トラウマから見る『影』
自己と向き合う不安から意識は他者に向かい、学校では「いじめ」として問題化する。
その行為には自分の中で認めたくない部分「影」が含まれ、自分の内面を他者に投影している。
それは社会にも及び、国家を生み出す。
個人の意識の働きは連鎖し、循環している。
自分自身が認めたくないものを受け入れることは、自分のあり方そのものが崩れてしまうような、痛みを伴うことなのだと思う。
痛みや苦しみを感じずに済むように、否定的なもの(暴力性・問題)を他者の中に見出すことで、自分の中にあるものを直視せずに済むのかもしれない。
虐待、いじめ、そして戦争は、
人間の内側にある「影」が、
外の世界へと投影されたものなのかもしれない。
(個人の影 → 集団の影 → 政治・制度 → 暴力
それだけでは説明できない、権力構造がある)
恐れ、憎しみ、劣等感、孤独、
そして自分の中に抱えた傷。
それらに気づかないまま、
人はその苦しみを他者へと向け、
やがて憎しみや暴力の連鎖を生み出してしまう。
だからこそ相手や敵を変えようとするだけではなく、
自分の内側にある「影」に気づき、
それと向き合うことが必要なのではないか
その一人ひとりの気づきこそが、
虐待やいじめ、戦争という連鎖を
終わらせるための、
小さくても確かな一歩になるのかもしれない。
子や孫に連鎖する戦争トラウマ
戦地でのトラウマから精神疾患を発症し、
幻聴や幻覚などに悩まされることが相次いだとあります。
私自身、統合失調症を発症したことで、心の中にあったトラウマや罪悪感、恐怖などの感情が過度に増幅され、自分自身を追い詰めてしまうという経験をしました。
不安や恐怖には、脳の一部である扁桃体が深く関わっています。
また、統合失調症の症状には、ドーパミンなどの神経伝達物質の働きが関係していると考えられています。
人が生死に関わるような極度のストレス状態に置かれると、脳は危険を察知し、生き延びるために必要な行動を取ろうとします。
その際、扁桃体などが強く活動し、さまざまな神経伝達の変化が起こると考えられます。
こうした状態が過度になると、現実には存在しない声が聞こえる幻聴や、実際にはないものを知覚する幻覚などの症状が現れることがあります。
そして、幻聴や幻覚によってさらに恐怖や不安が強まり、その恐怖から衝動的な行動を取ってしまうことで、状況がさらに悪化することもあります。
特に、幻聴が命令するような内容になると、その声を脅威として受け止めることで恐怖が一層強まり、行動にも大きな影響を及ぼす場合があります。
恐怖が強まるほど、その声に注意が向き、結果として悪循環に陥ってしまうことがあります。
戦争など、生死をさまようほどの極度の恐怖やストレスを経験した人が、
その後も幻聴や幻覚、あるいは当時の体験がよみがえるような追体験を繰り返すのであれば、
それは本人が非常に大きな心理的圧迫や負担を抱えていたことの表れとも考えられます。
私自身の経験を振り返っても、強い恐怖や罪悪感、トラウマが重なったとき、それらが現実の出来事以上に大きく感じられ、自分を追い詰めていく感覚がありました。
だからこそ、幻聴や幻覚だけを切り離して考えるのではなく、その背景にある恐怖やトラウマ、強いストレスにも目を向けることが重要なのではないかと思います。
足りていなかったのは、当事者の声に耳を傾け、その苦しみを受け止めるための場や受け皿だったのではないでしょうか。
私たちが今、当時の体験や苦しみを知ることができるのは、記録を残そうとした方々がいたからこそです。
しかしその一方で、戦後の社会には、極度の恐怖や罪悪感、トラウマを抱えた人たちの声を受け止め、その苦しみを支えていくための器は、まだ十分にはなかったのではないかと考えます。
そして苦しみを抱えた人たちが、それをどう受け止め、
どう癒やしていけばよいのか分からないまま生きざるを得なかったことが、
語られなかった記憶や癒やされない傷として残り、世代を越えて繰り返し連鎖してしまっているのではないでしょうか。
統合失調症では内に抑圧された恐れや不安が幻聴や妄想となって現れる。
自我が受け入れきれない心の側面「影」が他者の声や存在として外在化する現象であり、そこには未統合の自我の乖離が生じていると考えられる。
