二人の熱心な友の物語・ダンマパダ第1章対の章第19偈・20偈
日本語訳19偈
たとえ多くの聖典を口に語るとしても、それを実践しない怠惰な人は、他人の牛を数えている牛飼いのようなものである。彼は、出家(修行者)の利益にあずかることがない。
第20偈
たとえ聖典を口にする記述が少なくとも、法の通りに法を実践し、
貪り(執着)と怒りと無知を捨て去り、正しい知恵をそなえ、心が見事に解き放たれ、 今世(この世)にも来世(あの世)にも何ひとつ執着しない人。 彼こそは、出家(修行者)の利益にあずかる人である。
パーリ語
パーリ語19偈
Bahuṃ pi ce sahitaṃ bhāsamāno,na takkaro hoti naro pamatto; Gopo'va gāvo gaṇayaṃ paresaṃ, na bhāgavā sāmaññassa hoti.
20偈
Appam pi ce sahitaṃ bhāsamāno,dhammassa hoti anudhammacārī; Rāgañ ca dosañ ca pahāya mohaṃ, sammappajāno suvimuttacitto; Anupādiyāno idha vā huraṃ vā, sa bhāgavā sāmaññassa hoti.
スリランカのテーラワーダ仏教の注釈書(Dhammapada-Aṭṭhakathā)より。
因縁物語:二人の熱心な友の物語(Dve Sahāyakabhikkhu Vatthu)
この偈(詩)は、サッヴァッティー(舎衛城)の祇園精舎(ジェータバナ)において、**「二人の比丘(修行僧)」**をめぐってブッダが語られたものです。
1. 歩んだ道の違い:学者僧と実践僧
ある時、二人の親しい友人が揃ってブッダのもとで出家しました。
数年間、基礎的な修行を共にした後、二人はそれぞれ異なる道を選ぶことにしました。
一人の比丘(学者僧): 頭脳明晰だった彼は、ブッダの教えを理論的に学ぶ道(三蔵の暗記や経典の講究)を選びました。やがて彼は、膨大な聖典をマスターし、18のグループ(大衆)を率いて教えを説く、非常に高名な**「法師(説教者)」**となりました。
もう一人の比丘(実践僧): 彼は理論の暗記よりも、心の清浄を重視しました。ブッダから瞑想(業処)の指導を直接受けると、すぐに静かな森へと引きこもりました。そして、昼夜を問わず熱心に実践(ヴィパッサナー瞑想など)を重ね、最高位の悟りである**「アラハント(阿羅漢)」**の境地に達しました。
2. 祇園精舎での再会と、隠された「傲慢」
数年後、森で悟りを開いた比丘が、ブッダに挨拶をするために祇園精舎へ戻ってきました。
これを知った学者僧の比丘は、心の中でこう考えました。
「あの男は、森にこもってばかりで経典の知識など何もないはずだ。私が三蔵(経典・戒律・アビダルマ)に関する難しい質問をいくつか浴びせて、大勢の弟子の前で恥をかかせてやろう」
ブッダは、この学者僧が心に傲慢さを抱き、聖者である友人を侮辱しようとしていること、そしてその悪業によって彼が地獄に落ちてしまう危険性があることを見抜かれました。
3. ブッダの問いかけ
友人を守るため、そして学者僧に大切な気づきを与えるため、ブッダ自らが二人のいる場所に赴き、質問を投げかけました。
まず、ブッダは学者僧に向かって、経典の理論や教理についての質問をされました。学者僧は完璧に、流暢に答えることができました。
次にブッダは、「実際に体験しなければわからない心の段階(禅定や悟りの境地)」について質問をされました。
学者僧は、文字としての知識はあっても、自分が体験していないため、答えることができませんでした。
一方で、森の実践僧は、自分が実際に通り抜けてきた境地であるため、すべての問いに迷いなく、正確に答えることができました。
ブッダは、実践僧の答えを聞くたびに「その通りである、素晴らしい」と何度も称賛されました。しかし、学者僧への称賛はありませんでした。
4. 弟子の不満と「牛飼い」の例え
これを見ていた周囲の弟子たちは、少し不満に思いました。
「お釈迦様は、あれほど膨大な知識を持ち、多くの人々に教えを説いて貢献している学者僧の先生を褒めず、ただ森に座っているだけの比丘ばかりをなぜ褒めるのだろうか」と。
弟子たちの心のつぶやきを察したブッダは、こう諭されました。
「弟子たちよ。私のこの(学者僧の)息子は、多くの教えを他人に説いてはいるが、自分自身ではそれを実践していない。それは、毎朝、他人の牛の数を数えて賃金をもらうだけの牛飼いのようなものだ。彼は牛の数を正確に知ってはいるが、牛乳やチーズ、バターといった『牛の本当の恵み』を味わうことはできない」
