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【コラム】 被害者遺族に向けるべきでなかった、琉球新報記者の「質問」

昨日、東京で開かれた武石知華さん遺族の記者会見は、1時間12分に及んだ。遺族は冒頭で「平和教育や政治的なことを問う告訴ではない」と明言し、事故の真相解明と安全管理の欠如、責任の所在を問う姿勢を示した。

にもかかわらず、その直後に琉球新報の記者が「教育現場で萎縮が起きることへの受け止め」を尋ねた場面には、強い違和感を覚えた。問い自体が悪いというより、向ける相手が違っていたのである。

遺族が会見で語っていた中心は、娘がなぜ死ななければならなかったのか、学校の安全管理はどう欠けていたのか、責任の所在をどう明らかにするのか、という点だった。そこに「教育現場の萎縮」という別の論点を差し込むのは、被害の現実より政治的な争点を優先しているように映る。

安全の説明責任を問う場に政治論を持ち込むのは、遺族にとって暴言のように響いたとしても不思議ではない。

教育の萎縮を論じるなら、まず問うべき相手は学校側や行政側である。どの授業が、どの教材が、どの判断で縮んだのか。具体例がなければ、萎縮という言葉は空疎なスローガンにとどまる。被害者遺族に向けて問うべきなのはその抽象論ではなく、事故後に学校の平和学習は改善したのか、安全面や中立性に変化はあったのか、という現場の変化である。

会見とは、本来、痛みの中にある当事者の声を聞く場である。そこでは、社会の大きな論争をそのまま押しつけるのではなく、誰が何について答えるべきかを見極める配慮が必要だ。今回の質問は、その基本を外していた。

被害者遺族に問うべきだったのは「萎縮の受け止め」ではなく、「同志社国際高校の学習は変わったか」だったはずである。顔出しのない会見だったが、ご両親の声の緊張は強く、小声での受け答えにも相当の心労がにじんでいた。


(了)


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