表現したいという気持の始発駅はあったのか? 文芸がなぜ好きだったのか、例えば、なぜ太宰治に惹かれたのか・・・
いま私は育った遠州のことを綴ることを愉しんでいる。
なぜって、恥ずかしいと思うくらい知らなかったことだらけの遠州のことを調べたり現地に立ってみたり何の利益も、褒められることでもないのに、子どもの遊びのようにウキウキしている自分がいる。
遠州以外の人が読んでも知らない地名や固有名詞だらけの、風土記とも言えない雑文で、興味をもって読んでくれる人は滅多にいないことがわかっているのに、この道楽を続ける自己満足には違いないのだが、ときには、思ってもみなかった景色を発見できる(連想)というジャンプ台もあり、書き続けている。そんなふうに自分を励ましながらの投稿の最中に(不意に)と、(やっぱり)という矛盾している二つの言葉であらわすしかない【疑問符】が出てきたのです。
この年齢にもなって私の場合だが書くという【表現】したいという気持はどこから来るのだろうと、思ってしまったのです。
どこに出発点、始発駅があったのだろうと、高齢なのに、またまたヘンなことを考えてしまった。いまさらどうでもいいはずなのに、気になってしまったのだから仕方がない。
以前(本には交流がある)という文を書いたが、もう一度、生意気な文学少年の所へ行ってみるか、なにかヒントがあるかも、と 考えてみた。
いや、もったいぶっては、いけない、答えはわかっているのに。料理でいうレシピはない。
表現したい源・・・身も蓋もないが、それは、やっぱりわからないのに違いない。なぜって、(考えた)ことではなくて、勝手に身体が動いてしまった、湧水のような何かに、突き動かされたというしかないのだから。私の場合、それは文芸だったのでしよう。最初から、わからないという回答を出してしまったテスト用紙を採点しようがないかも知れないが、そのテストの問には幾つもの答えを書いていた筈ではある。無解答の零点ではなかった。どうも煙に巻くようなややこしい話にして恐縮だが今回も、わからないだろうことは、覚悟承知しているが、考えてみたい、というより、その湧水を思い出してみたい、という気持から出発してみる。年寄りの感傷に浸った昔話ではないと思っているが、どうだろう。
いちばん影響された太宰治のことを書いてみるつもりです。私は昭和26年生まれで、その3年前に太宰治は亡くなっている。現在は文豪のように評価され、夏目漱石と同じくらいに読まれているという。私の文学少年のころは、太宰の小説は異端のように思われていた気配もありました。心中で亡くなったことも大きい。
私だって初めから太宰治に傾倒したのではない。石坂洋次郎の流行本、谷崎潤一郎や川端康成、志賀直哉など優等生の短編などを読むただの本好きで、自分が何かを書こうとなどは思ってもみなかった。
それが、高校2年の春に転機が来た。ある日駅前の書店で並べられている背文字を見ていた時に、いま思ってみてもふしぎだがひとつの背文字が浮き上がっているような本があった。【太宰治】この文字をなぜか凝視してしまっていた。
その選集を手にしていた。ぱらぱらと開き掌編のような短い作品の(満願)を読んだ。(魚服記)を立ち読みした。そして迷わずその本を購入していたことは憶えている。
その年の夏休みのアルバイトで稼いで、筑摩書房の太宰治全集を買ったのだから、よほどいまでいうカルチャーショックだったのだろう。前の年の夏休みのアルバイトでは谷崎潤一郎の源氏物語を買ったのだから、この頃までは真面目な学生だったのか、とふりかえる。源氏物語は薄い和紙でページを覆った豪華な本だったが、一人暮らしを川崎ではじめたころには古本屋に売ってしまっていた。
そしてこれも不思議なことだが、太宰治の文芸を知ってから、太宰の作品だけでなく読書の対象が、今までとすっかり変わっていったことだ。梶井基次郎、井伏鱒二、新感覚派、中島敦、石川淳、坂口安吾、ドストエフスキーの白痴、Eブロンテの嵐が丘、プーシキンの決闘、などが読書の対象になっていた。・・・
