ドストエフスキーと尾崎豊-心の弱さ、依存、そして「自分から逃げられない」という絶望
ドストエフスキーと尾崎豊。
19世紀ロシアの小説家と、1980年代から90年代初頭の日本を駆け抜けたシンガーソングライター。
生きた時代も国も、作品の形式もまったく違う。
それでも二人の作品に触れていると、私はどこか似たものを感じる。
それは「反抗」そのものではない。
むしろ、
自分自身とうまく付き合うことのできない人間の苦しさ
である。
社会に馴染めない。
自由になりたい。
誰かに理解されたい。
自分らしく生きたい。
それなのに、最後には自分自身の心から逃れることができない。
そこには、人間の内向性、精神的な脆さ、孤独、依存、そして絶望がある。
うつ病になった今の私は、この二人の作品を以前とは少し違ったものとして受け取るようになった。
「強い反逆者」ではなく、「強くなりたい人間」
尾崎豊は、しばしば「反抗する若者」の象徴として語られる。
学校。
教師。
大人。
社会の規則。
それらに対して「自分は自分でありたい」と叫ぶ姿は確かに強烈だった。
しかし、尾崎の歌を聴いていると、そこにいるのは本当に「強い人間」なのだろうかと思う。
私にはむしろ、
強くなりたいのに、強くなりきれない人間
に聞こえる。
誰にも支配されたくない。
それでも誰かに理解してほしい。
一人で生きたい。
それでも孤独には耐えられない。
自分を信じたい。
それでも「自分とは何なのか」が分からない。
尾崎作品の苦しさは、その矛盾にあるのではないだろうか。
「僕が僕であるために」という言葉も、逆に考えれば不思議である。
最初から確固とした「僕」が存在しているなら、「僕であるために」と必死になる必要はない。
自分が崩れてしまいそうだからこそ、
「僕でありたい」
と願う。
私はそこに、尾崎豊の作品が持つ非常に内向的な部分を見る。
ドストエフスキーの人間は、自分の心から逃げられない
ドストエフスキーの登場人物もよく似ている。
『地下室の手記』の主人公は、人間関係から離れ、自分の内側へ内側へと潜っていく。
他人を軽蔑する。
しかし他人の評価を気にする。
自分は特別だと思いたい。
しかし強烈な劣等感を抱えている。
愛されたい。
しかし誰かが近づいてくると、自分からその関係を壊してしまう。
ここまで来ると、敵は社会ではない。
自分自身である。
『罪と罰』のラスコーリニコフも、思想によって自分を超越した人間にしようとする。
しかし人間は思想だけでは生きられない。
罪悪感。
恐怖。
孤独。
愛。
良心。
理屈では処理できない感情によって、自分が作った思想そのものが崩れていく。
ドストエフスキーが恐ろしいのは、
「社会さえ変えれば人間は幸せになる」
とは簡単に考えないところだ。
社会を変えても、人間の心は残る。
そして人間は、ときに自分自身を破壊する。
ドストエフスキー自身にも「依存」があった
ここで興味深いのが、ドストエフスキー自身の人生である。
彼には、てんかんがあったことが知られている。
これは精神疾患ではなく神経疾患なので、両者を混同してはいけない。
一方で彼は、一時期ルーレットに深くのめり込んだ。
賭けに負ける。
お金を失う。
それでも再び賭ける。
そしてまた賭博場へ向かう。
その経験は『賭博者』にも色濃く反映されている。
ここには、彼の小説と同じ構造があるように感じる。
「やめたほうがいい」と自分でも分かっているのに、やめられない。
理性と行動が一致しない。
これはドストエフスキーが作品の中で何度も描いた、人間の根本的な矛盾そのものでもある。
尾崎豊と薬物をどう考えるか
尾崎豊について語るとき、薬物の問題を完全に避けることもできない。
1987年、尾崎は覚醒剤取締法違反で逮捕されている。
しかし、ここから先には慎重でありたい。
薬物を使用したという事実と、
「なぜ使用したのか」
「どのような精神状態だったのか」
「医学的にどのような診断が成立していたのか」
という問題は別だからである。
作品や報道だけを材料に、後世の私たちが本人へ精神疾患の診断名をつけることはできない。
