誇りであり、コンプレックス。
初めましての方は初めまして。いつもご高覧いただいている皆様、ありがとうございます。現役高校3年生MIYABI/辻本です。
今回は、今のところ私の人生の中で最も大きい存在、日本拳法について書いていきたいと思います。
序文 ー日本拳法とはー
これから始まる話を味わっていただくにはそもそも日本拳法が何なのかということを押さえておかなければならない。
日本拳法とは自衛隊や警察の格闘術にも採用されている徒手格闘である。
大人なら約5~6kg、子供なら約3~4kgの総重量の防具(記憶が曖昧なので多少の誤差は許してほしい)を着用し、大人の部になるとローキックや金的以外は基本的になんでもアリの格闘技で、ほぼ総合格闘技である。
ルールは大まかにいうと、3人いる審判に「ナイス!」と思わせるような最高の打撃を先に2回決められた方が勝ち。時期によって「この技は最近とってくれやすい」みたいな流行りもあったりする。
解像度を少しでも高めてもらいたくて細かな説明をしてしまったが、大事なのはこの日本拳法が日本の武道であるという点である。「礼に始まり礼に終わる」や、「護身術は自分や自分の大切な人を守るためのものであり、むやみに他者に向けてはならない」という教えの元、単なる身体強化の域を超える、人格形成の一端を担うものであったという点は押さえておいてもらいたい。
私が惚れた「日本の心」
日本拳法を習い始めたのは私が幼稚園年中の頃であったと思う。
実のところ日本拳法を始めたことに特別な理由はない。ただ、兄が先に習い始めていた。「兄がしていることは自分もしたい」というのは弟の性である。
初めて見たはいいものの、小学校1年生時点で18kgほどしかなかったやせ型の私は格闘技にはあまり向いていなかった。あと人と殴り合うのは性に合っていなかった。それでも一緒に日本拳法を始めた幼馴染3人に負けたくなくて、一生懸命練習した。
そして迎えた初公式戦、私は相手と向かい合うことができなかった。怖かった。フィールドの外に立つと泣き出してしまい、試合はできなかった。これは2回目の公式戦でも対して変わることはなく、進歩というと対戦相手に挨拶ができたことくらいだろうか。怖くて泣くことしかできなかった。しかし、3回目の公式戦、結果は準優勝。何があったというんだろうか。正直ここあたりの記憶なんてないので大したことは書けないのだが、両親にこの時のことを聞いてみると、準優勝したときも泣いていたらしい。「負けて悔しい😭」と。あまり舐めたことを抜かすんじゃない。
こうして私の日本拳法ライフが始まった。
黄金の時代
先に言っておくが、ここの章はほぼ自慢で構成されている。ご了承いただきたい。なぜなら、今回のnoteの題名、「誇りであり、コンプレックス。」の誇りの部分であるからだ。一度我慢して読んでいただきたい。
私の黄金時代は幼稚園年長~小学校低学年のことだ。正直、超強かった。先に日本拳法を始めた兄たちを尻目に賞という賞を取りまくった。
私には2人のライバルがおり、一人は同じ道場、幼馴染のK。一人は違う道場で親が指導員もしているF君。小学校2年生くらいまでは私とKが。小学校3年生頃からは私を含めた3人で1位、2位、3位争いをしていたと記憶している。大会に出れば手に何かしらの賞を持って会場を後にしていた。
道場別の団体戦では道場の先生から「お前はポイントゲッターだからな!」
※ポイントゲッターとは「まず負けることのない枠」という意味。
と言われ、期待通り勝ち続けた。
初戦が始まる前、観客席から試合をするフロアに降りるときに幼馴染に「じゃ、また決勝で。」なんて言って本当に決勝戦で当たるなんてこともあった。
「3位しか取れなかった」と泣くこともあった。全国大会にも何回か出た。東京に招待をもらって試合をしに行ったこともある。
これを読んでくれている皆さんはもう薄々気づいていると思うが、そう。
完全に調子に乗っている。
正直この時は実力も伴っていたので鼻は伸びる一方だった。
しかし、このとき私の黄金時代は確実に破滅に向かっていた。
堕落、絶望、羨望。
ここからは何の救いもない、何の美談にもならない、「ただ堕ちる」苦しみを綴ることになる。
先程、「黄金時代」とは書いたが、あの時代は黄金時代であると同時に「試練の時代」でもあったというのは後になって分かったことである。
「黄金時代」、私の得意技は「回し蹴り」だった。普段の道場の練習試合では回し蹴りばかりで一本を取っていた。何か月も、何年もプレースタイルを変えず、同じ技を決め技として使い続けている人間がどうなるか分かるだろうか?
