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小説の音、結露する怪物

どっどど どどうど どどうど どどう……

小説には音がある。それは単に「昼間のカフェは女性客でにぎわっていた」とか「おはよう。いい天気だね」とか、そういう情景描写的な音や台詞ではなく、もっと観念的な、テーマソングにも似た、本の一文字がその音に沿って進行していくような、あるいは喉を通ってしまったとしか言いようのないような呻き声、誰にもきこえない音が。

諏訪哲史の「無声抄」は、三日間の京都旅行を終えて名古屋に帰ってきた「かれ」が、旅行中一言たりとも声を発さずに帰ってきたというところから始まる。無言でいられる社会のシステマティックな様相に不如意を感じながら、生業である小説の執筆に取りかかろうとする。しかしかれは、なにも書けない。

 涼気──。なにか目の覚めるような、精神的な涼気が必要だった。
 しかも、かれの索めるのは、霧吹きシャワーのように漫然とした、一時しのぎのそれではなく、終末に落とされる火柱のような涼気、かれの長きにわたる失語的な鬱屈と倦怠を、圧倒的な取り返しのつかなさで前後に分かつ、いわばモニュメンタルな膂力を持った劇的な涼気だった。そして、それはきっと、小説家であるかれ自身の舌、筆のかたくなな沈黙をついに観念させ、あきらめさせて、それまで抑圧されていた声、言葉を一気に奔出させるにちがいない、なんらかの失語的な天変地異なのであった。

『岩塩の女王』より「無声抄」8-9頁
強調:引用者

「書く」というのは、断じてなにか興味深いテーマや設定を思いつき心浮くままに筆を執るような積極行為ではなく、本を読み詩を読み音楽を聴き舞台や映画を観、散歩をしバスに乗り電車に乗り家に帰り生活する、というインプット反復のさなかでふいに到達する飽和点で、本人の意志とは無関係に仕様がなく溢れ出てしまうことを受け入れたところに初めて成立する消極行為である。これはわたしの信念だ。書きたいから書くのではない、書かねばならぬから書くのである。

わたしはこれを「結露」と呼んでいる。わたしはこういう、書かれなければならなかった、と思わせられる小説が好きだ。そういう小説には絶対的な力がある。そして当然わたしも結露な文章を書きたいと思う。そのためにはインプットと反復が必要不可欠である。

結露にインプット=水分が必要なのは自明だが、どうして結露に反復が要るのか疑問かもしれない。わたしは、インプットがわたしたちに与えるものは何一つないと考えている。小説や映画はわたしにとって思考するための材料・道具・装置でしかなく、ましてそれが人生を大きく変えることなどあるはずがない、と。たとえば保坂和志はこう言う。

(…)本に印刷された文字はつまるところ生命のないただの記号なのだ。
 テンポよくいきいきと語られたり、話の流れの中である言葉に出合ったときにふわっと体じゅうの力が緩むような気持になったりするために、言葉ないし文字に何か特別な力が宿っているかのような錯覚を持っている人がいるかもしれないが、文字そのものは譜面の上の音符と同じで受け手の気持ちに訴えかける響きは持っていない

『小説、世界の奏でる音楽』137頁
強調:引用者

しかし同時にわたしは、インプットによって生じる「わたし」と「作品」の中間地点に興味がある。なぜわたしは一年で百冊もの小説を読むのかと問われたら、わたしは迷わず「自分のことが好きだから」と答える。わたしたちは、わたしたちが思っている以上に自分のことを知らない。いくらYouTubeやXを眺めていても、そこに自分は映らない。電源を切って、真暗な液晶となったその鏡にこそ用事があるのだ。そして小説は、ただ平面なだけの鏡とは異なり、自分の後ろ姿や心の内側までをも反射して眼前へ映し出す特殊な鏡としての力がある。だからわたしは本を読む。

しかし、インプットだけしているというのは、さまざまな方向から自分を眺めているだけに過ぎない。それではナルキッソスそのものだ。だから、反復だらけの生活のなかで「自分から見た自分」を見ようともする。ちょっとだけ高いコーヒー豆を丁寧にドリップしてお気に入りのマグで飲むとき、わたしはまたしてもコーヒーの水面に映る自分を飲み込んでいるのだと知る。

