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藤井風論(Behind The Scenes)第5回

ついに連載が終わりました

2025年10月から開始した連載「藤井風論──救済の音楽」が無事に終わりを迎え、このBTS(B面)も第5回目にして最終回です。当初はもう少し、2回に1回くらいは書こうと思っていたのですが、忙しくてなかなか更新できませんでした。スミマセン……。A面も月2回の更新の予定でして、最初の予定では5月に終わるはずでしたが、大学で委員長業務を引き受けることになり、これが思った以上に激務で……スミマセン。と、いろいろ言い訳をいっていますが、まあでも、どうにか最後まで書き上げることができて、ホッとしています。

これまで新聞や文芸誌、週刊誌での連載はやってきたのですが、ウェブ連載は初めてでした。ウェブは厳密な締切がないので、つい(いや、あります!)…。僕は紙を偏愛してきた人間で、ネット記事はモノとして残らず手に取ることもできないので、あまり好みではありませんでした。いや、いまだにそうなのですが、だからこそ、文筆業を始めてからしばらくは引き受けていませんでした。ただ、最近はいくつか受けるようになっています。藤井風について連載をと依頼がきたときは、実は紙の可能性もあったのです。PR誌『ちくま』という選択肢もあったのですが、これは広く流通しているわけでもない。それはイイ!と思ったのですが(本来ひっそりと目立たずに書くのが好きなもので…)、もし紙媒体、しかもPR誌にしていたなら、いまほど多くの人に読まれることはなかったでしょう。

悩んだときは、批評対象のあり方や表現についか考えるようにしています。紙媒体だと、そこにアクセスできる人が限られてしまう。藤井風だったら、広く無償で平等に読める媒体にするだろう、簡単にシェアできるメディアを選ぶだろう、と。実際、海外に住んでいる方や、日本語話者ではない方にも読んでもらえているようで、こちらを選んで正解だったなと思っています。海外からの風民たちの反応を見ると、この選択はかなり大きな違いだったのではないかと後から実感しました。何より無償で読めるというのは、藤井風っぽくていいではないですか。

『文學界』で「椎名林檎論──乱調の音楽」を連載していたときよりも、ウェブ上に記事そのものがあるので、直接的に反応が返ってくるのも嬉しいことでした。もちろん、ときには嬉しくない反応も返ってきますが(笑)。でも、こういうことも含めて、現在進行形のアーティストについてウェブで書くということなのだろうと思います。

先にも、またどこか別の場所でも書きましたが、僕は批評する対象を、論じる時に強く意識します。たとえば、椎名林檎だと一見さんお断り的な佇まいをしている。形式主義的な芸術家でもある。だから、批評のスタイルも少しそこに寄せました。あえて平易な言葉を使わないようにしていたし、コードなど楽理分析も端々で割とがっつりしている(そこまで高度な分析はしていないのですが、意味不明といった声も届いてきました)。

一方、藤井風は誰もがわかるように届けようとしている。だから、楽理分析は編集者と連載開始前の打ち合わせで、ほとんど盛り込まないようにする、難解な表現はなるべく避ける、読者を置いていくような批評にはしない、と決めていました。また、彼の音楽世界は、非常に私的で小さな世界が巨大な存在と直結している。だから、今回の「藤井風論」は僕が書いたなかで、もっとも感情的で一人称的な書き方をしています。ごく個人的で主観的な感覚がきっと広いオーディエンスとつながっている。そう信じて、このようなスタイルを採用しました──〈あなたはわたし わたしはあなた〉。特に第1回のプロローグと最終回は、全体を包摂するように、かなり意識的に情緒を込め、エッセイ風に仕上げています(逆に「椎名林檎論」は対象との距離をとってクールに書いていたはず)。

本当に書けるのか、不安だった

第1回のBTSをいま読み返してみたら、連載開始早々、「合計16回ほど続く予定です(そんなに書けるのでしょうか!マジでいまんとこノープランなんですが)」みたいなことを書いていました。