一方で、もう一人の(実践僧の)息子は、覚えている経典の数は少ないかもしれない。しかし、彼は教えを自ら実践し、貪り(執着)や怒り、無知を滅ぼした。彼は、修行の本質である『聖なる果実(悟りの恵み)』をその手に入れているのだ」
そうしてブッダが語られたのが、この第19偈、第20偈です。
たとえ多くの聖典を口に語るとしても、それを実践しない怠惰な人は、他人の牛を数えている牛飼いのようなものである。彼は、出家(修行者)の利益にあずかることがない。
たとえ聖典を口にする記述が少なくとも、法の通りに法を実践し、貪り(執着)と怒りと無知を捨て去り、正しい知恵をそなえ、心が見事に解き放たれ、 今世(この世)にも来世(あの世)にも何ひとつ執着しない人。 彼こそは、出家(修行者)の利益にあずかる人である。
説法が終わる頃には、多くの人々が法眼を開き、教えの真意を理解したと伝えられています。
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このエピソードの教訓
この物語は、仏教において**「知ること(Pariyatti)」と「実践すること(Paṭipatti)」のバランス**、とりわけ「実践」の重要性を強く説いています。
どれほど仏教の知識や哲学に詳しくても、それが自分の心を清らかにするために使われなければ、それは単なる「他人の財産(牛)を数えているだけ」になってしまいます。
第19偈の対になる第20偈では、
「覚えている言葉は少なくても、教えに従って正しく実践する人は、真の利益にあずかる」
という言葉が続けられており、これがこの「対の章」の美しい締めくくりとなっています。
偈の本質的な意味(解説)
この偈は、仏教が目指す「最高の心の状態」をいくつかのキーワードで端的に表現しています。
法の通りに法を実践する(Dhammassa hoti anudhammacārī) ただ「知っている」という段階を超えて、日々の行動や心のあり方にブッダの教えを文字通り反映させて生きることです。
三毒(さんどく)の滅尽 心の汚れの根本原因である**「ラーガ(貪り・過度な欲)」「ドーサ(怒り・嫌悪)」「モーハ(無知・錯覚)」**の3つを完全に手放すことを指します。
心が見事に解き放たれ(Suvimuttacitto) あらゆる苦しみや、心の縛り(煩悩)から自由になった「解脱(げだつ)」の境地のことです。
今世にも来世にも執着しない(Anupādiyāno idha vā huraṃ vā) 「今の人生で得をしたい」という欲はもちろん、「死んだら良い天国に生まれ変わりたい」という未来への執着さえも超えて、今この瞬間の心の清浄(心の平和)に到達している状態です。
第19偈と第20偈の対比
この二つの偈を並べることで、ブッダが本当に伝えたかったメッセージがより鮮明になります。
注釈書(アッタカタ)の物語に登場した「森の実践僧」は、覚えているお経の数は少なかったものの、ブッダの言葉を自分の心で実験し、ついに「アラハント(聖者)」という最高の恵みを我が物としました。
ブッダはここで知識そのものを否定しているわけではありません。
「知識はそれを実践し、自分の心を育てるために実践して使って初めて、本物の価値(牛乳やバターのような恵み)になるのだ」
ということを、この「対の章」の最後で力強く宣言されているのです。
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ヴィパッサナー瞑想ってなに?
・2500年前ブッタが伝えた実践のための瞑想方法
ダンマパダの因縁物語の登場人物達が実際に行っている慈悲の瞑想、ヴィパッサナー瞑想のやり方を、スリランカ上座仏教アルボムッレ・スマナサーラ長老がテキストにしてまとめられた記事です。
ヴィッパッサナー瞑想 - 日本テーラワーダ仏教協会
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慈悲の瞑想

(参考書籍)
「心の清流を求めて」ダンマパダとその因縁物語全集書籍(ミャンマーの瞑想)の著者の長老が手がけておられます。
(施本)
https://kokoronoseiryu.sakura.ne.jp/sehon_info/sehon_info_main.html
(内容)
https://kokoronoseiryu.sakura.ne.jp/dp_contents/dp_1_p_dp_contents_index.html
