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文芸時評的ブックガイド(2026年6月)

この記事のテーマは奇妙クィアだ。「変態」と訳すこともできるだろう。私自身が(研究者としての本名で)翻訳した著作が男性の同性愛にかかわるものであったため、昨年から「クィア」関連の本をいくつか読んだ。

今回はそんな本を、ここ数ヶ月の文芸誌で発表された文章と関連させながら紹介しつつ、最終的には小説家・琴峰ことみの近作をとりあげる。ただし、それぞれのセクションできるだけ独立して読めるようになっている。


この記事でとりあげる作品などの一覧

  • 古怒田望人/いりや [単行本]『クィア・レヴィナス』(青土社, 2025年)

  • 東浩紀 [単行本]『郵便的不安たち』(朝日新聞出版, 1999年)

  • 周司あきら・高井ゆと里 [新書]『トランスジェンダー入門』(集英社新書, 2023年)

  • 荒木優太 [新書] 『内田樹の時代』(在野研究社, 2026年)

  • 鵜飼哲・浅田彰 [対談]「ジュネを再発見する」「批評空間」第II期14号133-157頁(太田出版, 1997年)

  • ルイ=フェルディナン・セリーヌ [単行本]『ロンドン』(森澤友一朗訳, 幻戯書房, 2026年)

  • 青木耕平 [書評] 「多少の非難は覚悟して、 フェルディナンを抱きしめる──若い読者のためのセリーヌ『ロンドン』」「文學界」2026年5月号214-219頁(文藝春秋社, 2026年)

  • 浅田彰・千葉雅也 [対談]「私とは一個の他者である──トランプ時代のクィア・セオリー」「新潮」2026年5月号163-175頁(新潮社, 2026年)

  • 蓮實重彥・工藤庸子 [往復書簡風論考]「対話」 第六回:「「ケア」という語彙の氾濫ぶりに......」「群像」2026年4月号178-190頁(講談社, 2026年)

  • 中沢忠之「見たいものしか見たくない時代の文芸コラム(第十一回)」 「文学+WEB版」

  • 李琴峰 [評論]「これからの「日本文学」のために──日本文学のクィア表象について」前編「小説トリッパー」2025年秋季号252-273頁, 後編「小説トリッパー」2026年冬季号261-288頁(朝日新聞出版, 2025年)

  • 李琴峰 [小説]「懊悩の子」(「小説トリッパー」2026年春季号6-32頁)

  • 李琴峰 [文庫]『生を祝う』(朝日文庫, 2026年)

  • 市川沙央 [単行本]『ハンチバック』(文藝春秋, 2023年)

  • 荒井裕樹・市川沙央 [往復書簡]「世界にとっての異物になってやりたい」「文學界」2023年8月号(文藝春秋, 2023年)

  • ショーン・フェイ [単行本]『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』(高井ゆと里訳, 清水晶子解説, 2022年)

  • 李琴峰 [単行本]『言霊のさきわう国で』(筑摩書房, 2024年)

古怒田こぬた望人あさひ/いりやのレヴィナス論から…

古怒田望人/いりや(以下では「古怒田」)の著作『クィア・レヴィナス』は、昨2025年に発売された。フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスは、第2次世界大戦後のユダヤ思想や倫理学に大きな影響を与えた。レヴィナスを常道から外れてクィア読むとはどういうことか? それは、レヴィナス思想の本筋として認識されてこなかった様々な側面やアイデアをあえて視界に浮上させるような解釈のことだ。

『クィア・レヴィナス』については、すでに書評や、川村のどかによる踏み込んだ読解なども発表されている。

私自身はとくに、レヴィナスによるマルセル・プルースト『失われた時を求めて』についての議論を取りあげた第五章などを興味深く読んだ。私はレヴィナスについての直接の議論はできないので古怒田の解釈がどれだけ「妥当」であるかについて細かい議論はしない。そもそも意図して変則的であろうとしている読解が「妥当」かどうかを問うのは、ひどく手間がかかる。しかし一点のみ、『クィア・レヴィナス』を読んでどうにも抑えきれなかった違和感について述べておく。

