フィードバックは、宝石なのか
ここ数年、フィードバックの重要性をよく耳にします。
私の職場でも、年に一度、上司へのフィードバックを行う機会があります。
社用PCから行うもので、与えられた選択肢の番号で回答します。
誰がどんな評価をしたのかは、上司にはわからない仕組みになっています。
先日の読書会では、 『insight』(ターシャ・ユーリック著)を読みました。
指定の範囲には、フィードバックを宝石にたとえる文章がありました。
「自分や、自分のチームや、自分の組織に関してうまくいっていない部分を耳にしたときは、宝石を手にしたようなものだ。もう問題は認識したのだから、それに取り組むことができる。これ以上にワクワクすることはないね。問題を認識していなかったら、それこそ本当に恐ろしい」
参加者の中には、これまでに尊敬する上司から、非常に良いフィードバックを受けてきた人がいました。その上司からのフィードバックがなければ、今の自分がないと言い切っていました。
その一方で、部署の飲み会の帰りの電車の中で、いきなり上司からダメ出しをされて、「マジうぜぇ、という気分にしかならなかった」と話す参加者もいました。
良いフィードバックや的確なコメントは、確かに宝石かもしれませんが、望まないフィードバックは単なる石ころになってしまうかもしれません。
「この人からは、絶対に何も言われたくない」という相手もいるでしょうし、「他人のことより、まず、自分をどうにかしなよ」と言いたくなる相手もいるでしょう。
一定の信頼関係がある、お互いに相手の立場をきちんと理解しているなどといった前提が揃っていないと、「宝石」の受け渡しは難しいと思いました。
また、自分の過去の経験を踏まえると、個人的には、本人の気質や性格、年齢なども、ある程度は関係するような気がします。
私は中学生の頃、数学の先生が大嫌いでした。
この先生からいろいろ言われるのは、どうにも我慢ならなかったし、テストの点数が散々だったら、最悪の気持ちになることは容易に予想できました。
なので、絶対にいい成績を取ってやると決心しました。
実際のところ、数学はかなり苦手でしたが、中学3年間は、この先生が担当だったので、とにかくがんばりました。
今は、「大嫌い」と言い切るパワーも、それを燃料にがんばる根性もないので、何を言われても、柳に風と受け流すかもしれません。
「大嫌い」のパワーは、なくなったのではなく、長い時間を経て、人として少しは成長した結果であれば、嬉しいのですが。
