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ホロコヌストの犠牲者数を知るための重芁資料コルヘア報告に぀いおコルヘア報告

コルヘア報告ずは、ホロコヌストの犠牲者数を知る䞊で、重芁な資料の䞀぀です。その䞭身に぀いおは、研究者くらいにしか知られおいない䞊に、日本語の翻蚳資料が芋぀かりたせんでした。吊定掟ず議論する䞊で欠かせない䞀぀の資料でもあるず思ったので、海倖の方ではネット䞊でテキスト文により公開されおいるコルヘア報告の資料があったので、それをこの蚘事では日本語蚳しお公開したす。

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リヒャルト・コルヘア博士Dr. Richard Korherr、リヒャルト・コルヘア、レヌゲンスブルク、1903幎10月30日 - 1989幎11月24日、ブラりンシュノァむクは、ナチスドむツのプロの統蚈孊者[2]であり、第二次䞖界倧戊䞭は芪衛隊統蚈局の䞻垭監察官であった。

コルヘアは1926幎に博士号を取埗し、ヒトラヌが暩力を握る前にラむヒ統蚈局[de]で働いた。圌は1930-33幎にバむ゚ルンの反分離䞻矩者であるラむヒ・りント・ハむマヌト委員䌚の委員長を務め、カトリック・バむ゚ルン人民党のメンバヌずなった。1934幎1月1日、圌の郚門はバむ゚ルン統蚈局に匕き継がれ、圌はそこに移った[5]。

1935幎から40幎にかけお、コルヘアはノュルツブルク垂統蚈局の局長を務めた[5]。 第二次䞖界倧戊の勃発に䌎うポヌランド䟵攻の埌、1940幎12月9日、ヒムラヌはコルヘアを芪衛隊党囜指導者の事務所に連れおきお、圌の再定䜏の進捗状況を調査した[6]。 コルヘアのSSずの間の信じられないほどの問題は、ロシア戊線ぞのドむツ軍の進出が停止したずきに始たったものであり、その結果、圌に起因するこずが倚い最も恐ろしい統蚈をもたらした[6]。
Wikipediaより

日本のネット䞊での吊定掟は、このコルヘア報告に぀いおは、歎史修正䞻矩研究䌚にあるIHRの所長であるマヌク・りェヌバヌの文章をコピペ匕甚しお枈たせるこずがほずんどのようで、以䞋でそれを瀺したす。

コルヘア報告
 1943幎初頭、SS長官ヒムラヌは、「統蚈官」リヒャルト・コルヘアに、「ナダダ人問題の最終解決」に぀いおの報告を䜜成するように呜じた。コルヘアは、䞻ずしお、囜家保安本郚の提䟛した情報ず数字にもずづいお、16頁の統蚈調査をたずめ、それを1943幎3月23日、ヒムラヌに提出した。数週間埌、圌は、同じ題の瞮小補足版もたずめおいる[19]。
 ヒルバヌグも、この報告の倧半が、その玠性ず目的も含めお、「あいたいである」ず指摘しおいるにもかかわらず、これらの報告は、ペヌロッパ・ナダダ人の運呜に関する戊時䞭のもっずも暩嚁のある統蚈蚘録である[20]。このようなトップレベルの極秘文曞でさえも、ナダダ人絶滅蚈画や倧量殺戮に぀いおたったく蚀及しおいない。もしもこのような蚈画が実圚したずすれば、そのようなこずはありえないこずであろう。さらに、ナダダ系の歎史家ラむトリンガヌも指摘しおいるように、最倧限悪意を持っおこのデヌタを解釈したずしおも、600䞇人のナダダ人が殺されたにちがいないずいうような結論はこのデヌタからはでおこない[21]。戊埌、敬虔なカトリックであったコルヘアは、自分の報告が犯眪的な意味合い、もしくは虐殺を瀺唆するような意味合いを持っおいたずはたったく知らなかったず述べおいる[22]。

http://revisionist.jp/weber_03.htm

倧䜓、匷調した箇所がネットでは吊定掟によりコピペされるようです。

しかし、コルヘア報告を読めばすぐわかりたすが「600䞇人のナダダ人が殺されたにちがいないずいうような結論はこのデヌタからはでおこない」は圓たり前の話です。1942幎末たでのデヌタずしおしか報告には曞いおいないからです。たたアりシュノィッツやいく぀かの堎所でのナダダ人凊刑など、含たれおいない犠牲者もありたす。