だから私は、
「尾崎豊は精神的に弱かったから覚醒剤を使った」
とは書きたくない。
それでは、あまりにも簡単に一人の人間を説明してしまう。
人間の心は、それほど単純ではないと思う。
精神疾患と依存症は、単純な原因と結果ではない
精神疾患と依存症には、併存する場合がある。
強い不安や抑うつ、ストレスなどから一時的に逃れようとして、アルコールや薬物などに頼ってしまうこともある。
しかし、
「精神疾患があるから依存症になる」
という単純な因果関係ではない。
反対に、依存症になった人に必ず別の精神疾患があるわけでもない。
そして依存症は、
「意志が弱いからやめられない」
というだけの問題でもない。
人間の脳、心理状態、生活環境、人間関係など、さまざまな要因が絡んでいる。
だから「弱さ」と「依存」を同じ言葉として扱うべきではないと思う。
依存とは、「自分から逃げる方法」なのだろうか
医学的な診断とは別に、文学や音楽として考えてみると、ドストエフスキーと尾崎豊には興味深い共通点が見えてくる。
ドストエフスキーには賭博があった。
尾崎には薬物使用という事実があった。
もちろん、この二つを同じものとして扱うことはできない。
しかし、
苦しい現実や自分自身から、一瞬だけでも離れたい
という人間の心理を考える手掛かりにはなる。
賭博であれば、ルーレットの玉が落ちる瞬間。
薬物であれば、物質によって普段とは違う感覚が生じる時間。
その瞬間だけは、
仕事も、
社会も、
将来も、
自分について考え続けることさえも、
遠ざかるのかもしれない。
だが、その時間は永遠には続かない。
現実へ戻る。
借金は残っている。
人間関係も残っている。
孤独も残っている。
そして何より、
自分自身が残っている。
ここに私は、ドストエフスキー的な絶望を感じる。
人間は世界から逃げることはできても、最後まで自分自身から逃げ切ることはできない。
うつ病になって分かった「逃げたい」という感覚
私はうつ病になってから、「逃げたい」という言葉について考えることが増えた。
それは必ずしも、
どこか遠くへ行きたい、
という意味ではない。
むしろ、
しばらく自分の頭の中から離れたい
という感覚に近いことがある。
考えることに疲れる。
自分について考えることにも疲れる。
将来について考えることにも疲れる。
そして何も考えたくなくなる。
以前なら「現実逃避」という言葉を、少し否定的に捉えていたかもしれない。
しかし今は、人間にはときに現実から距離を取らなければ耐えられない瞬間もあるのだと思う。
もちろん、その方法が薬物や自分を破壊する行為になってしまえば、苦しみはさらに大きくなる。
大切なのは、
「逃げてはいけない」と責めることではなく、安全に逃げられる場所を持つことなのかもしれない。
音楽でもいい。
本でもいい。
眠ることでもいい。
誰かと話すことでもいい。
医療や支援につながることでもいい。
自分を壊さずに、一時的に世界から距離を置ける場所。
それもまた、人間が生き続けるためには必要なのではないだろうか。
もし彼らがSNSの時代を生きていたら
そして、もう一つ気になることがある。
もしドストエフスキーや尾崎豊が、SNSやAIを当たり前に使う現在を生きていたら、どんな発信をしていただろう。
もちろん、これは想像にすぎない。
本人たちが実際にどう行動したかを語るものではない。
しかし、二人の作品に見える自意識や孤独を考えると、とても興味深い問いだと思う。
ドストエフスキーがXのようなSNSを使っていたら、どうなっていただろう。
社会について長文を書いた数分後に、
「いや、さっき書いたことは間違っていた」
と自分で反論を始めるかもしれない。
誰かの投稿に腹を立て、
何千字もの反論を書き、
投稿したあとで後悔し、
それでもまたタイムラインを見てしまう。
『地下室の手記』の主人公など、現代に生きていればSNSとの相性は恐ろしいほど良く、同時に恐ろしいほど悪いような気がする。
他人を軽蔑しながら、
他人からの「いいね」を確認する。