が、どうにか書けました!一応完走できた!! とはいえ、本当に最初から16回分の構成が完璧に見えていたわけではありません。もちろん大枠は考えていましたが、書きながら見えてきたこともありました。現役で活動しているアーティストを論じる以上、こちらが原稿を書いているあいだにも、本人がどんどん変化していくからです。具体的な例を挙げると、宗教(ヒンドゥー)やスピリチュアリティについては、連載のどこかで書こうと漠然と考えていました。ところが今年、ロラパルーザ出演のためインドを訪れた際のインタビューで「両親がヒンドゥーの教えに惹かれていて、自分もそうだ」と答えた『India Today』(2026年1月26日)の記事があり、これは最終回で書こうと決めました。

椎名林檎は現在も活動しているとはいえ、東京事変も含む、これまでの音楽作品の全体像を捉え直して歴史化する、というのが連載時の主なコンセプトだったので、リアルタイムの動きはそれほど追う必要がありませんでした。でも風の場合は、つねに新しい曲がリリースされ、つねに新しいMVが公開される。日本でも海外でもライブをする。こちらも行けるライブには、海外であっても足を運ぶ。どんだけ忙しかろうと、海外のライブに行ける時は(授業を休講にして、いや、申し訳ない気持ちでさせていただいて)駆けつけていました(これも大事な仕事だから…)。インタビューで、それまで聞いたことのなかった話をする。つねに現在進行形のアーティストを追う難しさというのがありました。しかも彼の場合、つねに変化とともにある。

ただ、それが今回の連載の面白さでもありました。一人のアーティストの連載を書きながら活動を追っていけるなんて、なんと幸せなことなのでしょう。今でも苦い記憶が残っています。学期中にロンドン公演に駆けつけて、急いで帰国して翌日に授業に行くつもりだったのが、ひどい時差ぼけで寝坊し、授業に遅刻して学生に平謝りしたこともありました(初めてのことで人生ベスト5に入る焦った経験)。『潮』(2025年9月号)のずいひつ「波音」に寄稿した「教室に「ゆるさ」を取り戻す」というエッセイで、このことについて書いております。ここでは直接風の名前は挙げていないのですが、実はロンドン公演のライブを強引にねじ込んだために最悪の事態になるところでした(なんとかTAと連携してやり切った)。

リアルタイムで躍進しているアーティストを論じることは、亡くなった映画監督や、すでに歴史化された映画作品について書くのとはまったく違う。対象がこちらの分析を待ってくれない。現在進行形で変わり続ける人について、こちらも走りながら考えていく。個人noteのライブレポ、BTSも含めて、そういうライブ感のある批評になったのではないかと思っています。

連載を振り返る(目次と構成)

ここで少し連載をメタ的な視点で振り返ってみたいと思います。まず各連載のタイトルを並べてみましょう。それぞれのテーマもつけておきます。

①「プロローグ」総論/方法論
②「越境すること」メディア論
③「包み込むこと」ファンダム論
④「豊穣であること」楽曲論❶
⑤「混ざりあうこと」楽曲論❷
⑥「満ちてゆくこと」歌詞論❶
⑦「一つになること」歌詞論❷
⑧「奏でること」演奏/歌唱論
⑨「攪乱すること」ライブ論
⑩「映し出すこと」MV論
⑪「クィアすること」ジェンダー/クィア論
⑫「再創造すること」カバー論
⑬「シンプルであること」言語論/英語論
⑭「グルーヴすること」チーム論
⑮「透明になること」人物論/ペルソナ論
⑯「スピリチュアルであること」宗教論/スピリチュアリティ論

ちなみに、各回のタイトルを「〜すること」で統一していることに、すぐ気づいた人もいるでしょう。そう、蓮實重彦の名著『監督 小津安二郎』〔増補決定版〕(筑摩書房)へのオマージュです。せっかく同じ筑摩書房で書くのだから、と蓮實御大へのリスペクトを込めてみました(どのくらい伝わっているのだろう)。

蓮實重彦の名著『監督 小津安二郎』(筑摩書房)

実は、前著『椎名林檎論──乱調の音楽』(文藝春秋)でも、密やかに気づかないレベルで蓮實重彦や四方田犬彦の文体へのオマージュを捧げている箇所があります。そういう目立たないやり方が好きなのですが、これはあからさまです。まあ、でも蓮實重彦を知らない映画批評家も最近はいるくらいだから、このくらいやったほうがいいかもしれない。