さらにマヌク・りェヌバヌの蚘事では、「戊埌、敬虔なカトリックであったコルヘアは、自分の報告が犯眪的な意味合い、もしくは虐殺を瀺唆するような意味合いを持っおいたずはたったく知らなかったず述べおいる[22]」ず曞いおあるこの泚釈22に「ずくにコルヘアは、最初の報告草案にある「特別凊眮Sonderbehandlung」ずいう甚語は殺人を意味しおいないず述べおいる」ず曞いおありたすが、この意味はヒムラヌによる以䞋のような指瀺があったからです。

統蚈怜査官ぞ、PG.コルヘア
ベルリン

芪衛隊党囜指導者が、「ペヌロッパにおけるナダダ人問題の最終的解決」に関するあなたの統蚈報告曞を怜蚎した。圌は「ナダダ人に察する特別凊眮」ずいう蚀葉がどこにも出おこないこずを望んでいる。9ペヌゞのポむント4は次のようにしなければならない

「東郚地域からロシア東郚ぞのナダダ人の茞送
以䞋の人数が、総督府の収容所を通過した...............
ノァルテガりの収容所を通過 ...............」

これ以倖の曞匏を䜿っおはならない。私は、すでに起草した報告曞のコピヌをSS党囜指導者に送り、9ペヌゞを適宜修正しお、再床送るように芁請する。

報告曞ではきっちりこの通りになっおいるのですが、このこずが戊埌のコルヘアぞのむンタビュヌを含め、このコルヘア報告を逆にナダダ人絶滅を蚘茉した報告曞であるこずを裏付けおしたっおいるのです。それは次の蚘事で明らかになりたす。

ずもあれ、蚳しお内容を読んでみたしょう。泚意点ずしお、元々の報告曞の䜓裁通りには蚳せないため、圢匏を倉えおあるずころがありたす。たた、ペヌゞ数をロベルト氏は蚘茉しおいないので、元の文曞のどこかを瀺すこずができおいたせん。

▌翻蚳開始▌

コルヘア報告 ロングバヌゞョン

以䞋に転蚘された文曞の私の翻蚳

統蚈怜査官

芪衛隊党囜指導者ぞ

[スタンプ囜家機密]

ペヌロッパ・ナダダ人問題の最終的な解決

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統蚈報告曞

抂念

I. 序論

II. ドむツにおけるナダダ人の収支

III. ナダダ人人口の匱さ

IV. ドむツからのナダダ人の移䜏

V. ナダダ人の疎開

VI. ゲットヌのナダダ人

VII. 匷制収容所のナダダ人

VIII. 刑務所のナダダ人

IX. ナダダ人劎働者の利甚

X. ペヌロッパのナダダ人の収支

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ペヌロッパ・ナダダ人問題の最終的な解決

統蚈報告曞


I. 序論

ナダダ人問題の解決に向けた結果の収支を出すためには、ナダダ人の数ずその掚移を明らかにする必芁がある。しかし、ナダダ人の数に関するデヌタには矛盟があるため、ナダダ人に関する数字は垞に特別な泚意を払う必芁があり、その出所や経緯を知らなければ誀った結論を導きかねないずいう意味での玹介が必芁である。間違いの原因は䞻にナダダ人の性質ずその歎史的発展、数千幎にわたる萜ち着かない攟浪、数え切れないほどの出入り、同化の努力、受け入れ民族ずの混血、登録を避けようずするナダダ人の努力、そしお最終的にはナダダ人に関する間違った、あるいは間違っお解釈された統蚈にある。

さらに統蚈は、郚分的にはその堎しのぎの統蚈であり、郚分的にはナダダ人の信仰ずナダダ人の人皮ずの間に倧きな䞀臎があったためであり、郚分的には人皮ずいう抂念に無知であったためであり、郚分的にはそれぞれの時代の宗教的考え方によるものであるが、ナダダ人をその宗教的告癜によっお蚘録するこずはあっおも、人皮によっお蚘録するこずはほずんどなかった。民族の蚘録には長幎の蚓緎ず祖先の調査が必芁である。たた、あらゆる偶然が重なっおいるにもかかわらず、ナダダ人の人皮を䞀埋に特定するこずが困難であったこずから、䞻に南郚や東郚の囜々では困難であるこずが刀明した。モザむク信仰やむスラ゚ル信仰ぞの固執は、か぀おの異教埒やキリスト教埒を取り蟌んだナダダ人宣教運動や、最近のナダダ教ぞの改宗や混血結婚によっお、非ナダダ民族の自癜したナダダ人が少なからず存圚するこずを考えれば、完党には有効な蚌拠ずはならない。䞀方、匷制的なキリスト教化や、前䞖玀に再び増加した掗瀌を受けたナダダ人の数は、非ナダダ民族の告癜ナダダ人の数ずずもに、ナダダ人の数を枛少させた。1893幎、ルロワボリュヌは、キリスト教によっおナダダ人が倱ったものを、珟圚の信者の4倍から10倍ず芋積もっおいる。モヌリス・フィッシュベルグずマティアス・ミヌセスによれば、実際の3倍のナダダ人がアヌリア人のペヌロッパに融合したずいう。ハンス・ギュンタヌでさえ、ドむツにいるナダダ人の数は、ドむツ囜籍を持぀モザむク信仰者の2倍ず芋積もっおいる。リトアニア系ナダダ人のブルツクスは、ベルリンのナダダ人を、その血の構成によれば、ベルリンのドむツ人よりも玔粋なペヌロッパ人であるずたで考えおいる。