学術的な、あまりにも学術的な…

私の違和感の原因は、『クィア・レヴィナス』の体裁というか、文章としての形式スタイルだ。この著作はまさに学術論文、とくに人文系の博士論文の典型的スタンダードな体裁で書かれている。たしかに語られている内容は、レヴィナスという哲学者についてこれまで知られてきたイメージにはそぐわない、どこか変態的クィアな側面である。男女の結婚と子ども(とくに男児)の出産を自明視するかのようなレヴィナスが、実は生殖器ではなくむしろ唇と肌による愛撫にこだわっていたことを論証する第二章「初期レヴィナスのクィアな読解」なども面白かった。だからこそ、そんな変態的クィアな読み方をする著作が、スタンダードな、あまりにもスタンダードな学術論文の体裁をとっていることに、私は首を傾げた。

ここでいう学術論文的な書き方というのは、とにかくその論文で何を言わんとするのかを明確にするために「主張を分かりやすく何度も繰り返す」ことだ。以下で『クィア・レヴィナス』から例をあげよう。

だが、同時に、これらの可能性は、クィアな人々の存在を抹消する彼のテクストの規範性によって不可視化されてもいる。(74頁)

本部の目的は、中期の主著『全体性と無限』におけるセクシュアリティ論、とくにその繁殖性概念をめぐる理論が、クィアな人々の存在を抹消していることを明らかにすることにある。(77頁)

本章では、「老化」と「死」という『全体性と無限』のセクシュアリティ論が背景とする二つの問題のうち、「死」に関する時間性の問題を扱い、同著のテクストがクィアな人々の存在を排除していることを明らかにする。(80頁)

古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』74⁻80頁 太字強調は引用者

これは、『クィア・レヴィナス』の第I部(第一~二章; 31-74頁)から第II部(第三~四章: 75-114頁)にまたがる箇所からの引用である。一目瞭然だが、わずか数ページで「クィアな人々の存在を抹消/排除」しているという語句が繰り返し登場する。

この書き方は、分野を問わず学生・院生が叩きこまれる学術論文の共通フォーマットのようなものだ。英米文学を専攻とする私が大学院生だった頃は、以下のような「論文の書き方の鉄則」をよく耳にした。

  • 論文は大きく序論(イントロダクション)、本論(ボディ)、そして結論(コンクルージョン)の三部構成をとる。

  • 議論の本体である「本論」で述べる主張は、あらかじめ「序論」で述べておき、さらに「結論」でもう一度繰り返す。

  • 各段落(パラグラフ)の第一文はその段落の一番大事な内容を要約したものにする。こうすると、段落の第一文だけをざっと読めばその論文の内容がある程度は把握できるようになる。

こういった論文作法をしつこく先輩や指導教官から教えられている人たちは今もいるだろう。私の(あまり楽しくない)思い出をもうひとつだけ述べておく。「論理的」で学術的な論文の書き方を指導している大学教員が、ある学会で招待発表をした。序論/本論/結論の三部構成でしつこく自分の主張を繰り返すように学生に教えないといけません!と言う彼女が、決めゼリフのようにこう言っていた(記憶はやや曖昧なので細かい詮索はしないでほしい)。

"Tell them what you're going to tell them. Tell them what you are telling them. Tell them what you've told them."
「あなたがこれから伝えることを伝えなさい。あなたが今伝えていることを伝えなさい。あなたが伝えたことを伝えなさい」

どうやらこれは、英語圏の学生が教わる論文の書き方(アカデミック・ライティング)の基本をキャッチコピー的にまとめたものだったらしい。学術論文はとにかく誤解をできるだけ少なくして明快に語ることが最優先だから、自分の結論を最初から伝えて、一度だけでよしとせず何度も言い直せ、ということなのだろう。

だから、古怒田の博士論文に基づく『クィア・レヴィナス』がこうした繰り返しの多い書き方になっているのは、アカデミック・ライティングの定石を忠実に実践した結果だと言えるだろう。さきほど引用したのは第I部の終わりから第II部の始まりの部分、つまり橋渡しの箇所だから、なおのこと「ここまで述べてきたこと」と「これから述べること」を分かりやすく示そうという意志が働き、レヴィナスは「クィアな人々の存在」を抹消・排除していると何度も述べることになったのだろう。

これが『クィア・レヴィナス』に対する私の違和感だ。通常ノーマル正統的オーソドックスな読み方では見えてこないレヴィナスの変態的クィアな側面を明らかにしようとする著作が、どうしてこんなにも通常の、正統派の学術論文の体裁に愚直なまでに従っているのだろうか?

