大きくなりすぎた帝国は、全部を守れない――カール5世とハプスブルク家の頂点
おはようございます。長坂総研です。
ハプスブルグ家の3回目です。
今回は、頂点に達したハプスブルグ家と、その後の分裂を見ていきます。
大きくなった国家や帝国が、相続や統治の問題によって分かれ、そこから弱体化していく例は歴史上何度もあります。
もちろん、分裂する理由はそれぞれ違います。
それでも、巨大なものを巨大なまま維持することが難しい、という例はいくらでもある。
ハプスブルグ家も、その例から外れることはありませんでした。

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婚姻と相続によって拡大してきたハプスブルク家は、カール5世の時代、ヨーロッパから新大陸までつながる巨大な支配圏を持つようになった。
しかし、領土が増えるということは、資産が増えるだけではない。
守る場所も増える。交渉する相手も増える。そして敵も増える。
巨大化によって得た力が、そのまま巨大な負担へ変わっていった。
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カール5世に集まった巨大な遺産
前回は、ハプスブルク家が婚姻によって権利を作り、それを外交や軍事によって現実の支配へ変えていった過程を見た。
その成果が一人の人物に集まったのが、カール5世である。
父フィリップ美公を通じてブルゴーニュ系諸領、祖父マクシミリアン1世からはオーストリア系の権利、母フアナからはカスティーリャやアラゴンなどへの継承権を受け継いだ。
1519年にはローマ王に選ばれ、1530年には教皇から皇帝冠を受ける。
こうしてスペイン諸王国、ネーデルラント、オーストリア系領土、イタリアの諸領、さらに拡大していく新大陸の支配圏まで、ハプスブルク家は世界帝国的な広がりを見せるようになった。
カール5世の時代は、その象徴的な頂点だったと見ていいだろう。
しかし、ここから問題が始まる。
領土を持つということは、守るということ
前回見たように、ハプスブルク家の支配地は一枚につながっているわけではない。
スペイン、ネーデルラント、オーストリア、イタリア。
それぞれ離れている。
しかも、それぞれが同じ制度で動いているわけでもない。
領土を増やせば、そこから税や兵力を得られる可能性は増える。
しかし、その土地を守る責任も増える。
婚姻や相続によって新しい地域の君主になった以上、外敵が来たときに、
「そこは遠いから知りません」
とは言えない。
支配する権利を引き受けることは、その地域を守る義務まで引き受けることでもある。
領土は資産である。
同時に負債でもある。
ハプスブルク家が巨大になるほど、その両方が増えていった。
西にはフランス
西ではフランス王フランソワ1世と激しく争うことになる。
フランスから見れば、南西にはスペイン、北東にはネーデルラント、東方にはハプスブルク勢力がある。
完全な包囲ではないにしても、かなり嫌な配置である。
特にイタリアをめぐって両者は何度も戦った。
1525年、パヴィアの戦いではカール側が大勝し、フランソワ1世本人を捕虜にする。
ここまでやれば普通は、
「フランス問題は終わった」
と思いたくなる。
しかし終わらない。
フランスは再び反ハプスブルク勢力をまとめ、戦争を続ける。
大国は、一回負けただけでは消えてくれない。
東ではオスマン帝国
その間に、東でも大きな問題が起きる。
1526年、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世がモハーチの戦いでオスマン帝国に敗れ、戦死した。
ラヨシュの姉アンナは、カール5世の弟フェルディナントに嫁いでいた。
ここでも前回と同じ構造が出てくる。
婚姻が、ハンガリー王位を主張する根拠になる。
しかし、権利を主張したからといって、そのまま王位を取れるわけではない。
別の王位候補も存在し、そこへオスマン帝国まで絡んでくる。
1529年には、オスマン軍がウィーンを実際に包囲した。
結婚によって新しい権利を得た。
その結果、新しい敵まで近づいてきたのである。
内部では宗教改革
さらに神聖ローマ帝国内では宗教改革が進んでいた。
カール5世はカトリック君主である。
宗教的にも政治的にも、帝国内を安定させたい。
しかし、ここでも簡単には動けない。
オスマン帝国と戦うためには、帝国内の諸侯から兵力や財政上の協力を得る必要がある。
その中にはプロテスタント諸侯もいる。
宗教問題を力で押さえ込もうとすれば、対オスマン戦で必要な協力を失うかもしれない。
だから妥協する。
しかし妥協している間に、プロテスタント勢力は広がっていく。
フランスとの戦争。
オスマン帝国への対応。
帝国内部の宗教対立。
一つに集中しようとすると、別の問題が悪化する。
全部を相手にしなければならない
国家にも人間にも、処理能力には限界がある。
問題を一つずつ片づけられるならまだいい。
しかし、複数の危機が同時に進めば、軍事力も財政も外交も分散する。
しかもカール5世の支配地域は、一つの中央政府が好きなように資源を動かせる国家ではなかった。
スペインにはスペインの制度がある。
ネーデルラントにはネーデルラントの制度がある。
神聖ローマ帝国では諸侯との交渉が必要になる。
資源はある。
しかし、それを必要な場所へ自由に動かせるわけではない。
巨大だから弱いのではない。
巨大な領域で複数の問題を同時に処理しなければならなくなったとき、弱体化の条件がそろい始める。
カール5世は、その難しさに直面した。
大きくなった国が分かれる話は、珍しくない
歴史を見ると、大きくなったあとに分裂した国家はいくつもある。
アレクサンドロス大王の帝国。
カール大帝のフランク王国。
モンゴル帝国。
ローマ帝国。
もちろん、分かれた理由はそれぞれ違う。
後継争いもあれば、相続制度もある。統治上の理由から分けた例もある。
ここでその違いまで詳しく分析するつもりはない。
ただ、巨大な政治体を、そのまま一人、一つの仕組みで永遠に維持するのが難しい例は、歴史上いくらでも見つかる。
カール5世のハプスブルク家も、その一つだった。
最後は二つのハプスブルクへ
もっとも、カール5世の時代に突然すべてを二つに分けたわけではない。
弟フェルディナントはすでにオーストリア系領土の統治を担い、1531年にはローマ王にも選ばれていた。
つまり、広すぎる支配領域を分担して統治する仕組みは、かなり前から始まっていた。
1555年から1556年にかけてカール5世が段階的に退位すると、その分担がさらに明確になる。
スペイン、ネーデルラント、イタリア方面などは息子フェリペ2世へ。
オーストリア系領土と帝国側の立場は弟フェルディナントへ。
ここからハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系の二つの大きな流れへ分かれていく。
これは単純な崩壊ではない。
大きくなりすぎたものを、統治できる単位へ分け直したとも見ることができる。
頂点で、限界も見えた
カール5世の時代、ハプスブルク家は世界帝国的な規模へ達した。
しかし、その大きさによって、それまで見えにくかった問題も表面に出た。
支配地が増えれば、防衛する場所が増える。
権利が増えれば、義務も増える。
敵が増えれば、一つの問題に集中できなくなる。
そして地域ごとに制度が違えば、持っている資源さえ自由には使えない。
ハプスブルク家は、巨大化したから直ちに衰退したわけではない。
しかし、
巨大化したことで、巨大なまま維持することの難しさが見えてきた。
カール5世の時代は、ハプスブルク家の頂点であると同時に、その限界が見え始めた時代でもあった。
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