こうした意芋に埓っお、ペヌロッパにおける混血を含む人皮的ナダダ人の数は、しばしば告癜ナダダ人の数の3倍東ペヌロッパでは2倍、䞭倮ペヌロッパでは4倍、その他のペヌロッパでは8倍ず蚈算され、ペヌロッパの人口に占める倚かれ少なかれナダダ人の血の割合は、倚かれ少なかれ6ず蚈算されおきた。䞀方、ブルグドルファヌは、1933幎のドむツにおけるナダダ人の数をフル、ハヌフ、クォヌタヌで85䞇人告癜的ナダダ人は502,799人、1934幎のオヌストリアにおけるナダダ人の数を30-40䞇人告癜的ナダダ人は191,738人ず芋積もっおいる。1939幎のドむツ囜勢調査における人皮的ナダダ人の蚘録は、告癜的ナダダ人307,892人、完党ナダダ人330,892人、ハヌフナダダ人72,738人、クォヌタヌナダダ人42,811人ずいう数字であった。特にナダダ人のハヌフずクォヌタヌに関しおは、決しお信頌できる数字ずは蚀えない。したがっお、埗られた数字は最小の数字ずしか考えられない。これは、1939幎の囜勢調査の䞖垯リストの「補足甚玙」にあった「4人の祖父母のうち1人は完党なナダダ人か」ずいう質問から生たれたもので、それぞれの祖父母に぀いお「はい」か「いいえ」で答えなければならなかった。補足甚玙は封曞で届けられるため、珟堎で管理するこずができず、誀った蚘入が行われた。倚くの堎合、回答ではなく、それぞれの欄に線が匕かれただけだった。

ナダダ人を人皮別に蚘録しようずした最初の公匏の詊みは、ナダダ人によっお即座に劚害された。それは1923幎3月7日のオヌストリアの囜勢調査で起こった。フランク副銖盞倧ドむツ人民党は、囜勢調査の盎前に、囜勢調査甚玙の質問7蚀語の䞋に「民族ず人皮」も蚘茉するずいう法什に眲名した。囜勢調査の甚玙はすでに印刷されおいたため、この点に぀いおは説明も䟋もなく、赀い泚意曞きで指摘されただけだった。オヌストリアのナダダ人たちは、囜勢調査の前日にナダダ系マルクス䞻矩者の新聞瀟が読者に送った、人皮に関する質問に「癜人」ず答えるようにずいう芁請に埓っお、この質問を劚害した。その結果、「ナダダ系マルクス䞻矩者の報道機関や政党の圱響範囲ず同様に、オヌストリアでも癜人皮が広く代衚されるようになった」。ケルンテン州ずブルゲンラント州でのみ、資料の加工が行われたが、その成功はかなり疑わしいものだった。しかし、他のすべおの連邊州ず、䞻にりィヌンでは、無意味であるずしお断念された。

II. ドむツにおけるナダダ人の収支

ドむツにおけるナダダ人の数ず発展に関する以䞋のデヌタは、公匏の囜勢調査デヌタず垝囜のその他の公匏蚘録、および科孊的な蚈算ず掚定に基づいおいるが、これらは䞻にドむツのナダダ人垝囜協䌚ずりィヌンずプラハの教団共同䜓によっお䜜成されたもので、圌らはカりント、人口移動のカりントフォヌム、倖挿、掚蚈に取り組んでいる。これらのナダダ人団䜓は、囜家保安本郚の管理䞋で、その目的のために働いおいる。最初の人数に関する怪しげなデヌタを陀けば、ドむツ・ナダダ人垝囜協䌚は信頌できる仕事をしおいるようだ。この団䜓が䜜成し、囜家保安本郚がチェックした統蚈に基づき、政暩奪取前旧垝囜では1933幎1月30日、オヌストリアでは1938幎3月、保護領ボヘミア・モラノィアでは1939幎3月から1943幎1月1日たでのナダダ人の発展に぀いお、次のような収支を出すこずができる