そうして多角的な、さまざまな方向から見た自分を統一せんとするなかで、わずかにそれぞれが違っていることに気がつく。『人間失格』を読んだわたしと『斜陽』を読んだわたしが微妙に異なっているというこの差異こそ、真に自分のことを見るということに他ならないのだ。だからわたしは生活をする。

人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。(…)人間と芸術の関係において主は人間でなく芸術の方にある。

『小説、世界の奏でる音楽』225頁

結露をするためのインプットと反復は整ったが、結露にはもうひとつ変数がある、温度だ。空気が冷たければそれだけ結露しやすくなる。先の「無声抄」の引用を思い出してみれば、かれの求めていた「失語的な天変地異」とは涼気であった。ただの昼間に街を歩いていても得られない孤独、まるで真暗闇の洞窟に一人だけで立ち竦んでいるような静寂と凛冽の孤独ソリチュード

……

わたしの足音と、服の擦れる音と、一定の間隔で水滴が垂れる音だけが洞窟内に反響する。蝙蝠こうもりも生息しているらしいので、耳を澄ませながら奥へ進んでいく。後続者は誰もいない。ふと、闇の中に巨大な気配を感じた。怖い。しかし気になる。気になってしまう。そんな自分の愚鈍な好奇心に観念して視線を配るとそこには、輪郭も距離感も曖昧な暗黒の深淵の怪物がいた。

底知れぬ黒さに触れて輪郭は溶解する。また浮上する黒さは輪郭を解体する。いずれにせよ、ものは跡かたもなく姿を消してしまうか、解きほぐされてその統一を失ってしまうかするのだ。

蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫、76頁
強調:引用者

ドゥルーズは言う、この怪物こそ「思考の自由」である、と。怪物を目の前にして思わず背を向け走り去り洞窟を後にするのではなく、ただ見つめる。そうして、ただ目の前の怪物に恐怖し、すべての意識がそちらへ向いていくうちに、自らの身体や思考の意識は希薄になっていく。

思考を思考へと駆り立てる最大の契機は、思考がいまだ思考したためしもないものと向かいあい、思考たる自分が解体の危機に瀕するという体験ではないか。そして、読むこととはまさにそうした体験をいうのではなかったか

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』125頁
強調:引用者

怪物を目の前にした自分を軸として、暗闇と思考は、鏡写しのようにどちらもかたちを失くしていく、統一は失われる。暗闇から目を背けたり、懐中電灯で照らしたりすれば恐怖など一太刀で拭えるかもしれない、しかしそれは同時に、せっかく出合えた「思考の自由」を手放す行為、あるいはその自由に自ら制約を付加する行為に他ならない。これを不自由で不幸と言わずしてなんと言えよう。

息もころされ、耳もころされた。しかしそこに、吐くべき声が、聴くべき音が、潜在しているようだった。

「無声抄」30頁

わたしはここで「目もころされた。しかしそこに、みるべき怪物が、潜在しているようだった」と言い添えたい。三千字というきわめて短い洞窟のなかでわたしたちは、旅行中に一言も声を発することがなかった人間の無声と、太陽の関与しない真暗闇の深淵に潜む輪郭も距離感もない怪物とを相手にしてきた。

この無声と怪物とは換言すれば諏訪哲史「無声抄」保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』というジャンルの異なる三冊の書籍、あるいは三人の人間だ。どれも極めて断片的で恣意的な引用だけ見せられて、掴みどころのないままだったこの記事をここまで読んだあなたはもう、洞窟の怪物に背を向けることも、それを照らし出そうとすることもないはずだ。

ほら、いま、あなたは洞窟の中途で足をとめている。怪物はあなたの目と鼻のさきにうずくまっている。(…)間違っても戸外の晴れた光景への郷愁などに犯されず、飼い馴らそうとしてはならない。ただ顔一面で怪物の気配をうけとめ、希薄化する自分を恐れずに愚鈍の残酷さに身をゆだねてみてはどうか

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』131-132頁
強調:引用者




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