つまり、早い話、観念的な、中身がないのに深刻そうにエラそうなことを夢想している文学少年になっていた。
掌編とも言えない短い観念的な物語や太宰治、芥川龍之介をまねて短文のエビグラムを書いてみたり、つまり悲壮感だけはエラそうにもった文学少年。
とは言え、あまり自身を悪く言うのもよくない。
昭和のころの文学少年、青年には健気な思い出もあるのです。(自分で健気というな、ですが)
昭和45年の初夏と49年に太宰治の故郷の津軽に旅したことがあるのです。(健気というのかな)
秋がくれば19歳になる初夏に津軽へ旅をした。国鉄のミニ周遊券だったと記憶しているが、たしか7600円で(どうでもいいことを憶えていて可笑しい)1週間の期間、何処でも何回でも乗り降りできる券だった。
しかし当時は新幹線があるわけでなく、静岡県の袋井市から青森の金木町に行くには、東京まで約6時間、さらに上野から急行に乗り、あとは奥羽本線と五能線と津軽鉄道に乗り継ぎ金木に到着するまで乗り換えや待ち時間を入れると16時間以上、合わせて22時間以上かかる長旅だった。7600円は憶えていても乗り継ぎのことは、はっきりしないので今回調べてみて、多分、川部という駅で乗り換えた。それが黒い蒸気機関車であったのが驚きで忘れられない。
五所川原で津軽鉄道へ乗り換えたときには別の驚きがあった。車内での乗客の会話がまるでわからないのだ。ひとつ、オナゴというのだけは、わかった。津軽弁のことはきいていたが、ほんとうに外国語のようだった。フランス語に似ていると言う人もいる。
自分の記憶としては金木に着いて斜陽館の場所を確認してから、岩木川の河口の十三湖へ向かった。理由は思い出せないが、作品(津軽)からの興味だったのか、日本海を見たかったのか、かも知れない。大津波で十三湊は埋まってしまったと言い伝えがあるそうだ。そして、たしかに太平洋の海の景色とは違って見えた憶えがある。海もだが、空の色が違うなとも思った。だいたい、人ひとりいなかった。物好きな私と桟橋のようなものがあるだけの景色だった。いや白鳥がいたはずだが、それが昭和49年の2回目の津軽での金木のとなりの芦野公園の湖にいた白鳥なのか、両方にいたのか、はつきり憶えていないテイタラクである。
だいたい、旅での日記を記すという基本がないほどだから、文学少年などと、笑わせるなと、いまでは思う。
多分そのあと芦野公園へ寄ってから斜陽館に入った。「昨日、電話した者ですが」と、そのときになって本当に泊まれるのか少し不安になりながらも玄関口に入った。心配は不要だった。今の時代からすれば、一日前に予約できるなど、考えられないかも知れない。
たしかこのときは玄関から入ったさきの土間は、たたきになつていた気がする。
左に見える座敷は広く見え、おおぜいでの宴会やもしかすると結婚式にも使われたのではないか。
それから2階の部屋に案内された。階段の手摺が洋館のようだなと思った。
どうも、駄目だ、自信をもって説明できない。描写などできない。
52年∼56年まえのことである。描写などと気取れば嘘っぽくなるだけだろう。
昭和45年49年2回の津軽への旅での記憶にあるものを時系列でなく、並べてみるしかない。
斜陽館の宿泊料は千円(45年)で部屋に仲居さんが御膳を運んできてくれたという、時代劇のような御伽話のような夕食だった。
食後の夜、斜陽館の付近の金木の街を歩いた。閑な夜の街並みの記憶がある。
そういえば昼間、弘前から五能線での車中で前の席の人が、林檎畑の樹を車窓から珍しそうに見ている私が旅の人だと思ったのだろう、夜に見ると林檎の樹は幽霊がいっぱい立っているように見えるよ、と話かけてきた。どんな意味かな、とは思った。