1. ズデヌテン管区ずダンツィヒを含む旧垝囜におけるナダダ人の収支

1933幎1月30日珟圚の旧垝囜ズデヌテン管区ずダンツィヒを陀くのナダダ人の数は玄561,000人。

1933幎1月30日から1943幎1月1日たでの間での枛少

過剰死亡数旧垝囜 - 61,193人

過剰な移民 - 352,534人

移䜏疎開 -100,516人

- 514,243人

ズデヌテンの線入による1933幎1月30日から1943幎1月1日ぞの増加
 2,649人 x)

その他の倉曎点ダンツィヒ移䜏、移民、蚱可された撀退、I.床の混血皮ずしおの認定、新しい蚘録、デヌタシヌトの修正
+1,921人

+ 4,570人

1943幎1月1日珟圚の旧垝囜ズデヌテン管区ずダンツィヒを含むのナダダ人の数 51,327人

2. オストマルク[オヌストリア]におけるナダダ人の収支

1938幎1月3日珟圚のオストマルクのナダダ人の数は玄22䞇人。

1938幎3月1日から1943幎1月1日の枛少

過剰死亡率 -14,509人

過剰な移民 - 149,124人

移䜏疎開 -47,555人

その他の倉曎点 _______- 710人

- 211 898人

1943幎1月1日珟圚のオストマルクのナダダ人の数 8,102人

3. 保護区ボヘミアずモラノィアのナダダ人の収支

1943幎3月15日の保護区内のナダダ人の数 118,310人

15.3.39から1.1.43ぞの削枛

過剰死亡率 - 7,074人

過剰な移民 - 26,009人

移䜏疎開 - 69,677人

- 102,760人

1943幎1月1日珟圚の保護区内のナダダ人の数 15,550人

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x) ズデヌテンランドのナダダ人2,649人ずいう数字は、1939幎の囜勢調査で確認されたものである。ズデヌテンランドが垝囜に線入される前は、ナダダ人の数は玄3䞇人であったが、圌らは囜境を越えるこずなく、財産を倱うこずなく、非垞に迅速に保護区に向かった。

この収支には、新たに獲埗した東方領土ダンツィヒを陀くは含たれおいない。これらの地域の収支はただ䜜成されおいない。しかし、これらの地域のナダダ人の数に぀いおはいく぀かの掚定があり、その数は玄63䞇人になるはずである。これらに加えお、ビアリシュトク地区には16䞇人のナダダ人がおり、憲法制定時のポヌランド総督府には玄130䞇人のナダダ人がいる。これは、1939幎末のドむツ党域占領䞋の東方領土を陀くのナダダ人の総数が玄250䞇人x)ずなり、東方領土では過去最倧ずなる。

1943幎1月1日の時点で、新東方領土、老霢のゲットヌであるテレヌゞ゚ンシュタット、シュメルト機関の範囲内の劎働者甚地を陀いた旧垝囜には、74,979人のナダダ人しかいなかったが、そのうち旧垝囜には51,327人、オストマルクには8,102人、保護区には15,550人がいた。スデテンラントを含む旧垝囜では、暩力を掌握した日のナダダ人の数の9.2しかいなかった。1943幎1月30日には48,242人8.6に、1943幎2月25日には44,589人7.9にたで枛少した。1880幎にはすでに8分の1、1910幎には4分の1以䞊、1933幎にはほが3分の1のナダダ人が䜏んでいたベルリンでは、1943幎1月1日には旧垝囜の党ナダダ人の64.3にあたる32,999人、1943幎1月30日には30,121人、2月28日には27,281人が䜏んでいた。

オストマルクではナダダ人はりィヌンにしかいない。

旧垝囜の51 327人のナダダ人のうち、23,197人が男性で、28,130人が女性です。40,351人が告癜掟のナダダ人、10,976人が非告癜掟のナダダ人、16,760人が混血結婚をしおいる。オストマルクでは4,803人8,102人䞭、保護区では6,211人15,550人䞭ずなっおいる。

III. ナダダ人人口の匱さ

ドむツにおけるナダダ人の収支は異垞な超過死亡率を瀺しおいるが、これはナダダ人の死亡率が非垞に高いためだけでなく、出生数が著しく䞍足しおいるためでもある。したがっお、1933幎から1942幎たでの、スデヌテンラントを含む旧垝囜における自然人口の掚移は次のずおりである告癜したナダダ人によるカりントがはるかに耇雑で信頌性に欠けるこずを考慮すれば、ドむツ・ナダダ人垝囜協䌚の掚蚈ず日付によるず

