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野球を観ることは不条理劇だと思う【8/3(月)〜8/7(金)の日記】

8月3日(月)

朝イチで病院に行き、肝機能の再検査結果を聞いた。基準値にまだ入っていない数値も残っていたが、おおよその項目は健康体に戻ってきた。3ヶ月ランニングを頑張ってきた甲斐があった。先週再検査を終えた解放感から、ここぞとばかりにビールを飲みまくっている。顔が浮腫んでいるので、また週末までランニングを頑張って引き締めなければ。

という、決意も虚しく、SNSを見ていると楽天の試合が夜に東京ドームであることを知った。浴びるほどビールを飲むチャンスである。仕事が早めに終わりそうなタスク感だったので、滑り込みでチケットを購入して水道橋へ向かった。大人になってから初めて東京ドームで野球観戦をした。ひとりで観戦しながらビール3杯を飲む。

主催側のオリックスファンの声援がドームに響く。独特の音の響きに怖さすら感じる。試合は初回に4点を先制して、一時は6点リードしたにもかかわらず、オリックスにサヨナラ負けした。落胆して、あまりの怒りに水道橋を散歩した。こういう場面に出くわすと、いやでも自分が他者に期待してしまう生き物であることを突きつけられる。プロ野球チームを応援することはある種、3時間半から4時間の不条理劇を見ることだと思う。たとえ待ったとしても、期待通りの答えが返ってくるとは限らない。予想外の負けを喫することもある。人生こんな不条理なできごともある、ということを野球は教えてくれる。

8月4日(火)

昨夜の靄がかかった感情とともに目を覚まして、ランニングにでかける。起きても、自分が6kmランニングをしても、仕事をしても、楽天は最下位のままだ。頑張っても、願っても、究極的にどうにかするのはマウンドに立ち、打席に立ち、フィールドでプレーをする選手たち。場末の人間であるしがない30歳の自分にはどうすることもできないのである。

しかしながら、僕は10歳のときに社会の荒波とともに地元宮城に生まれた球団を自然に応援するようになり、ごく稀にAクラスに入った年以外はほとんど4位か5位を行ったり来たりするこのチームを否応なく応援してきた。他者を応援するとは何か。応援する対象を選び取るとは何か。たとえば、自分が福岡に生まれていたらホークスを、北海道に生まれていたらファイターズを、西武沿線に生まれていたらライオンズを応援していたのだろうか。はたまた、巨人ファンや阪神ファンになっていただろうか。

生まれ育ってくる中で主体的に選んだようで、自分が育ったコミュニティの文化や雰囲気によって選択肢が醸成されたものについて思いを馳せる。人間とは、やはり否応なく相対する他者の影響を絶えず受け取っている存在なのかもしれない。負けをどのように受け入れるのか。どう解釈するのか。弱いチームを応援することは、もはや文学である。何も報われないとしても、これからもきっと自分は楽天を応援していくのだろう。

8月5日(水)

仕事をしながら聴いた前日の荻上チキ・Sessionにハンセン病の特集があった。先日軽井沢に行った際、草津の栗生楽泉園内にある歴史館に連れていってもらったので、タイムリーな話題だった。

恥ずかしながら自分も行くまで療養所のことについて詳しく知らなかったけれど、現地に行ってこんなにも人権が無視されてきた歴史があるのか……と知ることができた。放送の中でリスナーからのメールにあった、栗生楽泉園の重監房資料館には自分も足を運んだ。資料館内に再現された部屋や収容された人たちの人生を見ていると「どうして同じ人間がこんな酷い目に遭わなければならないのだろう」と胸を締め付けられる思いに駆られた。

栗生楽泉園の納骨堂に建てられた「人権の碑」

8月6日(木)

8月6日なので、2年前の8月に広島に行った時のnoteを読み返した。何度でもこの時に考えたことを思い出したい。

清浄か汚濁か。こちら側かあちら側か。なぜ、二元論で切り分けて、こちらでないものを弾圧するのか。見るべきは、もっと間(あわい)にあるはずなのに。
今もこの世界では、同じ人を蹂躙するような出来事が起きている。
もっと学ばなければいけない。人を踏み躙ることや見下すことではなく、人を知るために。暴力ではなく、知性で向き合うために。

旅と内省と世界のこと|広島旅行記

どこまでいっても、自分は学び続けたい。人間を、この社会を。

8月7日(金)

仕事の合間に、先週読書会で知り合った方とお茶をした。國分功一郎「目的への抵抗」の話をしたので、もう少しライトな本を読書会に持っていけばよかったと思っていたら、逆にもっと話したいと声をかけていただき話すことになった。やっぱり自分の考えていることは臆せず出していっていいのかもしれない。

読書会では、この本の中で書かれていたSNSの論争が賛成か反対かに立場を表明すること、つまり反応することに終始していて、問いを立てることがなくなっているという話を語った。自分の政治的スタンスはリベラル左派だが、フィルターバブルによって自分たちの声が正しさを振りかざしていることに反省的でなければならないとも同時に感じる。真っ当であること、正しくないことが跋扈する社会を是正することはもちろん求められるが、正しさを突きつけることであらゆる会話の可能性を閉ざしてしまうのはいいのだろうか。

会った人とお茶している時に今読んでいる朱喜哲「バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学」の話をした。もちろん、マイノリティに正しさで殴っていると批判するのは一種の暴力性があることは自覚している。それでも、いや、だからこそ繋がるために、自分は常に問い続けること、会話を閉ざさないことを目指したい。

読書会から考えたことは先週のPodcastで話した。よければ、ぜひ聴いてほしい。


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