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はじめて日本語史を覗いてみた。田中草大 著『古文と漢文』——書き言葉の日本語史


はじめて読む日本語史の本


書影

ふらっと立ち寄った書店でこの著書を知り、購入した。平積みされている本書の表紙の『古文と漢文』のタイトル部分だけが目に飛び込んできて、そのあとは中身をパラパラとめくって購入を決意。帰りの電車の中で改めて見てみると、副題に「日本語史」というワードが入っている。やはり英語史のラジオを毎朝聞いていると、自然と◯◯語史と名の付くものを引き寄せてしまうようだ。

とはいえheldioで英語史の話はたくさん聞いてきたが、母語である日本語の歴史は、存在が近すぎるだけに、なまじ向き合う機会がなかった。

古典は、わからないことがいっぱい

私は学生時代、古文も漢文も苦手だった。単語や文法をろくに覚えず、テストも受験勉強もなんとなくやり過ごしていた。それだけに、よくわからないことも、「ほったらかし」にしてきた。なぜかって・・・

  • 質問したら「そんなこともわからないの」と怒られそう

  • 大前提すぎて質問するタイミングがない

  • 先生も答えられるかわからない

そんなぼんやりした謎たちを自分の中に眠らせていた。

しかし、本書に出会うことで、私はこうした謎たちの答えをついに見つけることになった。(あの時からはや○十年!)

例えばこんなものだ。

  • 昔の人は本当に『源氏物語』の文章みたいな日本語を話していたの?

  • 『西遊記』や『水滸伝』が漢文の教科書に出てこないのはなぜ?

  • 昔の日本人は書き言葉に漢文(中国語?)を使っていたけど、それってすごくないですか?どうしてそんなことできたの?

  • なぜ漢文を国語の授業で扱うの?

  • 候文って一体ナニモノ?

  • どうして明治時代の人は文語文を書けたの?

  • 歴史的仮名遣いってどんなルールになってるの?

中学や高校の頃に「古典のなぜ?千本ノック」企画があったらぶつけてみたかった質問が、この一冊の中でいくつも回収された

個人的ハイライト:候文についての解説

とくに第四章「漢文とは何か(2) 変わっていく漢文」での候文の解説には膝を打たずにはいられなかった。この箇所の一部を紹介したい。

 現代語を例にして考えてみると、口語文と文語文との主たる相違点として活用の違いがある。一例として、「越える」という動詞では次のような相違がある。

・山を越える。 → 越ゆ。
   越える時 → 越ゆる時
   越えれば → 越ゆれば

 文語文を書くためには本来、普段の話し言葉とは異なるこうした活用を習得する必要がある。ところが、用言に規則的に「候」を入れていく場合には、実際に活用するのは「候」であり、それに前接している用言自体は形を一定させることとなる。

・山を越える。 → 越え候。
・越える時 → 越え候ふ時
・越えれば → 越え候へば

 先ほどと異なり、「越える」は一貫して「越え」という形だけを取っている。つまり「候」の活用さえできるようになっておけば、諸々の用言は連用形(「候」に接続するときの形)だけで事足りるのである。

田中草大『古文と漢文』——書き言葉の日本語史

候文は、漢文や文語文の知識がなくても書ける文語文だったのだ。

フランス語との意外な共通点

これを読んで、フランス語学習者である私は、フランス語を書いたり話したりする時の方策との共通点を見出した。

フランス語は英語よりも人称・時制・法などの違いによる動詞の活用が複雑なので、活用をきちんと記憶していないと、思い通りに文を書くことができない。
しかし、動詞pouvoir(英語の助動詞canのようなもの)やdevoir(英語の助動詞mustのようなもの)を介在させることにより、その後に続く動詞を不定形のまま用いることができる。(フランス語のpouvoirとdevoirは動詞に分類されるが、使い方は英語の助動詞canやmustに似ている。)

カジュアルな場面のコミュニケーションならば、活用が間違っていたって大した問題ではない。しかし、フランス語の各種試験のライティング(production écrite)やスピーキング(production orale)では、そういう訳にもいかない。いざ使おうと思った動詞の活用がわからない、という窮地に立たされたとき、このpouvoirやdevoirを入れて難局を乗り切ることができる!同じことを考えている学習者は少なくないのではないだろうか。

現代の日本語での共通点

いきなり日本語から離れた言語の例を挙げてしまったが、現代の日本語非母語話者の日本語学習でも、似たようなことが行われていることを思い出した。(私は日本語教師のアルバイトをした経験があり、いちおう、もとい、ちゃんと日本語教育能力検定という試験にも合格している。)

日本語を初めて学ぶ学習者には、動詞を「〜ます」の形で教える。「ます」の活用さえ覚えておけば、否定(〜ません)も過去(〜ました)も、否定の過去(〜ませんでした)も言えるようになるからだ。

現代日本語の活用を苦労して覚えたという母語話者はあまりいないだろうが、こうして外側から眺めてみると、現代語でも共通の現象があることを確かめられる。

現代人を古典と繋いでくれる一冊

言文一致体で作文する限り、文を書くときに動詞の活用で苦労する経験をすることはない。候文の便利さなどは、文語文を受容する(読む)だけでなく、産出(書く)しなければならない立場になったとき、はじめて気づくことなのだろう。文語文や漢文を書く必要のない私たちは、少し前の日本人にとって当たり前だった様々な古典の前提を知ることが難しくなっているのではないだろうか。文語文を使うことをやめて以降、ふだん使いの日本語と古文との距離はどんどん遠くなっているのだろう。

本書は、そんな現代人が古典に親しむ手助けをしてくれる一冊だといえる。私は、古典の成績はさっぱりだったが、近頃はNHKラジオの番組『古典購読』なども聴くくらいには古典作品に興味を抱いている。日本語の書き言葉がたどった歴史を頭に入れておくと、古典作品の鑑賞がいっそう楽しくなるだろうと思っている。

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