分析される。そのうち弱点が周囲に知れ渡る。
だからこそ、人間はどの分野においても「現状維持は退化」なのである。分析と進化が追い付け追い越せの状態になるから周りはなかなか攻略できない。そこで馬鹿みたいに立ち止まっている奴がいたらどうなるだろうか。追い抜かれる。当然だ。私はそれに気づけなかった。最初は「3位しか取れなった😭」と泣いていた少年は次第に2位か3位、表彰台に乗れる、表彰台も怪しい…と堕ちていく。ここでようやく「練習しなきゃ」と思ってももう遅い。いや、実際は誠実に今までの自分を本気で疑い、本気で表彰台にしがみつきに行くハングリー精神を呼び起こすことができれば再起も可能だったかもしれない。しかし、当時の私にはそれができなかった。物心ついた時から日本拳法が強かった。「また頑張れば戻れる」と本気で思っていた。
だから、その程度の努力しかしなかった。
ここで道場の、いつも親身になって指導してくださる先生が言った一言を紹介しよう。いつまでたっても私の心に残り続ける、黒く、重く、ネバネバした思い出。
「昔、君と初戦で当たった相手はその大会で表彰台を諦めていた。やる気を無くしていた。今、君と当たった奴はみんな「ラッキー」と思ってるよ。」
先生なりの激励だったのだろう。実際、つらい環境こそ燃えるタイプではあるのでその日は怒り交じりのやる気で試合することができた。表彰台には届かなかったが。ちなみに、先生がひどかったとは思わない。むしろ再起の最後のチャンスをくれたと思っている。
とはいっても、今でもこの言葉は私に「現状維持」に対して嫌悪の念を起こさせる一種のトラウマになっている。
その後、何があったのか
結論。何もない。
平たく言えば、頑張った。逆に言えば頑張っただけである。
ここでもう一つ惨めな話をするなら、小学校4、5年生の頃にあった大会でいつも通り負けた。相手はFくんだったような気がする。どうしても悔しくて、試合終了の時、拳をゆっくり降ろし、床に置かなければいけないところを思いっきり床を殴ってしまったことがある。日本拳法において、日本の武道において「礼を欠く」というのはもっとも恥ずべき行為である。試合終了後、母に手を引かれ、自分の道場の先生方、試合をした相手方の先生方に謝罪に行った。当時は「なんでこんなことをしなければならないんだ」と思っていたが、今になってその重要さ、惨めさがわかる。
結果も出ず、ただひたすら遠くなっていく元ライバル達。小学校4,5年生のときには彼らを「ライバル」と呼ぶのも億劫になっており、誰かに「あれがライバルやろ?」と聞かれたときには肯定とも否定とも取れないような歯切れの悪い返答しかできなくなっていた。
この約6年間は何だったのか
正直なところ、そこまで悲観はしていない。
確かに天狗になった。どうしようもなく。他者のアドバイスに耳をかさず、我流こそが勝利への道だと信じて疑わなかった。
しかし、誰より早い段階で「本気の挫折」を味わえたことはそこまで悪いことではないとも思っている。日本拳法からは多くのことを学んだ。
「完璧なんてない」「現状維持は退化である」「日本の文化・心は美しい」今振り返っても私の人生における「芯」の部分に影響を及ぼしている要素のなんと多いことか。
「人生に無駄な経験はない」その通りだと思う。ただただしんどかった。中学生が終わるころまではガッツリ引きずっていた。どうにかあの頃の栄光を取り戻したいという気持ちもあって生徒会に入った。そして、この判断もその後の私を形作る上で避けては通れない話につながってくるのだ。
しかし、絶対に間違ってはいけないのが「人生に無駄な経験はない」とタカをくくって「失敗しても経験になるし」といい加減に何かに取り組むことだけは無意味であるということ。
本気で向き合った。本気で失敗した。思い出すだけで顔から火が出るほど恥ずかしい。そこまで真正面から取り組んだことは「何か」自分のためになる。だからどんな些細なことでも私は本気で取り組む。
ただ兄に自慢したい一心で、期待に応えたい一心で、練習に励んだのも私。決勝戦、会場の全員が自分を見ているときの高揚感が忘れられなくて、必死に練習したのも私。せっかく積み上げてきた数年間を怠惰で棒に振り、堕ちていったのもまた私。堕ちたことに気づいてなお、己の功績に胡坐をかいていたのもまた私。しかし、そこから学び、無限の苦しみの中、現状維持に一種のトラウマを抱き、一歩でも足を進めねばと歩き続けた生徒会長としての私もまた私である。
皆さんも心の奥底に秘めておきたい、そんな思い出の一つや二つあるのではないだろうか。しかしそれは秘めているだけではもったいない。その思い出はきっと、熟成されて、輝く「何か」を生み出している。一度は心の奥に押し込んだカオスから目を背け、押し込んだままにするのも一つかもしれない。ただそれは、輝く「何か」も一緒に押し込んでしまうことになってしまう。心当たりがあれば、この機会にひっくり返して、目を背けたいような過去の中から、輝くモノを探してみてはどうだろうか。
ー ご高覧いただきありがとうございました。 MIYABI/辻本 ー