人間関係なんて必要ないと言いながら、
自分の投稿への反応がないと傷つく。
匿名の相手と論争し、
画面を閉じたあとも、頭の中でその続きを何時間も考える。
まさに、
「他人から離れたいのに、他人の視線から逃れられない」
という地下室的人間のために作られた装置のようにも思える。
尾崎豊なら何を発信しただろう
尾崎豊についても想像してしまう。
もし彼がInstagramやX、TikTok、YouTubeの時代を生きていたら。
ライブ終了後、ステージでは言えなかったことを深夜に長文で投稿していたかもしれない。
あるいは、
街を歩きながら考えたこと。
若者から届いたメッセージ。
社会への違和感。
自分自身への疑問。
そうしたものを、ほとんど日記のように発信していたかもしれない。
一方で、SNSは尾崎にとってかなり残酷な場所にもなったのではないだろうか。
称賛される。
批判される。
切り取られる。
誤解される。
炎上する。
「若者の代弁者」という役割を、毎日のように求められる。
そしてフォロワーが増えれば増えるほど、
「本当の自分」と「世間が求める尾崎豊」
との差が大きくなっていく。
これは、彼が作品の中で問い続けた
「僕とは何なのか」
という問題を、さらに苦しくした可能性もある。
SNSは、人とつながる道具である。
しかし同時に、
他人の目を24時間、自分の部屋まで連れてくる装置
でもある。
内向的で自意識の強い人間にとって、それは救いにもなれば牢獄にもなる。
では、AIと何を話しただろう
そして私は、AIについても考える。
もしドストエフスキーが生成AIを持っていたら、何を尋ねただろう。
「人間は本当に自由なのか」
「罪を犯した人間は救われるのか」
「神がいなければ何をしても許されるのか」
「なぜ私は、自分で間違いだと分かっていることをしてしまうのか」
そんな問いを、朝までAIに投げ続けていたかもしれない。
そしてAIが一つ答えるたびに、
「しかし、それは違う」
と反論し、さらに問いを深くしていったような気もする。
ドストエフスキーにとってAIは、答えを教えてくれる機械というより、
自分自身の思想と永遠に議論できる鏡
になったのではないだろうか。
尾崎豊なら、もう少し違った使い方をしたかもしれない。
「この気持ちを言葉にしたい」
「どうしてこんなに孤独なんだろう」
「誰にも理解されていない気がする」
「自分らしく生きるって、どういうことなんだろう」
そんなことをAIに語る夜があったかもしれない。
人には言えないことを、AIには言える。
そういう瞬間は、今を生きる私たちにもある。
AIには表情がない。
呆れない。
深夜でも応答する。
だから、人間相手には言えない自分の弱さを言葉にできることがある。
それは確かに、一つの救いになり得ると思う。
SNSもAIも、新しい「地下室」になり得る
しかし同時に、少し怖いとも思う。
ドストエフスキーの地下室人は、自分について考えすぎることで、ますます動けなくなった。
現代では、その「地下室」にWi-Fiがついている。
部屋から一歩も出なくても、
世界中の人間の意見を見ることができる。
自分と似た考えを探すこともできる。
自分への批判を探すこともできる。
何時間でも自分自身について考え続けられる。
そしてAIを使えば、その思考にいつまでも付き合ってくれる相手までいる。
それは便利である。
孤独を和らげることもある。
しかし使い方によっては、
自分の内面から一歩も外へ出ないための装置
にもなり得る。
自分について考える。
AIに尋ねる。
さらに考える。
SNSを見る。
誰かと比較する。
また傷つく。
そして再び自分について考える。
そんな循環も生まれ得る。
だからSNSやAIは、
外の世界へ出るための「窓」にもなるし、
自分自身を閉じ込める新しい「地下室」にもなるのだと思う。
それでも、人とつながることができる
ただ、私はSNSやAIを悲観的にだけ考えたいわけではない。
孤独だった人間が、
「自分だけではなかった」
と知ることができる。
同じ病気を持つ人と出会える。
