、手を組む。『5』は、デジタル時代の「親たち」の物語である。
順に紹介していく。
ジェシー ── 30年前に捨てられた親
今作の主役は、ウッディでもバズでもない。ジェシーである。
『2』を観た人なら、彼女の傷を知っているはずだ。自分が捨てられ、忘れ去られてしまったと思い込み、長年深いトラウマを抱えてきたカウガール人形。あの『When She Loved Me』の数分間は、いまだにシリーズ屈指の刃である。
その彼女が今作では、ボニーの一番のおもちゃ ── つまり「親」として、友達を作れずにいる我が子を守ろうと奔走する。しかし想いは空回りし、ジェシーの憂鬱は深まっていく。守りたいのに、うまくいかない。かつて捨てられた者が、今度は「いらない」と言われる側の恐怖と再び向き合うのである。
そして物語は、彼女を最初の持ち主エミリーの記憶へと連れ戻す。安易にエミリーを再登場させて涙を搾り取ることもできたはずだが、映画はもっと繊細な決着を選んだ。エミリーにとって自分は、決して忘れられることのない大切な存在だった ── ジェシーがそう気づく瞬間、30年物のトラウマが静かにほどけていく。私の涙腺が最初に決壊したのは、この一連の場面である。
リリーパッド── 最新型の親
さて、本作の「敵」であるカエル型タブレット、リリーパッド。ところがこの敵、敵ですらなかった。
彼女は彼女なりに、本気でボニーの幸せを考えている。問題は方針だ。ジェシーもリリーパッドも「自分の子育て方法が良い」と言い張るのである。想像力の遊びで育てたい旧型の親と、デジタルで背中を押す最新型の親。教育方針の合わない親同士の衝突、と言い換えれば、この構図の生々しさが伝わるだろうか。
これはまるで、嫁と姑問題さながらである。
過去作に登場したシドは乱暴な子どもだった。ロッツォは復讐者だった。歴代の敵と違い、リリーパッドは善意で空回りする。そして事態を悪化させ、我が子を傷つけてしまったと知ったとき、彼女が選ぶ行動を、私は「自殺」と受け取った。子育てがうまくいかない自責の果ての、自己犠牲。あれもまた、まぎれもなく「親」の行動だった。
旧型と最新型、ふたりの親が同じ子のために傷つく。ここが本作の心臓部であり、私の涙腺が完全に崩壊した地点である。
所有者のいないバズたち
そして忘れてはならないのが、大量のバズ・ライトイヤー軍団である。
彼らは、自分が何者か、なぜそこにいるのか分からないまま目覚めた、最新型の未開封のおもちゃだ。島には彼らの未開封ボックスが数十個並んでおり、自我を持ちながら自分探しをする姿が描かれる。
これ、1作目でバズひとりが経験したアイデンティティの崩壊の、増殖再演である。『2』で店頭の棚に並ぶ大量の自分と対面したあのギャグへの目配せでもある。しかも「未開封」ということは、彼らは一度も子どもに遊ばれたことがない。つまり、まだ誰の親にもなれていない親たちなのだ。
台詞に頼らず、動きだけで笑わせるこの軍団の見せ方は本作屈指の発明で、劇場のあちこちから笑い声が上がっていた。笑わせながら、シリーズ30年のテーマをこっそり背負わせる。完全にしてやられた。
スクリーンの前には、9歳の娘の親がいた
ここで白状する。号泣の正体は、映画の外側にあった。
ボニーは8歳。私の娘は9歳。タブレットに夢中になる年頃も、友達作りにつまずく年頃も、「おもちゃで遊んでるの?」という言葉の圧力も、我が家にとって寓話ではない。身の回り50cm以内の話である。
デジタルデバイスに夢中になり、子どもたちの時間は画面に吸い込まれ、想像力で遊ぶ時間が消えていく。それを見つめるおもちゃたち=親たちの不安は、スマホを握る娘を見つめる私の不安と、寸分違わず重なった。
ただし映画は、デジタルを断罪して終わらない。デジタルデバイスもまた、いつか捨てられる側になる ── 最新機器すら新旧交代の波からは逃げられないことを、きちんと描くのだ。悪いのは道具ではない。問われているのは、子どもが自分のペースで育つ時間を、大人が守れるかどうかである。8歳の子に「おもちゃで遊んでるだなんて、遅れてる」と言う世界は、愛がないと感じる。
愛された記憶は、永遠に消えない
終盤、全ての伏線が繋がっていくとき、新旧のおもちゃが力を合わせる。旧型も最新型も未開封も、世代を超えて1人の女の子のために走る。ピクサーのお家芸だが、この大団円の多幸感たるや。。。もう、泣でスクリーンが見えない。
そしてウッディ。ミッションを終えた彼は、ボニーの部屋には留まらない。ボー・ピープたちの待つ外の世界へ帰っていく。ただしトランシーバーで、バズやジェシーといつでも繋がりながら。子どもの部屋という「家」を失っても、おもちゃとしての使命と仲間との絆があれば、そこが新たな居場所になる。『4』で自分の人生を選んだ親の、その後の人生をきちんと肯定してみせたのだ。
たとえ手元を離れ、二度と会えなくなっても、愛された記憶は永遠に消えない。
シリーズが30年間描いてきた問いに対する、ピクサーからのこれ以上ない優しい回答である。
答え合わせを、いくつか。監督のスタントンはこの企画について「時間を抱きしめられるのが、この物語の特権だ」と語っている。ウッディが禿げるのも腹が出るのも、演者たちの声に年輪が刻まれているのも、すべて意図なのだ。共同監督のケナ・ハリスは、子どもの頃『2』のジェシーが身の上を語るあの場面を、何度も何度も描いて育った人だという。ジェシーに射抜かれた子どもが大人になり、ジェシーを主役にした映画を撮った。ごっこ遊びの中に入り込む場面だけ、水彩のようなやわらかい別世界の画になるのも意図的な設計である。そして制作陣は、本作にAIを使っていないと明言している。デジタルの波を描いた映画を、人の手で作り上げたのである。
おもちゃの時代は、もう終わりなのか。映画の答えと私の答えは同じだ。愛された記憶が消えないかぎり、終わらない。
前日の記事の最後に「答え合わせは、また後日」と書いた。その答え合わせは、こうして最高の形で済んでしまった。次にこのシリーズと答え合わせをするのは、私ではなく、いま9歳の娘なのかもしれない。