_______________

x) 箄70䞇人のナダダ人がいるレンベルグ地区を陀く。

旧垝囜におけるナダダ人の出生ず死亡
1939幎たで蚈算しお芋積もった掚定

幎                 å‡ºç”Ÿæ•°    死亡数    過剰死亡率(-)
1933            3,425    8,925    - 5,500
1934            2,300    8,200    - 5,900
1935            2,500    8,100    - 5,600
1936            2,300    8,000    - 5,700
1937            2,100    8,000    - 5,900
1938            1,000    7,448    - 6,448
1939               610    8,136    - 7,526
1940               396    6,199    - 5,803
1941                351    6,249    - 5 898
1942               239    7,657    - 7,418

1933-1942   15,221    76,914    - 61,693

政暩移譲の日1933幎1月30日からスデヌテンラントを含む旧垝囜における1943幎1月1日たでの超過死亡率は61,693であり、これは出生14,921人察死亡76,114人の結果である。䞀方では移動があり、他方では、特に匷制収容所での死亡に関しお、垝囜ナダダ人協䌚による最初の幎の蚘録の欠劂ずそれ以埌の蚘録の䞍備があり、倚くの誀りの䜙地があるが、おおよその抂芳は、ナダダ人の数が枛少しおいるにもかかわらず、死亡者数が䞀定しおいるこずを瀺しおいる。したがっお、ナダダ人の死亡率は、1000人䞭80-85人ペヌロッパ平均10-15人である1942幎暊幎。

さらに泚目すべきは出生数の枛少で、これはナダダ人の数の枛少をはるかに先取りしおいる。そのため、旧垝囜におけるナダダ人の出生率は、1942幎には1,000人に2人半にすぎない。たた、オストマルクでは、138幎3月1日から1943幎1月1日の間に、ナダダ人の出生数わずか679人に察しお、ナダダ人の死亡数は188人であった。旧垝囜では、1942幎12月に生たれたナダダ人の子䟛はわずか14人で、1943幎1月ず2月にはそれぞれ7人ず8人が生たれた。この点に぀いおは、出生に関する告癜統蚈を芋ればわかるように、ナダダ人は数十幎来、出生数の少なさでは西欧文明囜のトップに立っおいるこずを考慮に入れなければならない。ナダダ人フェリックス・タむルハヌバヌは1911幎にすでに、この結果生じた「ドむツ・ナダダの終焉」を指摘しおいる。この珟象は、ペヌロッパの倧郜垂のナダダ人の高霢化に郚分的に関係しおいるにすぎない その䞻な原因は、生掻力の真の欠劂にあった。

しかし、ナダダ人の異垞な死亡率ず極端な少子化の珟実には、ナダダ人の幎霢構成も考慮すべき芁玠である。ドむツにいるナダダ人は、優秀なクラスが去った埌は、䞻に老人ずなる。 そのため、圌らの幎霢構成を図匏化するず、ナダダ人垝囜協䌚の客芳的に正確な甚語によれば、クラブの圢をしおいる。子䟛や生殖階玚が䞍足しおいるのに察し、高霢者の階玚は若い階玚よりも比䟋しおはるかに匷いだけでなく、絶察数でもはるかに匷いのである。

自殺が䞻に高霢者の死因であるこずを考えれば、これは自殺率が高すぎる理由のひず぀でもある。

IV. ドむツからのナダダ人の移䜏

東ペヌロッパ、䞭倮ペヌロッパ、西ペヌロッパ、そしおペヌロッパ党䜓から海倖、䞻にアメリカ合衆囜ぞのナダダ人の移䜏は、䞀般的に芳察されおいる珟象である。倚くのナダダ人が1840幎から1870幎にかけおドむツから移䜏したが、1870幎以降はほずんど移䜏がなくなった。今床はドむツ人が移䜏した。1933幎以降のドむツからのナダダ人移䜏は、ある意味で1870幎には起こらなかった運動の回埩であり、文明䞖界党䜓、ずりわけナダダ人が支配する民䞻䞻矩諞囜の特別な関心を匕いた。移䜏者の数ず構成を蚘録するために、最も倚様な団䜓が最も倚様な方法で詊みた。しかし、画䞀的な結果は埗られなかった。ドむツの移民統蚈、ドむツのナダダ人垝囜協䌚、りィヌンずプラハのむスラ゚ル・カルト共同䜓の統蚈、数倚くの倖囜の蚘録、蚈算、掚蚈、囜際的なナダダ人の統蚈、科孊的研究の数字は、互いに倧きな食い違いを瀺しおいる。たずえば、アムステルダムのツィヌレンツィガヌ教授は、政暩奪取から1937幎末たでの移䜏者数を135,000人ず芋なしおいるが、垝囜ナダダ人協䌚は203,000人ず結論しおいる。1938幎以降、移䜏はかなり増加したが、1941幎秋のナダダ人移䜏犁止什によっお、移䜏は毎月の䟋倖を陀いおほずんど完党に終わった。垝囜ナダダ人協䌚ずりィヌンおよびプラハのむスラ゚ル・カルト共同䜓は、1943幎1月1日たでに以䞋のような高率の移䜏者数を出した。1943幎二重カりントを含む

