見出し画像

長い助走の、その先へ ―― 『最後にして最初の人類』 第八章からが本番だ

 ここまで、長く苦しい歴史の歩みに付き合ってくれた皆さん、本当にありがとう。

 正直に言う。一九三〇年に書かれたこの本の序盤は、外れた近未来予言と、露骨な時代の偏見が入り混じる、いちばん古くて、いちばん気まずい部分だった。延々と続く興亡の羅列に気が遠くなり、脱落しかけた人も多いだろう。その反応は、まっとうだ。ボク自身、訳しながら何度もうんざりした。

 だが、ここまで来たあなたに、はっきり言っておきたい。あれは、無駄な我慢ではなかった。

 第一期人類が滅び、第二期人類が現れ、また滅びかけ——この泥臭いくり返しは、すべて、これから始まる跳躍のための助走だったのだ。そして第八章から、その跳躍が始まる。ここから先、景色は一変する。

人類が、人類でなくなっていく

 次の第八章で、ついに火星人が登場する。だが身構えなくていい。これは、タコでも、緑色の小人でもない。放射でつながった無数の微細な単位が、群れ全体でひとつの意識をなす――雲のような集合知性なのだ。一個の身体を持たず、空に広がり、収縮し、考える生命。地球を侵略しにくるこの存在を前に、ボクたちの「生きものとは何か」「心とは何か」という前提が、根こそぎ揺さぶられる。

 そしてこれは、序の口にすぎない。この先、人類は自分自身を設計し直し、姿を変えていく。身体を捨てた知性が現れ、人類は地球を離れ、別の惑星へ移り住み、環境に合わせて退化と進化をくり返す。その変容のスケールは、ここまでの「国が興って滅びる」程度の話を、はるかに置き去りにする。

ここからが、この本の本当の姿だ

 考えてみてほしい。前にも書いたとおり、ステープルドンは技術には驚くほど無頓着で、偏見にも縛られた、一九三〇年のひとりのイギリス人だった。その彼が、人類を主人公の座から引きずり下ろし、宇宙の時間のなかのちっぽけな一段階として描き切る。この「人間を中心に置かない眼」こそ、後のSFが「コズミックな視点」「深い時間」と呼んで受け継いだものだ。その最も早く、最も極端な実践が、まさにこの後半なのだ。

 これまでの泥臭い歴史は、この視点に立つための、長い長い助走だった。低い助走路を走ってきたからこそ、ここからの跳躍の高さが、効いてくる。

 物語としての読みやすさは、正直、これからも期待しないでほしい。主人公はいないし、ドラマもまばらだ。だがステープルドンは、主人公を捨てたからこそ、宇宙そのものを主題にできることを、最初に証明してみせた。これは小説というより、すべてのSF読者とSF作家に捧げられた、壮大な「未来の神話」なのだ。

 ここまで来たあなたなら、もう大丈夫。いちばんきつい上り坂は、抜けた。この神話の行き着く果てを、どうか最後まで、一緒に見届けてほしい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集