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こんなSFを読んできた

哲学書を読むずっと前から、私はSFを読んでいた。振り返ってみると、世界の構造について考える楽しさは、すでにそこから始まっていたように思う。

小松左京を発見したのは中学生の頃、SFマガジンに載った『新趣向』という短編だった。うろ覚えだがたしかこんな話だった。向こうから鉄腕アトムが歩いてきて、主人公に聞く。「お茶の水博士を見かけませんでしたか?」

これはびっくりする。種を明かせば、人間世界を創造し、それを一つの劇場として楽しんでいる超知的存在が、「新趣向」で人間世界とアニメの世界を混ぜたためだった。SFとの出会い、センスオブワンダーを知った。

中高時代は、小松左京、光瀬龍、筒井康隆などを読んだ。小松は圧倒的知識で、人類・科学・宇宙を大きなスケールで描く。『果てしなき流れの果てに』、『継ぐのは誰か?』、『復活の日』。小松は、SFには、世界や人間を考える知的な面白さがあることを教えてくれた。

そして光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。ここには、私にとって初めての哲学があった。筒井康隆のスラップスティックには度肝を抜かれた。

海外SFでは、圧倒的に好きだったのが、レイ・ブラッドベリだ。『何かが道をやってくる』、『10月は黄昏の国』、『太陽の黄金のリンゴ』、『火星年代記』――。そこには、詩情と異世界への懐かしさがあった。

王道のハインライン、アシモフ、アーサー・C・クラーク。その後はホーガンの『星を継ぐもの』。皆、面白かった。さらにもっと後には、イーガンの『順列都市』。「塵理論」は難しかったが、印象に残った。

こんな経験もあった。頼住光子『正法眼蔵入門』を読んでいた時、「一水四見(いっすいしけん)」という言葉に出会った。人間にとっては飲料水であるものも、魚にとっては宮殿であり、天人にとっては瓔珞であり、鬼にとっては血膿である、という話である。

これは昔読んだクリフォード・D・シマックの『都市』に出てくる木星の生物の話と同じだなと思った。人間にとって荒れ狂う嵐のような木星の環境が、その生物にとっては美しいパラダイスのように感じられる、という話だ。その生物の身体に意識を移植され探検に出た隊員は、誰一人戻らなかった。その世界に魅せられ、人間に戻ることを拒んだのである。

「一水四見」につながる発想を、私は高校生の時すでにSFで学んでいた。

40代から50代になると、むしろファンタジーを読むことが増えた。『指輪物語』、上橋菜穂子の『精霊の守り人』シリーズ、『獣の奏者』。恩田陸の『光の帝国』。上質のファンタジーの良さと深さを知った。

そして最近は何といっても『三体』。大胆な仮定(大ぼら)の上に、リアルで、しかもぶっ飛んだ話を積み上げていく。骨太のストーリーの上に、思いがけないアイデアが次から次へと出てくる。黒暗森林の冷徹な宇宙生存戦略には、さすが中国人作家と思った。テンセント版ドラマも全30話観た。不必要に感情を煽らない着実な作りで好感が持てた。

こうして振り返ってみると、世界のもう一つの構造、あるいは隠された構造、そしてセンスオブワンダーを求める気持ちは、思索の旅と同じだったのかもしれない。

いやここが、思索の旅の出発点だったのかもしれない、と思う。


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