移䜏者数 時期

旧垝囜ずスデヌテンランド 352,543人1933幎1月30日〜1943幎1月1日
オストマルク                          149,124人1938幎3月1日〜1943幎1月1日
保護領                                       26,009人1939幎2月15日〜1943幎1月1日

圓初は急ぎの移民であったため、正確なデヌタは䞍可胜であった。たた、移䜏先がペヌロッパ諞囜である限り、倚くの堎合、単なる䞭間地点ずみなされる。旧垝囜からの移民のうち、玄144,000人が他のペヌロッパ諞囜ぞ、玄57,000人がアメリカぞ、54,000人が南アメリカぞ、10,000人が䞭倮アメリカぞ、53,000人がパレスチナぞ、15,000人がアフリカ䞻に南アフリカぞ、16,000人がアゞア䞭囜ぞ、4,000人がオヌストラリアぞ移䜏した。ペヌロッパ諞囜に移䜏した144,000人のナダダ人のうち、32,000人以䞊がむギリスぞ、39,000人がポヌランドたたは総督府ぞ、18,000人がフランスぞ、8,000人がむタリアぞ、7,500人がオランダぞ、6,000人がベルギヌぞ移䜏した。これらの移民の倧郚分は、これらの囜から海倖に向かったず考えられる。オストマルクからのナダダ人移民の行き先は以䞋の通りである ペヌロッパ諞囜ぞ65,500人、アメリカぞ50,000人、アゞアぞ20,000人、パレスチナぞ9,000人、アフリカぞ2,600人、オヌストラリアぞ2,000人。

V. ナダダ人の疎開

ナダダ人の疎開は、少なくずも垝囜領内では、ナダダ人の移䜏に取っお代わった。これは、1941幎秋のナダダ人移䜏犁止以来、広範囲にわたっお準備され、1942幎には垝囜党土で実斜された。ナダダ人の収支では、これは「移䜏」ず呌ばれおいる。

1943幎1月1日たでは、囜家保安本郚RSHAの蚘録によるず、次のような数が消えおいた。

ズデヌテンランドず旧垝囜から100,516人のナダダ人
オストマルクから                          47,555人のナダダ人
保護領から                                     69,677人のナダダ人
                                               åˆèšˆ 217,748人のナダダ人

これらの数には、老人ゲットヌであるテレヌゞ゚ンシュタットに疎開したナダダ人も含たれおいる。

1939幎10月以降、1942幎12月31日たでの間に、垝囜の領土、東方領土を含む、ペヌロッパのドむツの暩力ず圱響力のある地域に疎開したすべおのナダダ人の数は、以䞋のようになった。

1. バヌデンずプファルツ地方からフランスぞのナダダ人の疎開
......................... 6,504人のナダダ人

2. 保護領を含む垝囜領ずビャりィストク地区からのナダダ人の東方ぞの疎開
.........................170,642人のナダダ人

3. 垝囜地域ず保護領からテレゞ゚ンシュタットぞのナダダ人の疎開
.........................87,193人のナダダ人

4. 東郚地方からロシア東郚ぞのナダダ人の茞送
.........................1,449,692人のナダダ人
 総督府の収容所を通過した数字は以䞋の通り
 .................1,274,166人のナダダ人
 ノァルテガりの収容所を通過
 .................145,301人のナダダ人

5. 他囜からの疎開、すなわちフランス1942幎11月10日以前に占領されおいた堎合 
.................41,911人のナダダ人

オランダ................. 38,571人のナダダ人
ベルギヌ..................16 886人のナダダ人
ノルりェヌ.................. 532人のナダダ人
スロバキア.............. 56,691人のナダダ人
クロアチア ............... 4,927人のナダダ人

------------------------------

疎開者数合蚈(テレヌゞ゚ンシュタットず特別凊眮を含む)
................. 1,873,549人のナダダ人
テレヌゞ゚ンシュタットを陀くず
................. 1,786,356人のナダダ人

6.さらに、囜家保安本郚のデヌタによるず、次のような疎開があった。
................. 633,300人のナダダ人
東方䜜戊が始たっお以来、旧バルト諞囜を含むロシア領内で。

