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最後の人類が語りはじめる ―― オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』「序論」を、いま訳す理由

 先日TALESにアップした「序文」、読んでどんな印象を持っただろうか。
 ただ驚かせるための空想物語ではなく、人類を宇宙という背景のなかに据え直し、新しい価値観を手探りしようとする——著者のそんな真剣な意図が、にじんでいたと思う。ボク自身、あの短い序文を訳しながら、これはただの未来予測ではないぞ、と背筋が伸びた。
 さて、今回はそれに続く「序論」をアップした。

途方もない前提

 ここでいよいよ、この物語の途方もない前提が明かされる。この先、なんと二十億年におよぶ人類の興亡が語られ、しかもそれを語るのは、第十八期人類、すなわち「最後の人類」のひとりなのだ。はるか未来から、ボクたち第一期人類のことを振り返って書いている、という体裁をとっている。読者であるボクたちは、語りかけられる「過去の原始人」の側にいる、というわけだ。
 このスケールが、後のSF作家たちに効いていないはずがない。まずアーサー・C・クラーク。『幼年期の終り』や『2001年宇宙の旅』で描かれた、人類の枠を踏み越えていく超越のヴィジョン——あれはステープルドンなしには考えにくい。クラーク自身、ステープルドンを生涯の導き手のように語っていた。だが影を落とした先は、彼ひとりではない。ブライアン・オールディスは、SF史を論じるとき、この作品をジャンルの源流のひとつとして真正面から扱った。ずっと後の世代では、スティーヴン・バクスターが、種が興り滅びまた興る「深い時間」の物語を、明らかにこの地層の上で書いている。さらに源流をたどれば、人類の遠未来を冷たく見晴るかすH・G・ウェルズの『タイム・マシン』の眼差しが、ステープルドンを経て、これらの作家へと流れ込んでいるのが見えてくる。

日本のSFにも確かに息づいている

 そして、この眼差しは海を越えて、日本のSFにも確かに息づいている。小松左京の『果しなき流れの果に』は、人類どころか生命そのものの興亡を、気の遠くなる時間のスケールで見晴るかしてみせた——あれはまさに、日本語で書かれたコズミックな叙事詩だ。光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』もまた、文明の生成と崩壊を、宇宙的な時間のなかに据えてみせた。
 おもしろいのは、彼らがその視点を、ただ受け継いだだけではないことだ。ステープルドンのコズミックな眼差しは、どこまでも西洋的で、科学の冷たい光に貫かれている。そこへ日本のSFは、生成と崩壊をくり返す宇宙を前にした、あの無常の感覚を重ねてみせた。時間の途方もなさに、ただ慄くのではなく、どこかで受け入れ、味わう——そういう色合いが、確かに加わっている。彼らがステープルドンの直接の弟子だったかどうかは措くとしても、同じ高みから時間を見下ろしながら、その眺めをほんの少し先へ推し進めた、いわば遠い血縁であることは間違いない。
 彼らに共通するのは、人類を物語の主役としてではなく、広大な宇宙の時間のなかのほんの一段階として眺める眼だ。この、ボクが「コズミックな視点」と呼んでいる眼差しの、最も早く、最も極端な実践が、本作なのだ。

メタな視点で物語を成立させられるSFというジャンルの強み

そして、こういうメタな視点で物語を成立させられるのが、SFというジャンルの強みだ。本作は、主人公を捨ててでも宇宙そのものを主題にできるという、SFの射程の深さを、最初に証明してみせた作品なのだ。
 正直に言っておく。これは大作だ。訳すのも大変だが、読むのも楽ではない。文章は硬いし、中身も硬い。気軽に薦められる本ではない。
 それでも、この景色を一緒に俯瞰してくれる人を探している。荒唐無稽な戯言として片づけるには、あまりにも惜しい。SFというジャンルの足元が、どれほど深いところまで届いているのか——それを教えてくれる眺めが、ここにはある。その硬さは、この本が手抜きをしていない証拠でもあるのだ。

今回公開した「序論」を入り口に、二十億年の未来へ、一緒に旅立ってほしい。

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