目次と構成に話を戻します。まだA面「藤井風論──救済の音楽」を読んでいない人のために、あるいは読んでくださった方にも、全体で何をやったのか、藤井風のセルフライナーノーツばりに解説しておきましょう。

連載を振り返る(セルフライナーノーツ)

①「プロローグ」総論/方法論
連載の出発点として、コロナ禍以降の閉塞した時代になぜ藤井風の音楽がこれほど求められたのかを考え、「救済の音楽」というタイトルに込めた意味を示した。音楽だけでなく、映像やSNS、身体、言葉や振る舞いまでを含めて、一人の現役アーティストを多角的に論じていく方法もここで提示した。

②「越境すること」メディア論
YouTubeに演奏動画を投稿していた少年時代から、日産スタジアムでの無観客生配信ライブ、世界へと広がっていく活動までをたどりながら、藤井風がテレビ/ネット、ローカル/グローバル、観客との近さ/スターとしての遠さといった境界を軽やかに越えていくアーティストであることを論じた。全体を貫くのは(ソーシャル)メディア論。

③「包み込むこと」ファンダム論
ファンクラブを作らないこと、YouTubeや公式アプリを無料で開くこと、ライブでチケットを取れなかった人にも配信を届けることなどに注目し、ファンを囲い込むのではなく、できるだけ誰も排除しない藤井風の姿勢を考えた。音楽産業のビジネスモデルそのものに風穴をあける、その包摂的で特異なファンダムのあり方を考察した。

④「豊穣であること」楽曲論❶
「何なんw」や「青春病」を中心に、長いイントロ、複雑なコード進行、裏拍のグルーヴ、予測しにくい曲構成、岡山弁とメロディの関係などを細かく分析した。譜面上ではかなり複雑でありながら、それを極上のポップミュージックとして自然に聴かせてしまう、藤井風の音楽の「豊穣さ」がどこから生まれるのかを考えた音楽論。

⑤「混ざりあうこと」楽曲論❷
藤井風のマスターピースとして「まつり」一曲を徹底的に分析した。ブラックミュージックと日本の伝統音楽、裏拍と表拍、英語的なグルーヴと日本語のモーラ、新と旧、ローカルとグローバルが混ざりあいながら、〈勝ちや負けとか一切ない〉という思想まで、音楽そのものに組み込まれていることを論じた。

⑥「満ちてゆくこと」歌詞論❶
「満ちてゆく」「帰ろう」「もうええわ」「特にない」など、複数の楽曲に繰り返し現れる「手放す」という言葉を追いかけた。「手に入れる」ことで満たされるのではなく、欲望や執着を自ら断ち切ることで軽くなり、自由になり、逆説的に満たされていく。この思想を「積極的切断」と名づけ、仏教の「無我」とも重ねながら読み解いた。思想論でもある。

⑦「一つになること」歌詞論❷
「grace」「ロンリーラプソディ」「花」「Feelin' Go(o)d」などに繰り返される「一つになる」というモチーフから、藤井風の世界観を考えた。私/あなた、自己/他者、勝ち/負けといった二項対立を溶かしていく歌詞を、人類学や仏教、インド思想の非二元論にも接続しながら、一元論的・関係論的な人間観として論じた。前章の「手放す」思想に対して、非二元論の思想論。

⑧「奏でること」演奏・歌唱論
藤井風の「声」と「ピアノ」そのものに耳を澄ませた回。譜面には書き表せない微妙なタメや揺らぎ、ブレス、音の強弱、ピアノのタッチなどを分析し、機械的に均質化された音とは異なる、生身の身体から生まれる「温もり」や「生々しさ」が、彼の歌唱と演奏の魅力を作っていることを読み解いた。

⑨「攪乱すること」ライブ論
録音された音源ではなく、実際のライブ会場で藤井風の声やピアノを身体で浴びるとはどういうことなのかを考えた。巨大な会場を一瞬で親密な空間へ変え、遠くにいるはずのスターを耳元にいるように感じさせる──近さ/遠さ、親密さ/超俗性を攪乱する、藤井風のライブならではの音響体験を論じた。8章を歌唱論❶、9章を歌唱論❷として考えていたが、音源とライブの違いが相対的に浮かび上がった。