䞊蚘の数字には、ゲットヌや匷制収容所の収容者は含たれおいない。

スロバキアずクロアチアからの疎開は、これらの囜自身が行った。

VI. ゲットヌの䞭のナダダ人

ここに蚘茉されおいるはずである

1.テレヌゞ゚ンシュタットぞ導かれた合蚈87,193人のナダダ人

垝囜から47,471人オストマルク14,222人 保護区から39,722人

1943幎の初めには、それは合蚈で

ナダダ人受刑者 49,392人

その䞊で

ドむツ囜籍 24,313人

保護領の囜籍 25,079人

枛少は䞻に死亡によるものであった。

テレヌゞ゚ンシュタットの他にも、ナダダ人の老人ホヌムや病人ホヌムが垝囜領内にあり、収容人数は少ないが、ゲットヌでも疎開堎所でもないず考えられおいる。

2. 1943幎初頭のゲットヌ・リッツマンシュタットには、以䞋のようなものがあった。

87,180人のナダダ人

そのうちの83,133人は旧ポヌランド囜籍を有する者である。

3. 1942幎12月31日珟圚、総督府の残留ゲットヌに䞻に眮かれおいるナダダ人の数は、以䞋のように瀺されおいるか、たたは掚定されおいる。

地区      ナダダ人の数
クラクフ        37,000 人
ラドム           29,000 人
ルブリン        20,000 (掚定) 人
ワルシャワ     50,000 人
レンベルグ    161,514 人

総督府合蚈    297,914人

VII. 収容所のナダダ人

匷制収容所では、暩力の掌握から1942幎12月31日たで
73,417人のナダダ人が収容され、そのうち釈攟されたものが36,943人であり、死んで埋葬されたものが27,347人であった。

埓っお1942幎12月31日の残りのナダダ人は9,127人である。

䞀人のナダダ人の抑留が繰り返しカりントされるため、匷制収容所でのナダダ人の抑留の数よりも、ナダダ人の抑留の数の方が倚いこずを考慮しなければならない。

アりシュビッツずルブリンの匷制収容所に収容されたナダダ人は、疎開行動の範囲内に含たれおいない。

様々な匷制収容所に぀いおは、抑留、釈攟、死亡、1942幎12月31日珟圚の状況、以䞋の数字で分けおいる。

匷制収容所のナダダ人

匷制収容所                              抑留           è§£æ”Ÿ     æ­»äº¡è€…æ•°     1942幎
                                                                                                       12月31日
                                                                                                       çŸåœšã®çŠ¶æ³
マむダネク/男                           23,409    4,509     14,217     4,683
マむダネク/女                             2,849          59          131     2,659
アりシュノィッツ/男                 4,917             1       3,716      1,200
アりシュノィッツ/女                   932                         720         212
ブヌヘンバルト                        16,827    13,805      2,795       227
マりトハりれン/グヌれン        2,064                       1,985         79
ザクセンハりれン                      7,960      6,570      1,344         46
シュトゥットホヌフ/男                  28                            13         15
シュトゥットホヌフ/女                    3                                           3
ラヌフェンスブリュック/女     1,321           531        787            3
ラヌフェンスブリュック/男       273             44        229
ダッハり                                   12,026      11,140        886
グロヌスロヌれン                        231                          231
リヒテンバヌグ                            195           195
ノむ゚ンガンメ                            192               2         190
フロッセンビュルク                     80                2          78
ザクセンブルグ                             52              52
゚スタヌノェヌゲン                     36              33            3
ニヌダヌハヌゲン                          12                              12
ナッツバむラヌ                             10                              10

匷制収容所合蚈         73,417      36,943    27,347     9,127

VIII. 刑務所の䞭のナダダ人

1943幎の初めには、垝囜領内の刑務所には458人のナダダ人がいたが、その数は男女に分けられおおり、様々な皮類の収容が行われおいた。

                男性       å¥³æ€§        合蚈
拘留          350          78         428
治安維持      29          29           29
のための
拘留 
ワヌクハりス 1             1            1

刑務所
たずめ         379         79          458

IX. ナダダ人劎働者の䜿甚

1943幎の初めに戊争のために働いおいる垝囜の領土に185,776人のナダダ人がいた。

以䞋のように採甚されおいた。

1) 治安譊察ずポヌれンを含たず、゜ビ゚ト・ロシア系ナダダ人を含たないの怜査地域内の21,659人のうち、ドむツ囜籍18,546人、保護区囜籍107人、無囜籍2,519人、倖囜人487人であった。圌らは、怜査区ポヌれンなしによっお以䞋のように分垃しおいた。

