松果体で「モノ」を観るとは?
しゃべっている動画はこちら↓
知性で見ると、直観で観ることのちがい↓
「外側からみる」のと、「モノの内側からみる」こと。
ここでは、哲学者アンリ・ベルクソンの「直観」について触れていますが……実は、この視点。古来日本人にとっては「モノ」を観ること、そのものが最初から「直観」だったようです。
モノとは?カタカムナ的には、
モ:もやもや・もろもろ、ノ:伸す・トコロ軸に映されること。
モノは、物質を意味していません。
モノとは「リアリティ」のことなんです。

リンゴを1個 🍎 みるとき…
今まなざしを向けているそれは、果たして「リンゴそのもの」なのでしょうか。それとも、頭が貼りつけた「リンゴのラベル」の方なのでしょうか。
このちがいに氣づいた瞬間、世界の見え方は一瞬で反転します。
僕たちは、世界を「名詞」で切り刻んでいる
「これはリンゴ。赤くて丸い果物。産地は長野県。
重さは300グラムくらいかな。スーパーなら150円ってところか」
僕たちはリンゴを見ているようでいて、その実、リンゴを「動かないモノ」として外側から切り刻み、人間の都合でこしらえた概念や数字の枠に、せっせと当てはめているだけ、だったりします。
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、この見方を「知性(外側から見る)」と呼びました。知性は、とても便利です。値段を比べたり、重さを測ったり、料理の段取りを立てたりするには欠かせません。けれど、ここには大きな落とし穴があります。知性が見ているのは「リンゴそのもの」ではなく、リンゴという生命を解剖して取り出した「データ」に過ぎない、ということ。
写真を一枚パシャリと撮るように、リンゴを「静止した一点」へと固定してしまう。それが、僕たちのすっかり慣れ親しんだ見方なのですよね。
「内側から捉える」とき、リンゴは動き出す
そのリンゴの内側では、たった今も、いのちが動いています。大地から吸い上げた水分。降りそそいだ太陽の光。花から実へとダイナミックに姿を変え、少しずつ熟していき、やがて静かに老いていく――。一個のリンゴには、そんな「生成のエネルギー」が、ぎゅっと詰まっているのです。
知性が「写真」だとするなら、直観は「映画」になります。
リンゴの過去から未来へと流れていく、一本の映画。その上映に、あなた自身も客席からではなく、スクリーンのなかへ入り込んで立ち会う。そして、時間の流れそのものを、肌で感じる。これが内側から捉えるということです。
こうしてリンゴを「持続」として捉えたとき、そこにはもう「観る人間」と「観られるリンゴ」という、分かれた2つの存在はいません。エラン・ヴィタール。日本語に訳せば、「生命の飛躍」であり、それは、理屈や概念のナイフでは決して切り分けられない、流れつづける時間そのもの。これが「持続(デュレ)」です。
古代の日本人が観ていた「モノ」
古代の日本人にとっての「モノ(物)」とは、現代の単なる「物質」のことは意味していませんでした。それは、人間の知性(言葉)ではどうしても割り切れない、世界の背後にうごめく、不可思議なエネルギーや氣配そのものを指していたのです。
今も僕たちの言葉のなかに、ひっそりと息づいているのが……
「ものものしい」とか「ものすごい」そして、「ものがたり」など……
どうでしょう。どれも、ただの物体のモノなどではないですよね。そこにあるのは、言葉では言い尽くせない、得体の知れない大きな力の氣配。古代の人々は、その流動する生のエネルギーを、畏れと親しみをこめて「モノ」と呼んだのでした。
「もののあはれ」
この、世界に満ちた生のエネルギー(モノ)に、人間の心がダイレクトに触れ、同調し、言葉にならない深い感動に震える……その状態にこそ、【もののあはれ(物の哀れ)】です。
つまり、こういうことなのです。古代の日本人にとっての「モノ」とは、静止した物体などでは、決してなかった。それは、絶えず変化し、こちらへ語りかけてくる、「宇宙の生きた持続そのもの」だったのです。
リンゴは、名詞ではなく動詞でした。世界は、データではなく流れでした。そして日本人にとっての「モノ」とは、はじめから「持続」そのものだったのですね。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。