⑩「映し出すこと」MV論
「ミュージックビデオを撮るためにデビューしたようなもん」と語るほど映像にこだわる藤井風にとって、MVが音楽の付属物ではなく、作品そのものの一部であることを論じた。「何なんw」「帰ろう」「満ちてゆく」「grace」などを分析し、歌詞に潜む思想が、身体、風景、動物、死、祝祭といったイメージによってどのように拡張されているのかを考えた。

⑪「クィアすること」ジェンダー/クィア論
「死ぬのがいいわ」をはじめとする歌詞、MV、衣装、身振り、ライブでの観客への呼びかけなどをクィアな視点から読み直した。男女の恋愛や「男らしさ/女らしさ」を当然とする規範をずらし、固定されたジェンダーやセクシュアリティの境界をゆるめながら、誰も排除しない空間を作る藤井風の表現を論じた。

⑫「再創造すること」カバー論
12歳から続けてきたカバーを、単に他人の曲を「うまく歌う」行為ではなく、原曲を解体し、別の音楽として作り直す「再創造」として捉えた。リハーモナイズやピアノアレンジを具体的に分析しながら、古今東西の音楽を身体に取り込んで自在に奏で直す藤井風を、ここでは「全身音楽家」と呼んだ。このフレーズ、まさに風を的確に表現する言葉でとても気に入っている。

⑬「シンプルであること」言語論/英語論
全曲英語詞の『Prema』を手がかりに、藤井風にとって英語とは何なのかを考えた。幼少期から洋楽とともに身体化してきた英語、日本語詞を自ら訳すことで生まれる意味の変化、海外ライブでのシンプルな英語などをたどりながら、英語によって言葉と音楽がより直接的になる一方、日本語特有の曖昧さや遊びが失われるという両義性も論じた。

⑭「グルーヴすること」チーム論
ここでは藤井風本人から少し視線をずらし、マネージャーの河津知典を中心とする「チーム風」を主役にした。マネージメント、映像、衣装、ライブ制作など、それぞれのスタッフが風の思想を受け取り、それを現実の表現や場へ翻訳していく。その上下関係ではない協働のあり方を、音楽になぞらえて「グルーヴ」として捉えた。

⑮「透明になること」人物論/スター論
ここでようやく、作品ではなく「藤井風という人」そのものに正面から向き合った。神々しく超俗的に見える一方で、忘れ物が多く、身なりには無頓着で、臆病で緊張もする。そうした不完全さや脆弱さを隠すのではなく、自我をできるだけ薄くして「透明」になろうとする姿勢こそが、逆説的に彼のスターとしての神秘性を生み出しているのではないかと考えた。

⑯「スピリチュアルであること」宗教論/スピリチュアリティ論
最終回では、連載の随所に現れてきた藤井風の精神性を正面から扱った。両親から受けたヒンドゥー思想の影響、ヴェーダーンタや「手放すこと」「奉仕すること」といった思想、祈りやマントラ、日々の倫理的な実践までをたどりながら、宗教的な思想を難解な教義としてではなく、誰もが触れられるポップミュージックへと翻訳してきたところに、藤井風の「救済の音楽」の核心を見出した。

以上、16回かけていろいろな角度から藤井風という一人のアーティストを解体してきましたが、全体を俯瞰してみると、連載全体にはある種の流れができているように思います。前半では、メディアやファンダムといった藤井風を取り巻く外部環境から出発し、音楽、楽曲、歌詞、思想へと、少しずつ作品の内側へ入っていく。中盤では、そこから演奏する身体、ライブ、映像、ジェンダーへと視野を広げ、後半ではカバー、言語、チーム、人物、そして最後に宗教/スピリチュアリティへと進んでいきます。つまり、外側から内側へ入り、いったん身体や表象へと展開したあと、もう一度、藤井風という人間の中心へ戻っていくような構成になっています。

