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秋葉原と僕・前編|バスケットコートがあった、あの頃

初めて秋葉原電気街に足を踏み入れたのは、10代の頃。田舎住まいのぼくを、父親が東京見物に連れてきてくれたんだよね。その道中でふらっと寄ったのが、秋葉原だった。

正直、そのときの記憶はほとんど残ってない。細かいことは覚えてないんだけど、駅を出た瞬間の空気だけは、なぜか体のどこかにこびりついてる。看板の密度、人の多さ、店先から漏れてくる電化製品特有の駆動音。田舎の街並みとは何もかも違っていて、ちょっと気圧されながらも目だけはずっと忙しく動いてた記憶がある。

で、駅前にバスケットコートがあったことだけは、なぜかはっきり覚えてるんだよね。

そこから先、秋葉原は「東京に来たらとりあえず寄る場所」になっていった。理由なんて特にない。ガジェットとパソコンが好きだったから、自然とそうなっただけ。用事があってもなくても、東京に来る機会があれば気づけば秋葉原に向かっていた。もう、そういう体質になってたんだと思う。

というわけで、10代の頃から今までの秋葉原の記憶を、3回に分けて書いていくことにした。

🏀 バスケットコートと、地方出身の僕

コートといっても、アスファルトにペンキでラインを引いただけの、いかにもストリートバスケな佇まい。フェンスの向こうには再開発途中らしい囲いも見えてて、街のどこかに空白がぽっかり空いてるみたいな場所だった。それでも東京のど真ん中でボールが弾む音が響いてるのは、田舎から出てきた10代のぼくにはなんだか新鮮でさ。

あとで調べたら、この駅前広場のバスケットコート、1993年9月にオープンして2001年7月31日に閉鎖されてたらしい。

自分の記憶にある景色とこの年表を重ねると、ちょうど90年代末から2001年前後のどこかで、ぼくは秋葉原に通い始めてたことになる。

こういう答え合わせ、地味に楽しい。

当時の秋葉原は、今みたいにアニメやフィギュア、メイドカフェが街の顔になってる感じとはかなり違って見えた。目に入るのはむしろ、家電量販店の巨大な看板と、路地の奥まで続く小さな店の群れ。ホビー系の店自体は昔からあったと思うけど、少なくとも当時のぼくの記憶にはほとんど残ってない。今ほど街全体がサブカルチャー色に染まってはいなかった、というのが正直な印象かな。

ガジェットとパソコンが好きな地方出身の少年にとって、この街は「東京に来たら寄りたい場所」以外の何物でもなかったんだよね。

🧲 電気街と呼ぶには、あまりに雑多だった

「当時は電気とPCの街だった」って単純化するのも、実はちょっと違う気がしてる。ぼくの記憶の中では、もっとぐちゃぐちゃに雑多だった。

石丸電気、サトームセン、ラオックス、ヤマギワ、オノデン、ロケット。大型の家電店と巨大看板が、街並みの中でとにかく強い存在感を放っててさ。店先からはひっきりなしにセールのアナウンスやBGMが流れてきて、それが何重にも重なって、街全体がちょっとしたお祭りみたいな騒がしさになってた。

で、実はこの時期、パソコンの気配もどんどん強くなってたらしい。秋葉原電気街振興会の資料によると、1994年には秋葉原電気街の売上でパソコン関連が家電を上回って、「パソコン街」へと大きく変容していったという。

つまりぼくが通い始めた時期って、「昔ながらの電気街」と「急成長するパソコン街」がちょうど重なってた時期だったことになる。今振り返ると、なんだか面白いタイミングに居合わせてたんだなと思う。

でも、街の顔はそれだけじゃなかったんだよね。

今よりカメラ屋がずいぶん目についた記憶があるし、ショーウィンドウにずらりと並んだレンズが通りすがりに光を反射してるのをよく見かけたし、アンプやスピーカー、CDプレーヤーを扱うオーディオ専門店の前を通ると試聴用の音がふと漏れ聞こえてくることもあった。パソコン屋の間には無線機や長いアンテナをぎっしり並べた店もあって、新しいPCの街の隙間から、もっと古い電気街の地層がそのまま露出してるみたいだった。

電子部品やIC、基板、コネクタ、用途不明の中古部品を扱うジャンク屋も、当時の秋葉原らしい風景。「何に使うんだ、これ」って思いながら箱の中身を眺めてるだけで、なぜか時間が溶けていく感覚があったんだよね。CD-Rがなぜかうず高く積まれてる店も多かった記憶があって、CD、レーザーディスク、VHSを大規模に扱う売場も目立ってた。今となってはかなり懐かしい単語ばかり並ぶ。