自分では言葉にできなかった感情を、誰かの文章によって理解できる。
夜中に一人で苦しんでいるとき、誰かと話すことができる。
そういう可能性も、この時代にはある。
もしドストエフスキーや尾崎豊がSNSを使っていたら、傷つくことも多かっただろう。
しかし同時に、
彼らの文章や言葉に、
リアルタイムで
「自分も同じことを感じています」
と返事をする人が世界中にいたはずだ。
それは彼らにとって、何かを変えただろうか。
救いになったのだろうか。
それとも、その反応さえ新しい苦しみになったのだろうか。
私には分からない。
でも、その「分からなさ」自体が、とても現代的な問いだと思う。
「弱さ」と「依存」を同じものにしない
尾崎豊もドストエフスキーも、私は「精神的に弱い人間だった」と簡単には言いたくない。
むしろ二人の作品が見つめ続けたのは、
人間には弱い部分がある
という事実だったのではないかと思う。
弱さを否定するのではない。
しかし、弱さを美化するのでもない。
依存をロマンチックなものにするのでもない。
苦しみの中から生まれた作品が美しいからといって、本人の苦しみまで美しかったことにはならない。
ここは区別しなければならないと思う。
「苦しんだから名作を作れた」
と考えてしまえば、
苦しみそのものを芸術の条件のように扱うことになる。
私はそうは思わない。
できることなら、苦しまないほうがいい。
病気にならないほうがいい。
依存症にならないほうがいい。
それでも、人間は傷つく。
そして傷ついた人間が、その経験を言葉や音楽に変えることがある。
私たちが心を動かされるのは「病気」そのものではなく、
そこから表現された、人間の本当の感情
なのだと思う。
人間の絶望とは、自分自身を捨てられないこと
ドストエフスキーの人物たちは、自分の心に苦しめられる。
尾崎豊の歌の「僕」は、自分らしく生きようとして苦しむ。
二人とも、自分という存在から逃げようとしながら、最後には「自分とは何か」という問いへ戻ってくる。
それはある意味、とても絶望的だ。
自分自身は捨てられない。
朝になれば、また自分として目を覚ます。
しかし私は、そこには絶望だけではないとも思う。
自分から逃げられないということは、
最後まで自分と付き合っていくしかない
ということでもある。
うつ病になった今の私は、それを以前ほど勇ましく考えられない。
「自分に勝つ」とか、
「弱さを克服する」とか、
そういう話ではない。
弱い自分。
動けない自分。
不安になる自分。
逃げたくなる自分。
誰かと話したくなる自分。
ときにはSNSを眺めたり、AIに言葉を投げかけたりしながら、なんとか夜を越えていく自分。
そういう部分まで含めて、
なんとか今日一日、自分と一緒に生きていく。
それくらいでいいのではないかと思うようになった。
ドストエフスキーも尾崎豊も、完成された強い人間を描かなかった。
矛盾している。
傷ついている。
愛されたがっている。
逃げたがっている。
それでも、生きる意味を探している。
だから彼らの作品は、心が弱っているときにも、こちらへ迫ってくるのだと思う。
それは「強く生きろ」という言葉ではない。
人間はこれほど弱く、矛盾し、ときには自分自身に絶望する存在なのだ。
その事実を、二人とも隠さなかった。
そしてもし彼らが現在を生きていたなら、SNSやAIという新しい道具を前にしても、やはり同じ問いを繰り返していたのではないだろうか。
人間はなぜ孤独なのか。
自由とは何なのか。
誰かに理解されるとはどういうことなのか。
そして、
「自分として生きる」とは、一体どういうことなのか。
技術がどれほど変わっても、おそらくこの問いだけは変わらない。
だから私は、100年以上前のドストエフスキーを読み、30年以上前の尾崎豊を聴きながら、スマートフォンを手にし、AIと話している今の自分について考えてしまう。
時代はまったく違う。
使っている道具も違う。
それでも人間が自分自身について悩むことだけは、あまり変わっていないのかもしれない。
そして今の私には、そのことが妙に救いになる。
