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社会人にもなって学歴にこだわっているのはおかしいという意見

 WakatteTVがいつものように炎上しているが、決まって飛んでくる意見が「社会人になってから学歴の話をしているのはおかしい」というものである。これは間違いなく「正論」である。そのことに異論はない。ただし、筆者はその論拠に興味がある。

 一番多いのは単純に「人を学力や出身校でランク付けするのは良くない」というものである。運動部で考えてみても、競技の能力で部員を格付けしているメンバーがいたら確実に嫌われるだろう。常識的に考えて品性を欠く行為である。全くの正論だ。

 だが、もう一つのパターンがある。それは「社会人は学歴ではなく年収や出世で評価されるべき」というものだ。これは一見正論に見えて、実は過酷な意見ではないかと思う。これは言い換えれば「社会人は年収や肩書で人をランク付けする」ということである。学歴マウントは過去のものであり、今度は年収マウント、肩書マウントを取っていこうとも言い換えられる。

 実際、学歴コンプレックスを抱えている人の一部は年収や肩書をこれでもかと誇示するケースがある。彼らは一見学歴マウントを否定しているように見えるが、実際は序列付けの基準が気に入らないというだけで、序列付け自体はむしろ肯定している。その激しさはWakatteTVとそこまで変わらないように見える。

 だが、筆者の個人的な意見だが、年収や肩書をベースに序列付けするのは遥かに危険な行為だと思う

 第一に、お金の話は社会ではタブーということだ。ここは以前の記事でも書いたかもしれない。金銭の話は人を狂わせる。憎悪や犯罪の引き金にもなる。お金の話でマウントを取るのは絶対に避けるべきである。

 肩書も同様だ。学歴と違い、肩書には責任が伴う。相応の働きが出来なければ、その肩書は負債になってしまうかもしれない。そう簡単に誇示すべきものとは思えない。

 第二に、年収や肩書を学歴と同じ思考回路で追求すると、うまく行かない可能性が高い。いわゆる「就職偏差値」が良い例である。就職偏差値で上の企業ほど満足度が高いとは限らない。社風が合っていないかもしれないし、忙しすぎて病んでしまうかもしれない。やりたい仕事かどうかも、転職価値が上がるかどうかも、その会社に将来性があるかも、就職偏差値では分からない。

 だが、社会人的なステータスを学歴同様に格付けの手段にするのはもっと危険な要素がある。それは「格付けの対象に際限がなくなる」というものである。社会人になってからの競争は多面的だ。年収や肩書だけではない。住んでいる場所や配偶者の質、最近はルッキズムや子供の中学受験の結果にまで及んでいるという。まるで無限競争社会だ。

 これで幸福度は上がるのだろうか。まだ18歳のころの模試の話をしている方が精神衛生上マシのように思ってしまう。本来なら社会人になると安定や居場所、責任といったものの方が大事になってくるはずである。いつまで競競えば良いのか。負けるまでだろうか。

 筆者はこの手の価値観に馴染むことはできなかった。東大への素朴な憧れと同じ熱意を年収や肩書に見いだせなかったし、自分にはそういう競争は向いていないと思う。年収は高いに越したことはないが、それも総合的なバランスと実利の上で考える必要がある。

 そういうわけで、社会人になってからの成果で格付けをすべきという意見には引っかかりを感じてしまうのである。

 WakatteTV自身、ユーチューブ登録者数でマウントを取ることはない。京大経済より遥かに「すごい」成果にもかかわらずである。示唆深い。

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