そして、なぜか釣具屋まであった。電気街なのに釣具屋って、今思い出しても不思議な組み合わせなんだけど、これがむしろ「雑多な街」らしさをよく表してる気がする。専門的なものが、ジャンルの境界なんて無視してぎゅっと詰め込まれてる感じ。それが当時のぼくにとっての秋葉原だったんだと思う。

🕵️ 路上にまで、何が出てくるかわからなかった

店の中だけじゃなくて、路上まで含めて「秋葉原」だったのも、今思うとかなり独特だったよなあ。

路上では、ソフトのタイトルと値段がびっしり書かれた紙を配って、どう考えても正規品には見えないPCソフトを売ってる人がいて、その紙、ぼくも実際に見たことがあるんだよね。目が合うとちょっと声をかけられそうで、なんとなく歩調を速めた記憶がある。

今にして思えば、けっこう際どい光景だったよな。

駅前では、なぜかやたらと「絵を見ていきませんか」とギャラリーへ誘ってくる人もいたし。

こういう路上の風景、単なる思い出補正でもないみたいでさ。実際、90年代末から2000年代にかけての秋葉原では、路上での海賊版ソフト販売が繰り返し摘発されてたことが、業界団体の事件記録にも残ってる。当時の秋葉原には、そういう「何が出てくるかわからない」空気が、店の中だけじゃなく路上にまで漂ってたんだと思う。

専門的で、雑多で、ちょっと胡散臭い。今とは違う種類の落ち着きのなさが、この街のあちこちにあった気がするんだよね。

🔧 広報の仕事と、パーツを探して歩いた日々

新社会人になったぼくは、PC周辺機器やガジェットを扱うメーカーで広報の仕事をしてたんだよね。今思えば、機械そのものを追いかけることと、それを誰かに伝えることの両方が、この頃からずっと続いてる。

当時のパソコンは、デスクトップの自作機が中心。秋葉原に行って、メモリ、HDD、グラフィックボード、CPU、マザーボード、電源、PCケース。こういうパーツを一台分揃えるのに、一店舗で済ませることなんてほとんどなかったんだよな。

この店のメモリはいくら。マザーボードは向こうの店の方が安い。あっちには特価品がある。そんなことを確認しながら、何軒も回って一式を揃えていく。数百円、数千円の違いも、当たり前のように見比べてた。

今思えば、数百円のために何十分も歩き回ってたわけで、時給に換算したら真っ赤っかだったと思う。それでも当時は、それが正解だと本気で信じてたんだよね。

袋に入ったパーツを何個も両手にぶら下げて、次の店に向かって歩く。財布にはいつの間にかレシートが何枚も溜まっていって、後で見返すとちょっとした買い物の記録みたいになってた。その道中も、店先に貼られた手書きの値札や、ワゴンに山積みになったジャンク基板をつい覗いちゃう。目的のパーツを買い終えたはずなのに、気づくと予定になかった店に立ち寄ってた、なんてこともよくあった。

だから当時は、PCパーツの価格感が肌に染みてたと思う。店から店へ歩くこと自体が、自作PCという趣味の一部でもあったんだよね。値段を見比べる行為が、ただの節約じゃなくて、遊びの一部になってた。

こうして何年もかけて、ぼくの中には一つの常識ができあがっていった。

PCパーツを買うなら秋葉原へ行き、専門店を回るのが一番安い。

この感覚を疑う理由なんて、どこにもなかった。実際に何軒も回って、目で見て、手で触って、安いものを見つけてきたわけだから、そりゃもう当然のように正しいと思い込んでたよね。

でも後から振り返ると、この常識が形作られたのはあくまである一時期の話で、そこから先も秋葉原自体は変わり続けていくことになる。ぼくがこの街に通う頻度は、そこまで大きく変わらなかったのに、だ。

とはいえ、ここまで書いてきたのはあくまで90年代末から2000年代にかけての、ぼくの見た秋葉原。もっと昔から通ってた人には、また違う景色が見えてたはずだよね。バスケコートよりさらに前の秋葉原を知ってる人がいたら、その話もぜひコメントで聞かせてほしいな。

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Miccell - 街も僕も、少しずつ変わっていく。それでも、また歩きたくなる。

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