朝、斜陽館をあとにして津軽鉄道で五所川原で降り、街並みを歩いた。金木とは大違いで活気にあふれていた気がした。アーケード街のにぎやかさも憶えている。静岡市よりもずっと大きい市街に見えた。この地方では五所川原が中心の街なのだろう。
五所川原から奥羽本線に乗り換え、青森に出た。当時の印象としては五所川原より活気の上では静かな市街に感じた。
青森から青函連絡船に4時間乗船して函館に向かった。函館までは周遊券の範囲だった。
ただ、以前に伊勢湾フェリーでひどく船酔いした経験があるので、臆病者は、畳が敷かれた船底に、へばりついていた。おかげで津軽海峡の碧いみなもは見ていない。函館からの最終の連絡船の出港までは思っていたより時間がなく、函館で何を見ていたのかも憶えていない。しかし、集団就職の時期でもないのに連絡船の出港の色とりどりのテープでの岸壁と船との別れの光景は、いまでも思い出せる。別れや旅立ち、どんな気持のテープだったのだろう。
青森に帰って、溜まった疲れで眠ったまま東北本線でまっしぐらに上野へと言いたいところだが、ふと目が覚めた。空腹を覚えた。駅名は不明だがホー厶で売り子の人たちが盛んに声を車窓の客に声をかけている。私も迷わず買ったが、特別と思われるほどに、美味い蟹弁当だった。
ところで、往きも帰りも長旅で、起きている時間、車窓からの風景を見ながら、何を思っていたのか、感じていたのか、自分のことながら、想像できない。あるいは文庫本でも読んでいたのか、この時代、スマートフォンの画面は無いのだから、車窓の枠からの風景や家並みが情報の全部である。
上野に戻ってから、どの街々を歩いたのか、くわしく憶えはないが、神保町で、ある本を買ったことは、大きい収穫だった。井伏鱒二の【夜ふけと梅の花】という昭和5年に発行された新興芸術派叢書の復刻版だった。といっても全く高い本ではない。石川啄木の詩集と同じに店外の売り台に百円二百円の安値で並べられていた。その中の(埋憂記)という短編を読んでみた。安さに関係なく、直ぐ買い求めた。この短編集を買ったことは、本当に幸運だった。なぜなら、この一冊は、太宰作品を読んだときの、言葉は悪いが毒消しの役目をしてくれたと後になってつくづく思ったことがある。
2度目の津軽行はそれから4年後の昭和49年の正月だった。このときは、川崎からの出発になった。川崎では何か荒んだ生活を感じていて、今になってわかるがその頃の自分は自分がキライだったのだ。故郷へ帰るまえに津軽へ行っておきたいと、多分この先もう行く機会はないとヘンに決心して出発した。
川崎から上野、上野からの急行を使っても金木までは一日でいけなかった旅だった。
冬の津軽鉄道はストーブ列車になっていた。
斜陽館では私の他に2人の宿泊者がいた。宿泊料は3千円になつていた。(なぜか憶えていて、つい書いてしまう)ちなみに昭和60年頃にオートバイで岐阜県の白川郷を訪れ、合掌造りに泊まれたときも、3千円でした。宿泊の予約も当日でも間に合った。交通手段が不便な時代だったが、今のように交通が便利過ぎて1000キロ離れていても隣の町を訪れるように簡単に行けるかわりに、却って客が多くなりすぎて予約はもちろん、宿の風情も景色も喧噪のなかで希薄になっている気もする。
もとい、夕方到着した斜陽館の土間はもう、たたきでなくなっていたと記憶している。食事も部屋での御膳ではなく、板の間のテーブルでの食事になっていた。三人での会話はどうも全く覚えていない。立派な桧風呂に一緒に入った記憶はある。
二人は呑まないようで、私は仲居さんに地酒を頼んだ。つまみは赤カブで、雪国の漬物は別物のように味わいがあるので、たらふく呑んでしまった、という言い訳をする。
それと、悔やむのは、もっと仲居さんと話をすればよかったと、津軽のことが詳しく聞けたのにと、会話が下手な者の後悔ではある。
それはともかく、日中は弘前城にいた。雪の弘前城で、気取って歩いていたら、雪に隠れていた溝に落ちた。