東浩紀『存在論的、郵便的』を参考に

もちろん、著作の内容と体裁の食い違い(奇妙/正統)をつかまえて、まるで言行不一致の政治家を糾弾するように「言ってることとやってることが違うぞ!」などと言ってはならない。私は『クィア・レヴィナス』の価値を認めている。ただし、この著作の「あまりにも学術的なオール・トゥ・アカデミック」体裁に違和感を覚えるひとが少ないとしたら、それはそれで問題だと思う。

ここでは古怒田の『クィア・レヴィナス』と比較するため、『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』の東浩紀に触れておこう。

フランスの哲学者ジャック・デリダは、レヴィナスと同様にユダヤ系の出自を持ち、レヴィナスとも親交を結び、そして誰よりも手痛い批判をレヴィナスに向けもした。東は、1998年夏に発表された文章でこう書いている。

実際カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズといった新たな「学」が扱う領域は確かに古い学に比較し拡大しているのだが、論文そのものは多くの場合、驚くほど保守的かつ制度的なスタイルで書かれている。つまりそれら諸論文は、内容において一見「革新的」な主張をしていたとしても(たとえば国民国家の虚構性なり近代的主体の限界なり)、何よりもそのスタイルによって書き手の欲望を顕にしてしまっている。そしてここで重要なことは、思想のこの保守化=制度化が日本でだけ生じている現象でないことである。むしろそれはアメリカにおけるアカデミズムの動きと連動した現象であり、したがってその現象そのものは実は、冷戦終焉後の世界で容赦なく拡大しているアメリカ(英語圏)のヘゲモニーについに人文科学の領野も飲みこまれたことを意味している。

東浩紀「季評 第六回 ベル友からの返信──九〇年代について2(一九九八年夏)」
『郵便的不安たち』(朝日新聞社) 241-42頁 太字強調は引用者

論文の内容・主張はとても多様で進歩的でトンガっていても、それと反比例するかのように、形式・体裁は画一的で硬直していて、むしろ保守的……? 東がそんな事態を問題視してからすでに30年近くたつ。今では、こういう内容と形式の食い違いを、食い違いとして認識できないひとも増えているだろう。それは決して良いことではない。人間の知性が表現されるスタイルが、たったひとつに統一されてよいはずがない。いつの頃からかお騒がせなキャラクターが定着してしまった東だが、人文学の研究や批評が進歩的なふりをしていても実はむしろ保守的に囲い込まれているのではないか、という東の問題意識を、私は今も大切なものだと確信している。

そんな東が論じたデリダは、難解でエキセントリックでとても「学術論文」とは言えないような文章を書いた。レヴィナスを含む戦後のフランスの哲学者や批評家がどこか「ブンガク」的な文章を書くのは別に珍しくなかったが、デリダはそれに輪をかけて異常だった。それなのに、デリダについての東の本は、デリダとは似ても似つかない英米系のスタイルで書かれている。それは東の批評的判断として尊重すべきであって、同様に『クィア・レヴィナス』がいかにも学術論文といったスタイルで書かれていることも、著者・古怒田の裁量の枠の中にあることは言うまでもない。

とはいえ強調したいのは、東が指摘した人文科学における英語の覇権が、今日ではさらに進行して、「分かりやすく明快であること」が至上の要請になっているということだ。東の『存在論的、郵便的』の出版は1998年だが、それ以降、日本での学術論文の英米スタイルはより広く浸透するばかりだった。何事も極端に走るとろくなことがない。現在、おそらく私たちは「分かりやすく明快であること」を重視しすぎている。