この観点から、統合失調症に見られる自我の内的過程は誰の心にも潜在していると言える。
個人や他者の行為は、親や環境、文化の影響が連鎖して生まれるものであり、その連鎖に目を向けることで、憎しみや裁きの感情を問いや気づきに変えることができる。
こうして投影の循環を意識的に受け止めることが、自己の統合につながる。
※本人に自覚がない段階で説得しようとすると、強い拒否反応を示し、対話が難しくなる可能性があります。
まずは、落ち着いて話せる関係性を築くことを心がけてみてください。
⚫︎ユングの「シャドウ」

強烈な好意も強烈な嫌悪も、どちらも自分の心が相手に何かを見ている。
他人の中に見ている何かの正体を探ると、自分の影に行き着くことがある。

⚫︎ユングの「個性化」
自分の嫌な部分をなくして、理想の自分になることではなく、それらもまた自分の一部なのだと知り受け入れていくことです。
その意味では個性化とは、自分を完成させることよりも、自分の中のさまざまな部分や分裂を少しずつ統合していくことだと言えます。

“Your vision will become clear only when you can look into your own heart. … Who looks outside dreams; who looks inside awakes.”
「自分自身の心を見ることができたとき、初めて視界は明瞭になる。外を見る者は夢を見、内を見る者は目覚める。」
“We cannot change anything unless we accept it.”
「それを受け入れない限り、私たちは何も変えることができない。」
そして続けて、ユングは「非難は人を解放するのではなく、抑圧する」と述べ、援助する人間でさえ、相手を受け入れるためにはまず自分自身を見て、自分自身を受け入れている必要があるという趣旨を述べています。
投影同一視は、自分の中にある受け入れがたい感情・欲求・衝動などを、無意識に他者に「投げ込み」、さらに相手がそれを実際に感じたり演じたりするように関係を操作してしまう心理過程を指します。
この概念は、主にメラニー・クラインの対象関係論で理論化されました。

その場合、操作する人は自ら手を汚すことなく、相手の「影」を利用します。
必要以上に相手へ嫌悪感を抱いてしまうのは、実は、操作する側の意図を受け取らされているからなのかもしれません。
被害者の思い込みや落ち度に焦点をずらし、
責任回避のためにいじめの事実を隠蔽する。
これらの行為により、被害者は被害そのものに加え、責任まで転嫁されることで二重に傷つき、孤立感や自責の念を深める。
また、いじめの事実が隠蔽されることで、適切な救済や支援を受ける機会も奪われ、
結果的に一人で抱えこむ状況が生まれる可能性がある。
上記の文章は、私自身の経験を踏まえ、ユングの『影(シャドウ)』という概念から着想を得て、自分なりの言葉で表現したものです。
しかし、この「影」だけを見ていては、人間の全体性を捉えることはできません。
ここでは、信田さよ子氏の著書『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』を参考に、さらに考察を深めていきます。
家族の中で起こる暴力や支配を、個人の問題だけではなく、“権力”や“政治”の問題として捉え直し、被害を受けた人が自分の尊厳を取り戻していくことを考える本です。
ここからAIも活用しながら論点を整理しました。
私の考えが「個人の内面 → 他者への投影 → 集団・社会 → 国家・戦争」という循環モデルになっているのに対して、信田さよ子さんは、より「家族・社会に存在する権力関係や規範 → 個人への影響 → 暴力の再生産」という方向から考えている点です。
共通しているところ
1. 「個人の問題」で終わらせない
両者に共通する一番大きなところだと思います。
あなたは、
自分の内側にあるものが他者に投影され、それがいじめや虐待、さらに社会・国家へと広がっていくと考えています。
一方、信田さんも、DVや虐待を単に
「この人は性格が悪い」「この親がおかしい」という個人の問題として片づけません。