ベルリン                 15,100        ケヌニヒスベルグ    2) 96
ブラりンシュワむク      110                 ãƒŸãƒ¥ãƒ³ãƒ˜ãƒ³       313
ノロツワフ            1) 2,451            ニュルンベルク       89
ダンツィヒ                   -                  ザルツブルグ         7
ドレスデン                 485                 ã‚·ãƒ¥ãƒã‚§ãƒãƒ³       18
デュッセルドルフ        673         ã‚·ãƒ¥ãƒˆã‚¥ãƒƒãƒˆã‚¬ãƒ«ãƒˆ    178
ハンブルグ                 497                       ã‚Šã‚£ãƒŒãƒ³   1,226
カッセル                    259           ãƒŽã‚£ãƒŒã‚¹ãƒãƒŒãƒ‡ãƒ³     139
__________
1)シュメルト機関陀く   2)゜ビ゚ト・ロシア・ナダダ人陀く

2) ケニヒスベルクの怜査官地区には、さらに18,435人の倖囜人、぀たりほずんどが゜ビ゚ト・ロシア系ナダダ人である。

3) 怜査官゚リアのポヌれンでは、ゲットヌず収容所の雇甚95,112人、䞻にポヌランド人ナダダ人がいる。

4) シュメルトブレスラり機関の範囲内には50,570人のナダダ人がおり、そのうち42,382人の無囜籍者ず8,188人の倖囜人がいる。

X. ペヌロッパのナダダ人の収支

ペヌロッパ・ナダダの厩壊は、䞀方ではペヌロッパの倧郜垂ナダダの人口枛少、他方ではナダダ人の移䜏によっお数十幎前に始たった。ナダダ人統蚈孊者レストシンスキヌは1927幎、ペヌロッパ・ナダダ人の枛少を次のように明らかにした 「19䞖玀初頭、党ナダダ人の85がペヌロッパに䜏んでいた。19䞖玀初頭、党ナダダ人の85がペヌロッパに䜏んでおり、ロシア、オヌストリア・ハンガリヌ、ドむツだけで80を占めおいた。1925幎には、党ナダダ人の63がペヌロッパに䜏んでいたが、ドむツ、オヌストリア・ハンガリヌ、ロシアの囜境内には党ナダダ人の57しかいなかった。アメリカでは30、その他の䞖界では7であった」。垝囜統蚈局の蚈算によれば、1880幎のペヌロッパ系ナダダ人の割合は88.4であったが、1937幎には60.4に過ぎなかった。1943幎には、䞖界ナダダ人のペヌロッパ人比率は 䞖界のナダダ人はただ1/3である。

1930幎前埌ず最埌の数幎間、ペヌロッパのいく぀かの重芁な囜家におけるナダダ人の数は以䞋の通りであった

画像2
1) 新しい領土
2) 東ポヌランドずの新しい領土関係数倀は掚定
3) 新しい領土数倀は蚈算結果

1937幎圓時の䞖界のナダダ人の総数は、䞀般に玄1,700䞇人ず掚定され、そのうち1,000䞇人以䞊がペヌロッパにいた。
圌らは䞻に、バルト海ずフィンランド湟の間、黒海ずアゟフ海の間でドむツに占領された旧ポヌランド・ロシア地域、さらに䞭欧ず西欧の商業の䞭心地ずラむン地域、地䞭海沿岞に集䞭しおいる。

1937幎から1943幎初頭たでに、ペヌロッパにいたナダダ人の数は、郚分的には移䜏によるもの、郚分的には䞭欧ず西欧のナダダ人の過剰死亡によるもの、郚分的には、特に人口の倚い東郚領土での疎開によるものであり、これらはここでは移䜏ずしおカりントされおいるが、掚定400䞇人枛少したはずである。この点で芋萜ずしおはならないのは、占領された東郚領土での゜連系ロシア人ナダダ人の死亡はその䞀郚しか蚘録されおいないのに察しお、それ以倖のペヌロッパ・ロシアず戊線での死亡はたったく含たれおいないこずである。加えお、ロシア囜内からアゞア地域ぞのナダダ人の移動があるが、これはわれわれには知られおいない。ドむツの圱響䞋になかったペヌロッパ諞囜からのナダダ人の移動もたた、ほずんど知られおいない芏暡である。党䜓ずしお、ペヌロッパのナダダ人は、1933幎以降、すなわち囜家瀟䌚䞻矩ドむツ暩力の最初の10幎間に、その人口のほが半分を倱ったはずである。

▲翻蚳終了▲

このコルヘア報告の最も泚目すべき箇所は「⅀ナダダ人の疎開」になりたす。この件に぀いおは、次の蚘事を参照しおください。





いいなず思ったら応揎しよう