もちろん、最初からここまで精密に設計していたわけではありません。むしろ、書きながら次に何を論じるべきかを考え、その都度テーマを決めていったところも大きい。それでも、こうして振り返ってみると、最終的には作品の分析から始まり、だんだんとその作品を生み出す身体や人間、さらにその奥にある思想や精神性へと近づいていく連載になっていたのだと思います。メタ的に眺めてみると、書いている最中には見えていなかった、自分がこの連載で何をやろうとしていたのかが、ようやく見えてくる気がします。

フジロックでのこと

話は変わりますが、彼がデビューしてから国内・国外ともに行けるライブはなるべく参加してきました。ただ、すべて一人参加でした。なぜ一人なのかといった家庭の事情は、『文學界』2025年6月号に「藤井風が歌うとゲームパーティが開かれる」というエッセイを寄稿しているので、関心があれば読んでみてください。ちなみに、風関連では、先日もXでポストしたように住総研の機関誌『すまいろん』(119号)に「小さな部屋が世界につながる──藤井風と個室のメディア文化」という論考を寄稿しています。

ずっと一人参加だった藤井風のライブですが、前回のBTSを書いたあと、なんと家族5人でフジロックへ行きました! 初めて藤井風のライブを家族で見ることができたのです!! 家族席を事あるごとに申し込んでみたけれど外れまくる。2次に諦めてやはり妻と一人ずつ申し込む。その繰り返し。いや〜夢が叶って嬉しかった。うちの子供たちみんな藤井風が大好きで、家でも気づけば鼻歌が風なんですよ……かわいい(笑)。詳しくは、なぜか朝から勢いに任せて1万字も書いてしまったライブレポ「藤井風 フジロック 2026:ライブレポ(新潟)」があるので、ここでは繰り返しません。でも、あの日の藤井風を見ながら、この連載でずっと考えてきたことを、少しだけ身体で確認できた気がしました。

大きなGREEN STAGEで、風は客席のなかからサックスを吹きながら現れました。遠くにいるスターとして登場するのではなく、まず観客と同じ場所に降りてくる。そしてステージへ上がり、歌い、演奏し、会場全体を一つの空間に作り替えていく。『まつり』では妻と娘が一緒に踊り、子供たちが『何なんw』を大声で歌っている。特に『まつり』を一緒に踊りたいとずっといっていた娘が嬉しそうに歌って踊っている姿に涙が……。風の音楽を聴いてきたこの7年間、一生分の涙を流している気がしますよ、マジで。

僕は連載で『まつり』を、藤井風のマスターピースだと書きました。違うものが混ざり、境界がゆるみ、勝ち負けから降り、みんなで踊ることのできる祝祭の音楽。そのことを6000字くらい使って一生懸命説明したわけですが、妻と娘が目の前で一緒に踊っている光景を見たら、これのことか、と思いました。その一方で、『満ちてゆく』になると、あれだけ大きな会場なのに、急に一人ひとりが自分の内側へと戻されていく。外へ向かって開かれる祝祭的時間と、自分自身の内側へ深く沈んでいく内省的時間。藤井風の音楽には、ずっとこの二つの方向があります。

「幸せは自分の外側ではなく、自分自身の内側にある」

フジロックでも、風はそんなことを話していました。というか、いつも同じことをいっています。手を替え品を替え、同じことばかりいっています。この思想の変わらなさ。これほど同じことをいろいろな曲を通して歌い続けている歌手もまあいないですよね。活動や音楽はどんどん変化しているのに、根本はブレない。ずっと一貫した思想を持ち続けている。そんな変わり続けながら変わらないところに、藤井風というアーティストの強さがあり、信頼が生まれるのだろうと思います。

連載の最後まで考え続けた、藤井風のスピリチュアリティも、結局ここに戻ってくるのだと思います。遠くにいる神や、何か特別なものに救ってもらうのではない。自分の内側にあるものに気づくこと。余計な荷物を少しずつ手放し、誰かと比較することをやめ、すでにあるものに満たされること。そういう思想を、彼は難しい言葉ではなく、歌と身体で繰り返し伝えてきた。そういう意味でも藤井風のステージは「救済」なのだと思います。

