ため息をついても、幸せは逃げなかった、それがシニアだ
「ため息をすると幸せが逃げるよ。」
子どもの頃、誰かに一度は言われたことがあるはずだ。私も母によく言われたものである。それが今では、言う相手が妻に変わっただけらしい。近頃はため息をつくたびに、妻からそう釘を刺されている。
普通、ため息は人前で出してはいけないものだと思い込んでいる。会議中に出そうになったら飲み込む。エレベーターの中で出そうになったら咳でごまかす。そうやって60年近く、律儀に我慢してきた。
ところが定年退職してから、明らかにため息の回数が増えている自分に気づいた。これはなぜだ? 暇なのか? 人生が充実していないのか? まさか本格的に「シニアのため息」を発するお年頃に突入したのか。
いろいろ考えてはみたものの、結論は出ない。
もういい。我慢するのはやめた。ため息はもう、堂々とつくことにした。
だが調べてみたら、私の感覚は間違っていなかった。ため息を我慢していたのは、どうやら損でしかなかったらしい。

Data1.健康な人でも、数分に1回はため息をついている
これを知ったときは驚いた。ため息をつく人とつかない人がいるのではなく、全員がやっている。ただ、声に出るほど大きいか、周りが気づかない程度かの違いだけだったのだ。
会社員時代、私の上司はとにかくため息の多い人だった。新製品が売れない、資金繰りが厳しい。ため息のバリエーションだけで、その日の機嫌が読めるくらいだった。当時の私は「そんなにため息ばかりついていたら、幸せが逃げますよ!」なんて茶々を入れていた。今思えば、生意気な部下である。
あの上司は別にため息が多かったわけではない。ただ声が大きかっただけなのだ。私も含めて、全員がこっそりやっていることを、堂々とやっていたようだ。今にして思えば、あれはある意味フライング気味の「開き直り」だったのかもしれない。
Data2.ため息は、肺の「メンテナンス機能」である
肺には「肺胞」という小さな袋があって、浅い呼吸ばかり続くとうまく膨らまなくなるらしい。そこでため息が肺全体を広げて、呼吸をリセットする役目を持っている。つまりため息は、故障のサインではなく、れっきとした肺の整備作業だったのだ。
車で言えばオイル交換、体で言えばため息。定期的にやらないとエンジンがヘタる。私はこれを知って以来、ため息をつくたびに「今、メンテナンス中です」と胸の中で唱えるようにしている。もちろん誰にも伝わらないが、自分の中では立派な言い訳が完成した。
Data3.ため息は「安心した時」にも出る
人はストレスの真っ最中だけでなく、そこから解放された瞬間にもため息をつくらしい。試験が終わったとき。大きな仕事が片づいたとき。あの「はぁ~」は、落ち込みではなく、「終わった」「助かった」という安堵の合図なのだという。
そう言われてみれば、退職の日、家に帰ってきたときに、盛大なため息をついた。あれは安堵の証だったわけだ。その時は理由がわからず、自分ながら驚いた。体は正しく機能していただけらしい。誰も褒めてくれなかったが、今さらながら自分の肺を褒めてやりたい。
Data4.悪いのはため息ではなく、その後に続く「愚痴」の方
ため息と愚痴は、似ているようでまったくの別物だという。ため息は一瞬で終わる。「はぁ……。」それだけ。ところが愚痴はしつこい。「どうせ無理だ」「会社が悪い」と、言葉が芋づる式に出てくる。ため息が呼吸だとすれば、愚痴は思考の反芻のようである。
つまり私が本当に警戒すべきは、ため息の回数ではなく、そのあとに愚痴を接続させるかどうかだったのだ。「はぁ……」で止めておけば単なる整備作業。「はぁ……、まったくもう」と続けた瞬間、それは愚痴に昇格してしまう。この一線だけは、64歳の今も死守しようと思っている。
ため息は、はじける
さて、どうでしょうか? こうしてデータを並べてみると、私が長年我慢してきたのは、何の意味もない我慢だったことになる。ため息は不幸の合図ではなく、体のメンテナンスであり、安堵の証であり、全員がこっそりやっている素敵な行為だったのだ。
妻が洗濯物をたたみながら漏らす「はぁ」。色気のないため息は、今までは聞こえないふりをしていたが、これからは「お疲れさま、メンテナンス乙」と声をかけようと思う。……多分、白い目で見られる。
気にしたら負けである。これでいいのだ。
