カツ丼完食アドバイザー
私は運命論者ではない。「ラッキーとアンラッキーは一生でプラマイゼロ。運の総量は一定」という考え方にも頷けない。しかし、カツ丼を何口で完食するかは、食べ始める前からもう、運命が決まっている。
トンカツをひと口、卵とご飯を一緒にひと口。このサイクルを崩さない。カツが5切れあれば、端から順に食べる。基本は1切れ当たり、ふた口で。最後、初めとは逆サイドの端の1切れだけは、ひと口で。これを計算すると、カツは4×2+1×1=9回、口に運ぶ計算になる。これに卵とご飯が必ず付随するため、9×2=18回となる。これは、もう私が生まれるよりももっと前に決まりきったことであり、世の理とも換言できる。味噌汁やお新香が付く場合はそれ相応の回数が加算される。つまり、盛られた時点で運命は確定しているのだ。
「ビールはひと口目がいちばん美味い」という説がある。これは何も、ビールに限った話ではないと思う。カツ丼だってそう。ひと口目に勝るものはない。だから味変をするのかもしれない。
特に私の場合、食事が後半に差し掛かるにつれて、「あと何口で完食だから、米の配分はこんなもんか」という計算に脳のリソースを割かれ、味を楽しむ余裕がなくなっている可能性がある。食事を始めたが最後、食べ終わって腹が膨れるまでの間、ほとんど気絶でもしたかのように記憶が残っていないのは、そのせいだろう。
カツのようにわかりやすく切り分けられているものでなくとも、全ての食事においてこの摂理は当てはまる。
⋯⋯と言いたいところだが、例外も存在する。
先日、妻と城崎温泉に行った。壁を埋め尽くすほどの生簀から磯の香り漂う店内で蒸し焼き蟹を注文すると間もなく、ガスコンロとフライパンがテーブルの中央にどんと置かれた。少量の水とアルミホイルの上に分解された蟹が整列している。
「8分したら蓋取ってお召し上がりください」
動画を撮影したり湯めぐりの作戦会議をしたりしながら待つこと8分。蓋を取ると芳醇な蟹の香りが目の前いっぱいに広がる。その瞬間が無限の旅の入口であった。
蟹は終わりがない。ほじればほじるだけ身が出てくる。汁も出る。身も汁も湧出しているのではないかと思うくらいに。だから計算ができない。殻によって見えないことも計算のできなさに寄与している。蟹に運命など存在しない。
これは私が蟹を食べ慣れていないということもおおいに関係しているだろう。私は蟹がそんなに好きではない。嫌いでもない。あの味は私にとって普通である。これがもしトンカツのように食べやすい状態であれば、蟹の評価も多少は変わっていたかもしれない。
煮魚も同様である。こちらについては味が好きなだけに残念でならない。食卓に箸があるにも関わらず、手や口の周りがべたべたに汚れていく。口の周りについては単に私の不器用さが悪いのだが。
いずれにしても、いつ「満腹になった!」と腹をぽんと叩いて手を合わせれば良いかのタイミングが難しすぎる。これでもまだ飽き足りないとむしゃぶり続ける様は、まるで少々丁寧なライオンにでもなったような気分である。
終わりに向けて残量を計算するという意味では、たとえば締切も同じではないかと思う。仕事にしろ、何かの賞に応募するにしろ、あらゆることは先に締切があり、それに対する逆算をして事を運ぶ。締切があるからこそ手を付けているものは大量にある。ほかにも、たとえば死があって、それに向かって終活をする。自分の終了に向けて葬式や墓の準備をする。あるいは衰弱した体で可能な限りやりたいことをやる。残された時間を逆算しながら。
カツ丼も同じではないか。食べることは、生の活動でありながら同時に、終わりゆく食事に対する終活なのだ。終息に向かう人生の中で、解釈としてラッキーとアンラッキーの総量がバランスを取っていくのと同じように、カツと米のバランスを綺麗に収束させていく。
終活アドバイザーなる存在がいるくらいだから、収束アドバイザーにでもなって食っていきたいものだ。