家族の中にある権力関係、社会的な規範、ジェンダー規範などまで視野を広げます。
つまり両者とも、
「目の前の加害行為だけを見るのではなく、その背後にある構造を見る」という点で近いです。
2. 暴力が「連鎖」するという考え
あなたの文章では、
個人 → 他者 → 集団 → 社会 → 国家 → 次の世代
という連鎖が重要になっています。
特に、戦争トラウマが孫世代までに連鎖
という部分は、世代間伝達という観点です。
信田さんの議論にも、虐待やDVが家族の中で繰り返されること、そして被害・加害の関係が次の世代にも影響するという問題意識があります。
したがって、暴力は一回限りの出来事ではなく、関係性の中で再生産されるという認識は共通しています。
3. 「自分の中の問題」に目を向ける
あなたの考えでは、ここが非常に中心的です。
自分自身が認めたくないものを受け入れることは、自分のあり方そのものが崩れてしまうような、痛みを伴うこと
そして、自分の中にある「影」に気づき、それと向き合うという方向に進みます。
これは信田さんの「被害者/加害者」という単純な二分法を超えて考える姿勢とも一部重なります。
つまり、「自分は完全に善で、相手が悪い」という構図を疑うというところです。
ただし、ここには後述する大きな違いもあります。
4. 「敵を変える」だけでは問題は終わらない
あなたは、相手や敵を変えようとするだけではなく、自分の内側にある「影」に気づくことが必要と書いています。
これは非常に重要な視点です。
信田さんの「サバイバルからレジスタンスへ」という考え方も、単純に「加害者を排除して終わり」というものではありません。
被害を受けた人が、「自分が悪かったのではない」と認識し、自分の経験を言葉にし、境界線を取り戻していく。
つまり、外側の状況だけではなく、自分自身の認識を変えることが重要になります。
この意味では、両者とも、
外部の敵を変えることだけではなく、自己認識を変えることを重視していると言えます。
ただし、ここからが大きな違いです
私は、あなたの考えと信田さんの考えを同一視しないほうがいいと思います。
違い① あなたは「影」を中心にしている
あなたの文章の中心概念は、「影」です。
これはユング心理学の「シャドウ」にかなり近い発想です。
つまり、
自分の中にあるけれど、自分では認めたくない部分を、他者の中に見出してしまう。
そして、
「あいつは暴力的だ」
と思っている自分自身の中にも、暴力性があるかもしれない。という考え方です。
一方、信田さんの議論の中心は必ずしも「影」ではありません。
むしろ、
家族・ジェンダー・権力・暴力・被害者/加害者関係・社会規範などです。
したがって、
あなた
→ 心理・意識から社会を見る
信田さん
→ 家族・社会・権力から個人を見る
という違いがあります。
違い② 「投影」と「権力」の違い
ここはかなり重要です。
あなたのモデルでは、
自分の中の暴力性を認められない
↓
他者に暴力性を見る
↓
他者を攻撃する
↓
さらに相手も反応する
↓
暴力が循環する
という心理的な循環が中心です。
一方、信田さんの場合、
家族の中に権力関係がある
↓
強い側が弱い側を支配する
↓
暴力が正当化・隠蔽される
↓
その関係が再生産されるという権力構造を非常に重視します。
だから、「暴力は自分の影の投影である」だけでは説明できないというのが信田さん側からの重要な反論になり得ます。
例えばDVの場合
夫が妻を殴ったとします。
あなたの理論から見ると、
夫の中にある恐怖、劣等感、無力感、暴力性などが妻に投影されていると考えることができます。
これは一つの有力な心理的説明です。
しかし信田さんの視点からすると、それだけでは不十分です。
なぜなら、
「なぜ夫が妻を支配していいと思えるのか?」
という問題が残るからです。
そこには、
• 男性/女性という社会的役割
• 家族内の権力
• 「男は強くあるべき」という規範
• 「妻は夫を支えるべき」という規範
• 家族内部の閉鎖性
などが関係している可能性があります。
つまり、心理だけではなく、社会構造を見る必要があるということです。
違い③ 「自分にも暴力性がある」と「被害者にも責任がある」は全く違う