連載を書き終えて

「藤井風論──救済の音楽」というタイトルをつけたとき、「救済」という言葉は少し強すぎるかもしれないと思っていました。誰か一人のアーティストが、人を救うなんて簡単にいっていいのだろうか──。そういう逡巡ももちろんありました。

いまも、その慎重さは必要だと思っています。音楽を聴けばすべての問題が解決するわけではないし、藤井風自身だって、何もかも超越した聖人ではありません。第15回で書いたように、忘れ物もするし、緊張もするし、落ち込むし、うまくいかないこともある。一人の不完全な青年です。

だからこそ、なのだと思います。完全な人が上から「救ってあげる」と手を差し伸べるのではない。同じように迷いながら、少しでも自分を磨こうとする人が音楽を作り、その音楽を通して、「こっちのほうがちょっと楽かもしれんよ」と心地よい場所をつくってくれる。

僕にとって藤井風の「救済」とは、そういうものです。

誰かを別の場所へ連れていくことではなく、その人がすでにいる場所を、ほんの少しだけ生きやすくすること。第1回のプロローグで、「誰かがちょっといい気分で人生を送れたりするために音楽をやっとる」という藤井風の言葉から連載を始めました。16回書いて、結局またそこへ戻ってきました。

そして16回書き終えたいまも、藤井風のことが「わかった」とはまったく思っていません。むしろ、書けば書くほど、わからなくなったところもあります。マジで意味わからん、(最大級の褒め言葉で)変人ですよね。でも、それでいいのでしょう。風という人は、わかりやすいと同時に、永遠にミステリアスでもあります。そこがまた面白いのです。

批評は、対象についての最終回答を出して蓋を閉じるためにあるのではなく、もう一度その音楽を聴き直し、その人を見直すためにあるのだと思います。A面16回、B面5回。長いあいだお付き合いいただき、本当にありがとうございました。毎回読んでくださった方も、途中から読んでくださった方も、SNSで感想を寄せてくださった方も、静かに読んでくださっていた方も、皆さんの反応にかなり励まされました。

この連載がなければ、僕はただの熱狂的なファンのままで、ここまで藤井風の音楽について深く考えることもなかったでしょう。そして、書くことによって僕自身も、音楽の聴こえ方がずいぶん変わりました。仕事でも日常でもがっつり向き合えるなんて、本当に幸せなことです。これ以上ほしいものなんて「特にない」ですよ、マジで。

今後の書籍化のこと

先日、「藤井風論──救済の音楽」最終回の公開と同時に、筑摩書房のアカウントから単行本化されることがアナウンスされました。いつになるかまだ正確にはわかりませんが、しばし待っていてください。ところで、このB面のBTSも入れてほしいという声を聞くのですが、(それは出版社的にも難しいので)この個人noteに書いてきた「ライブレポ」と「藤井風論(Behind The Scenes)」をZINEで雑誌にするのはどうでしょうか(作ったことないので一度やってみたかったのです笑)。

あと『文學界』に掲載した「藤井風が歌うとゲームパーティが開かれる」(割と評判がよかったエッセイ)も収録して、他にもかなり前に「利他」の視点で書いた論考「手放すこと/受け取ること──藤井風の音楽における余白」『コモンズ』vol.2、最近寄稿した「小さな部屋が世界につながる──藤井風と個室のメディア文化」『すまいろん』(119号)もぶちこんで、なんだかわけわからない雑誌になりそうですが、全部藤井風!需要あるかな…笑

BTSはいったん、ここで終わりです。とはいえ、藤井風はこれからも音楽を作るでしょうし、僕も変わらずライブへ可能なかぎり行くでしょう。いまのところ、まったく「Okay, Goodbye」という気分ではありません。というか、今年もまだライブに行きます(年末のタイのチケットを購入していましたが、急遽中止。残念ではありますが、貴重な年末に日本で家族と過ごせると思うと、それも嬉しくてポジティヴに受け止めています)。いまのところ福岡に行けます。また、ライブレポ、書きますね。海外のライブに行ったら、映像もシェアしますね。

それでは、A面とB面、最後まで両面お楽しみいただき、本当にありがとうございました。また、どこかで。

映画研究者/批評家・随筆家 北村匡平


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