人間が人間であるということ — 『ペスト』の読書会を終えて
これはWaseiSalonに投稿した記事です。
先日開催された第4回「古典を読む会」。
今回の選書は『ペスト』。
これは私が人生で最も影響を受けた本なので、新しく買いなおして再読できた2か月間、本当に幸せでした。
★
物語は一人の匿名の記録者によって語られる。
アルジェリアのオランという街で、血を吐いて死んだ数匹のネズミが目撃されるところから物語は始って、そこから市井の人々がばたばたと倒れ出すまでに数日とかからない。謎の感染症は一気に広がり、医療関係者はそれが『ペスト』であることを認めがたく逡巡する。その間もどんどん増え続ける死亡者数。当局は死亡数の発表を一週間単位から一日単位に切り替えることで人々のパニックを抑えようとするけれど(すっごく人間らしい)、あっという間にそれも三桁を超えてしまう。街は完全に封鎖され、人々は世界から遮断され、閉じ込められた市の中は地獄絵図、死者の埋葬すら追いつかず、人としての尊厳が試されるぎりぎりの夏が何か月も何か月も続いていく――。
19歳で初めてこの本を読んだとき、主要人物の描写とその心理変遷のあまりの克明さに、— 使い古された言い方で恥ずかしいけど ― 雷鳴がびりびりと空を割って頭上に落ちてくるぐらいの衝撃を受けた(恥)。その来し方、変化そのものが物語と一体なのでここで安易な要約は控えるが、物語を通しての主人公・医師リウーの、人間が人間であることをあきらめない姿勢は、当時の私の人生観を根底から変えてしまった。
彼はどんな状況の中でも、どんな感情に襲われても、その行動が一切ぶれない。最後まで「終わりのない敗北」を黙々と闘い続ける。そして最後にあまりにも多くのものを失い、むしろ彼にとってはこれは敗北以外のなにものでもなかったのいのではないかと思われる状況の中で、人間性(Humanity)の勝利とは何かを読者にゆだねる。
『ペスト』は医師リウーと、その周りの人々が、それぞれに自らの『ペスト』を生き抜いた認識と記録の物語である。
★
尊敬に値する人間とはどういう人物か。
二十歳になる前にこれを読んでしまったせいで、この物語は自分にとって一種の刷り込みになってしまった。せっかくの二十代、煌めくような楽しいことも、いろんな出会いもあったのに、太陽のように明るい人やいつも踊るように軽やかな人、感情表現の豊かな優しい人、温かい人、ドラマチックな人、いろんな人を素通りして、私は常に最も目立たず、ただ黙々と自分の仕事をし続ける人を誰よりも格好いいと思うようになってしまった。結局、そんな人と結婚した。
今回の読書会で独り30年前をふりかえって、まざまざとその軌跡が見えておもしろかったとともに、一冊の本が人一人の人生にこれほど影響を与えてしまうものなのだなあ、と改めて驚いた。
★
読書会で投げかけられた問いを、私たちは答えの出ないまま持ち帰ったように思う。
あらゆるものを失いながら、それでも街が解放され、病への勝利の凱旋を祝う市民たちに共感するリウー。彼にとっての幸せとはいったい何だったのだろうか。
読書会の流れで、私はうっかりリウーを”良心を持った機械のような”と形容してしまったが、到底そんな軽い言葉では言い表せない人物だと、ほんとうは感じている。作中を貫く彼の誠実さや職業倫理だけでは説明しきれない、リウーの本質。
今思うに、リウーはおそらく、ひとつの『概念』だったのではないかな。人間が人間であるということはどういうことか。極限の状況の中で、こうありたいと作者カミュが切実に願った理想。人間の中に果てしなく巣食う愚かさへの抵抗そのものが、カミュの中で人の形を取ったもの。
リウー自身が語る「ペストとは終わりのない敗北」という一文は、人間の愚かさが果てしないことの象徴であり、そしてその愚かさを自分自身も内側に抱えているという絶望。それでもなお、あきらめないという抵抗の物語なのではないか、今回はそう読めた。
この本はよく、特に西洋ではナチスへの抵抗のメタファーとして語られる。でもその解釈には違和感があって、なぜなら西洋人が「ナチス」を悪というとき、いつも自分たちはその外側に置いている感覚がある。悪をある固有名詞に還元することで、語る者はいつも安全圏にいられるという構図。でもフランス人であり、自らもナチスの抵抗運動に深く身を投じたカミュが見つめ続けたのは、むしろ押し戻しても押し戻しても波のように打ち寄せてくる、内からの留めようのない悪であり、愚かさだったのではないか。だからこそ、この本はこんなにも胸を打つのではないかな。
★
また、今回の読書会で、とても心に残ったもう一つの問いがあった。
それは「民衆がどこかのっぺらぼうに見える」ということ。
物語では主要なキャラクターとその生き様が鮮やかに描かれるのに対し、物語の本当の主人公であるべき一般市民たちは、刻々と移り変わる状況に一喜一憂し、享楽的で刹那的な群衆として描かれる。彼らはたしかに背景のようにぼんやりと存在し、数として報告され、顔も名前もないのっぺらぼうな存在に映る。非常時における人間の愚かさとして、もっと個々に生々しく書くこともできたはずなのに、あえてそう描かなかったのだとしたら、そこにはどんな示唆があるのだろうか。
これは本当に面白い問いだなと思った。
実際に人生を投げ出して民衆を助けているリウーの目にも、群衆ひとりひとりの個性は語られない。誰よりも現場にいて、誰よりも人々のために動いている人間の視界なのに、民衆が個としての像を結ばない。rioさんが「もしかしたら、それこそがリウーの見ている世界そのものなのではないかな」と返した記憶があり、なるほどなーっと唸った。