弘前の街は五所川原と全く違つた。新興の町が青森市や五所川原なら、弘前はまだ古風と新興の混じった街並みだなと感じた。木のアーケードで店前のお客を雪から守っていたし、路地を少し入ると、古風な下町のような趣きのある小さな商店や住居があった。路地の文化は大好きだ。
弘前から金木の斜陽館へ入るには時間があったので、芦野公園に立ち寄っていた。公園の中に小さな駅がある童話にしてもいい所だ。芦野湖には白鳥が数羽いた。写真を撮ってまもなく鉛色の空から雪が降り出した。あっという間に目の前がわからないほどの吹雪になってきた。あわてたが、次の駅が金木だと、気持を落ち着かせ、一番たしかな単線の線路を金木方面に歩いていった。吹雪はどんどんひどくなり、太宰の作品「津軽」に書かれているとおり、目の前は見えない、下からも吹き上げる猛烈な雪を初めて体験した。どのくらい歩いたのか、前方に何か明かりがうっすらと見えた。たすかった。金木駅、そこにそば、うどんの屋台があったのだ。あんなに救われたような熱い美味いうどんも、初めてだった。
城の溝にも落ちるし、吹雪にも遭うし、トンマな一日でもあったが、いまでも思い出せる一日になった。ただ2度の津軽旅でも行けなかった所があるのは少し心残りだった。金木から近いという、川倉の賽の河原地蔵尊である。地蔵信仰の総本山で、恐山と同じくイタコの口寄せも有名だという。たしか作家の安岡章太郎が、太宰が金木からあんなに近い場所なのに一度もそのことにふれていないのは、本当に怖いものは書けなかったのではないか、と何かの対談で言っていたのを覚えている。
急行津軽の13時間を経て、東京へ戻った私は、三鷹駅に降りたときは雪はなく、太宰治の墓所がある禅林寺をさがすつもりで下車した。三鷹の地理に何の予備知識もないのに、よく探そうと思ったよ。そしてやっぱりなかなか判らずにいるうちに雪が降ってきた。まさか津軽ほどの雪ではないが、それにしても大粒の雪がやみそうもなく降ってきた。諦めて帰ろうと駅に向かおうとしたとき、禅林寺と書かれた山門がついそこにあった。びっくりもしたし、雪が降りつもり出しあたりが薄暗くなってきた夕方である。境内に入るのが、躊躇われたが、22歳の若造は、えい、と図々しく境内に入り込んだ。たしか、森林太郎(鷗外)の横に並んだようにあると読んだことがあると、降り方がいよいよつよくなり、ま白くなっていく境内の墓所を探している姿は、いまの私から言えば、「おいおい、おかしいだろ、大丈夫か」とツッコミを入れたいくらいの姿。
見つけた、手入れの行き届いた清潔な感じのする墓だった。しかし、我ながら、何をしているんだとも恥ずかしい思いでもあった。しかし、先にも書いたように健気なところもあると心の中では思っている。
これで津軽の旅のことは終わるけれど、あの頃の文学少年、青年は、私だけでなく、きっと多かれ少なかれこんなふうな拗ね者で阿呆なところがあったのだろう。
表現のことに戻りたい。
この旅の思い出を書きながら、考えてみた。源はわからないには、違いないが、私の場合は、やはり、ストップモーシヨン(絵)だなと思った。この旅を思い出しているときに、それ(記憶の絵)を文字に変えていく(エラそう過ぎる?)のが、表現だと。心にあるのか頭にあるのか、わからないが、とにかく、1枚の絵が【湧水】のようになるとは言える。連想に似ているが、少し違う気もする。
例えば、私はモネの絵が大好きだ。(ひなげし)の絵は二組の親子に見える、でも実は、時間をずらした一組だけの絵としても鑑賞できる。
ひとつの答えは出た気がする。答えは幾種類もあるだろうが、わからない中でも、出してみたことは意味があったかも知れないと納得することにした。
ところで私は印象派のモネが好きと言ったが、私の初恋のひとは、同じ印象派でも
ルノアールは大嫌い、どうしても嫌い、と言っていたのを不意に思い出した。わからないでもないと、思った。
では、また遠州のことに戻って書き出そう。