ここは、あなたの考えを発展させる際にかなり注意したほうがいいところです。
あなたが、自分の中にも「影」があると言うこと自体は、
「だから被害者にも責任がある」という意味ではありません。
例えば子どもが虐待された場合、
「子どもの中にも影があったから虐待された」
という説明になってしまうと、被害者への責任転嫁になります。
これは避ける必要があります。
むしろ、
「人間なら誰の中にも攻撃性や嫉妬、怒りなどが存在し得る。しかし、それを実際に他者への暴力として行使するかどうかは別問題である」
と区別したほうが、あなたの理論は強くなります。
信田さんの議論から学べるのも、まさにこの点です。
加害者の内面を理解することと、加害行為を正当化することは別です。
違い④ あなたは「戦争」まで射程を広げている
ここはむしろ、あなたの考えの独自性です。
信田さんの本の中心は、家族、DV、虐待、依存、ジェンダー、国家などです。
それに対してあなたは、
個人の心理 → いじめ → 家族 → 社会 → 国家 → 戦争まで一つの連続した現象として捉えようとしています。
これはかなり大きな射程です。
あなたの考えを図にすると、
個人の「影」
↓
他者への投影
↓
いじめ・虐待などの対人暴力
↓
集団の「敵」の形成
↓
国家・民族などの集団的アイデンティティ
↓
敵への投影
↓
戦争
↓
トラウマ
↓
次世代への伝達
↓
新たな「影」という循環モデルになります。
これは信田さんの本とは少し違った、あなた自身の理論になっています。
特に面白いのは「循環」という考え方
あなたが最後に書いた、
個人の意識の働きは連鎖し、循環しているという部分は、かなり重要だと思います。
例えば、
恐怖
↓
敵を作る
↓
敵を攻撃する
↓
相手も恐怖を感じる
↓
相手がこちらを敵と認識する
↓
こちらもさらに恐怖する
↓
さらに敵を攻撃する
という循環が起こる。
ここでは、「最初にどちらが悪かったのか」だけを探しても、循環そのものは止まりません。
だからあなたの考えでは、
「誰が悪いか」を探すことから、「この循環はどうやって生まれ、どうやったら止められるか」へ視点を移すことが重要になります。
これは非常に面白い方向性です。
両者を並べると

あなたの考えは、信田さんの本と
「暴力を個人の悪だけで説明せず、個人・家族・社会・国家をつながったものとして考える」というところでかなり共鳴しています。
しかし、
信田さん=「家族・社会における権力構造」の分析に対して、
あなた=「人間の内面にある影と、それが他者・社会へ投影される心理的循環」の分析
と考えると、違いが明確になります。
そして、この二つを組み合わせると、むしろかなり興味深いモデルになります。
個人の内面(影) ↔ 家族内の権力 ↔ 社会的規範 ↔ 国家・集団の敵意
という相互作用です。
つまり、「心理」と「構造」を対立させず、両方が互いを作り出していると考える。
そうすると、あなたが書かれた「個人の意識の働きは連鎖し、循環している」という考えを、信田さんの「家族と国家」という視点と接続できます。
ただし、「虐待・いじめ・戦争はすべて人間の影の投影である」とまで一般化すると、かなり強い主張になります。そこは、ユング心理学、トラウマ研究、世代間伝達、社会心理学(投影・スケープゴート)、集団間葛藤などの知見と照らし合わせながら慎重に組み立てると、単なる思想的直感ではなく、かなり説得力のある議論にできると思います。
「影」は、自分が認めたくない自分自身の側面に目を向けるという、心理的・内面的なアプローチです。
一方、信田氏の本は、
「問題をすべて自分の内面の問題として処理してはいけない」という方向に視野を広げるのに役立ちます。
つまり、
あなた:自分の内側に何があるのかを見る。
信田さよ子:その「自分」は、どのような家族関係や権力関係の中で形成されてきたのかを見る。
という補完関係で考えることができます。
「自分の内面」だけを見るのではなく、内面と、その内面を形づくった人間関係・家族・社会構造まで視野を広げる。
そうすることで、「自分の問題」に見えていたものを、別の角度から捉え直すことができます。
※この記事は加筆する予定です。