私自身、誰かのことを記号として見た瞬間、心の動きがとまる。いい意味では穏やかになり、悪い意味では痛みを感じにくくなる。自分はもともと、虫や雑草とも異様にシンクロしやすく、大事に育てている薔薇の花の周囲に生えた雑草を、抜こうとしている自分て何…と日暮れまで手が止まり沈黙してしまうヘタレ主婦なので、基本的にニュース番組は見れないし、どうしても見ないといけないときは心を機械にして、情報を記号として摂取している気がする。おそらくそこで個人を見てしまうと心が持たないのだと思う。
抽象と闘うためには、いくらか抽象に似なければならない。(中略)リウーはまた、抽象が幸福より強力になることがあり、そのときは、そして、そのときだけは、その事実を考慮に入れねばならないことを心得ていた。
もしリウーにも群衆が抽象として見えていて、それでもその抽象のために命を投じるのだとしたら、リウーその人もまた、カミュにとっての一つの抽象であり、概念だったのではないか、とまた先ほどの問いに戻ってくる。子どもの死を取り巻く描写やタルーの日記、ランベールの転向やグランの人物描写などは、思わず目をそむけたくなったりふと微笑んでしまうほど人間らしい個別性が刻まれているのに、リウー自身は最後まで、どこかつかみどころのない、近寄りがたい人物のまま終わる。
★
最後に、読書会ではあまり語る時間のなかった、コタールという人物について。
彼は、この物語に登場する数少ない『悪』側の人物だ。悪事に身をゆだね、よって世間から隠れて暮らしていたのに、今は世間みんなが地獄の責め苦にあっているから、『ペスト』の到来を諸手を挙げて喜ぶ。世間のつまはじき者だった彼は、ここで初めて人々に共感、連帯を感じる。
そしてこういう愚かさの骨頂のようなコタールを描くカミュの筆は、驚くほどに優しい。どの登場人物よりも彼が人間的に描かれているように思われる。
そのコタールの言動、行動を追っていて、今回新たな感慨があった。
すべてに身を委ね、悪になされるままに生きようとする、”あんたもおれもどうせ所詮は愚かで悪なのだから、抗うより委ねてしまった方がいいんだ”という彼の生き方って、ほんのちょっと、今の仏教ブームに似ている気がした。
でもこれは、本気で仏教を信仰している人の言葉というより、現代ではどこかファッションとして消費される仏教なのではないかと思う。有名どころでいえば悪人正機や他力本願といった言葉が、まるで仏教全体を象徴する思想であるかのように引用される風潮。こういうとき、そこはかとない哀しみを感じる。
ただこれは本気で仏教を信仰している人の言葉というよりは、現代の、どこかファッションとして消費される仏教。有名どころでいえば悪人正機や他力本願といった言葉が、まるで仏教全体を象徴する思想であるかのように引用される風潮。こういうとき、それで軽くなった人生もあるのだからと風潮を肯定したい反面、そこはかとない哀しみも湧いてくる。
仏教ブームの中で角が立つようで心苦しいし、ここで思想の是非を論じたいわけでは決してないのだけれど、宗教を語る人の口からそうした思想があまりにも安易に語られるのを耳にすると、人間が人間であろうとする根源の意志や、生命は変わりうるという可能性が、やわらかな言葉でひたひたと侵食され、静かに断たれてしまう――そんな断種にも似た恐ろしさをどうしてもぬぐいきれないのだ。
私の理解する仏教はむしろ生命の間断ない闘いであり、現実から決して目をそらさない覚悟。だから苦しみの深かった若い頃、どんなにあがいても、それが果てしのない敗北でしかないとしても、最後まで闘うことをあきらめないカミュの姿勢にあれほど救われたのだと思う。そして30年がすぎた今なお、やっぱり人生はそう生きたいという思いが一ミリも変わっていなかったのだと気づけたことが、少し意外でもあった。
長く生きるうちに、もっといろいろなものに染まってしまったと思っていた。
もちろん西洋論理性の限界もずいぶん見てきた30年間だったけれど、それでも人間が人間であろうともがくことを絶対にあきらめないという覚悟の前に立つと、とにかく委ねてしまいましょうよ、という優しいプロパガンダは本当に罪深いものに思え、やっぱり死んでも選びたくないのだなあとあらためて思う。
同時に、こんなことを言っている自分は、実際に苦しみを突きつけられたら一もニもなく、おそらくコタールよりも早く諸手を上げて、信念を投げだしあっさり楽な思考を選んでしまう人間でもあるかもしれないことを深く自覚している。
こんなふうに、宙を貫くプリズムの光線ように、一瞬にしてこちらの生命をすみずみまで炙り出してしまう ― これだから文学は、やめられないのですね。
★
最後に率直に告白すると、19歳の自分はたぶん今より数倍、頭が冴えて賢かったのだろうな、、、と思わざるを得ないくらい、今回の読書はすさまじく難しかった!
折り重なる重厚な文体、隙のない論理構成、あまりの緻密さと構造に舌を巻いた。一人だったら絶対に挫折して、完読できなかったと思う。そして人生でこれだけ大事な本なのに、二度目は完読できなかったということは、とても深い傷になって人生に残ったと思う。
だからそういうことにならずに、初回よりもさらに深い読書体験を持つことができた今、古典を読む会のみなさんには感謝の思いが絶えないし、主催者さん、プロデューサーさん、ほんとうにありがとうございます。
