主体であろうとする覚悟
人間は弱い。
これは非難ではなく、観察である。
人は飢えに耐えられる。
寒さにも、病にも、貧困にも、案外しぶとく耐える。
歴史がそれを証明している。
それでも人は、耐えなくてよい道があるなら、そちらを選ぶ。
それは卑怯でも堕落でもなく、生き物としての自然な身振りだ。
だが、そこに一つだけ、取り返しのつかない代償がある。
自分が何者であるかを、自分で決めないまま生きてしまうことだ。
『おしん』の幼少期が、あれほど多くの人の胸に刺さったのは、
貧しさの描写が苛烈だったからではない。
人が人であるための、ほとんど最後の一線が、
あまりにも静かに、しかし正確に描かれていたからだ。
奉公先のばあちゃんは、おしんを救わなかった。
助けなかった。
ただ、話を聞いた。
事情を聞き、理不尽を理不尽として扱い、
力の強い側に安易に与しなかった。
それだけの行為が、
一人の子どもを「物」から「人間」に引き戻した。
このとき、おしんは決めた。
なにがあっても、この人についていこう。
この決意は、感情ではない。
信仰に近い。
だがそれは、神を信じる信仰ではない。
人間が人間であろうとする、その姿勢そのものへの信仰だ。
人は弱い。
だからこそ、人は依存する。
依存は一時の安らぎを与えるが、
同時に、自分の尊厳を他人の手に委ねる。
そこには、必ず小さな自己嫌悪が沈殿する。
それを人は「心が汚れる」と言う。
実に正確な言葉だと思う。
飢えは苦しい。
一日一食は苦しい。
吸い殻を吸うほどの境遇は、筆舌に尽くしがたい。
だが、その極限で人は時に気づく。
自分はまだ、自分の人生の主体でいると。
貧困も、病も、不幸ではある。
しかし真の不幸ではない。
真の不幸は、
「選ばないこと」
「決めないこと」
「自分であることを放棄すること」だ。
『おしん』を見て人が泣くのは、
あの時代の悲惨さに同情しているからではない。
画面の中に、
本来の自分の、まだ汚れていない輪郭を見てしまうからだ。
人間は惰弱だ。
その美を生きる覚悟を、すぐには決められない。
だから多くの人は、
便利さや曖昧さの中で、
あの光から目を逸らして生きる。
それは責められるべきことではない。
だが、残念ではある。
なぜなら一度でも、
人が人として立つ姿を本気で見てしまった者は、
それを、完全に忘れることができないからだ。
あの目。
剣山の上に座らされながらも、
世界を見捨てていない目。
あれは理想ではない。
英雄でもない。
誰の中にも、かつて確かにあった、当たり前の姿だ。
『おしん』が国民の半分に見られた時代、
人々は一斉に、それを思い出してしまった。
それが、あの数字の正体だろう。
人は弱い。
だが同時に、
思い出せてしまうほどには、偉大なのだ。

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