かつてのスローガンは「(分かりやすく書けることは)できるだけ分かりやすく書こう!」だった。それは正しい。
だが今ではそれが「(どんなことであれ)分かりやすく書ける!」になっている。それは傲慢な無知だ。
あるいはさらに、「(英米スタイルで)分かりやすく書けない学者なんて無価値!」と言わんばかりの人々もいる。彼らは能天気な植民地主義者の現代版だ。
しまいには「分かりにくいものなんて読まなくていい!」とまで言いだす輩もいるだろうが、そいつは分かりやすい文章ですら読み飛ばすに決まっている。

周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』を例に

古怒田の『クィア・レヴィナス』が分かりやすく論点を丁寧に繰り返すスタイルで書かれていることを、私はあまりポジティブには受けとめられなかった。そして私は、周司あきら・高井ゆと里の『トランスジェンダー入門』の一節を思い出したのである。

帯にも明示されているように、トランスジェンダーについて「最初に知ってほしいこと」がこの著作にコンパクトにまとめられている。性別移行のプロセスや具体的な差別のかたち、医療や就業など生活の種々の困難にわたるまでが概観できる良質の入門書である。私自身も大いに蒙を啓かれた。 

だが、明快なこの著作で私にもっとも強い印象を与えたのは、以下の一節である。周司・高井は、トランスジェンダーについての「入門」を書いた理由を語りつつ、この著作の限界や、いっそのこと「弊害」と言ってもよさそうなことについて語っている。

シスの人でも分かるような、読みやすく、整頓された文章を書けば、みんな読んでくれると信じています。だから、私たちはこの本を書きました。しかし同時に、私たちは知っています。こうして分かりやすく平易にまとめた文章ではない、トランスたちの雑多でカラフルで、苦痛に満ちたリアルな声は、やっぱり無視されるのだと、知っています。あなたのもとに届いている「トランスの声」には、すでに偏りがあります。この本を書く私たちは、そのことも知っておいてほしいと願っています。

周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』114頁 太字強調は引用者

〇〇についての入門書がほしい、最低限のことを分かりやすくまとめてほしい……ある問題について無知な人がそう願うのは自然なことだ。だが、入門書は往々にして、「この本に書いてある以上のことは専門家向けだから知らなくていい」というメッセージを暗に発してしまう。トランスジェンダーという複雑な現実の問題に「入門」するどころか、開いた門から中をざっと見渡して、観光ガイドの説明を聞いてまた立ち去るようなものだ。それだって、まったく知ろうとしないよりはマシだ。しかしつまるところ「分かりやすく平易にまとめた」情報以上のものは、受けとめてもらえないわけだ。

それは「分かりやすさ」の弊害だろうか。個々人の認知能力の限界として甘受すべきことだろうか。周司・高井がトランスジェンダーに関わるもろもろの事柄を手際よくまとめているだけに、彼らがそれでも触れられぬままにとどまる何かについて書き記したことは、胸に留めておくべきだ。

古怒田はなぜこんなにも分かりやすく本を書いたのか

周司・高井の『トランスジェンダー入門』を読んでいた私は、あまりにも学術論文的な体裁で書かれた古怒田の『クィア・レヴィナス』に違和感を覚えつつ読み進めた。「ほんとうにこれでいいのか? レヴィナスをクィアに読み解く試みが、こんなにも標準的な書き方でいいのか?」と思った。だがやがて、私は別の可能性・別の解釈に思い至った。

事態はまったく逆ではないのか。レヴィナス研究における支配的な方向性、つまりマジョリティによる読解から意識的に逸れていくような解釈を提示する古怒田は、だからこそ文句のつけようがないくらいアカデミズムのルールに則った書き方をせざるを得なかったのではないだろうか。古怒田は「あとがき」にこう書いている。

序文で記したように、クィアな主題とレヴィナス思想を結びつける自分の研究を、「そんなものと〔レヴィナスを〕一緒にするな」とレヴィナス研究者から罵倒された経験が私にはある。それから私は、レヴィナスを自分の言葉で語る権利や可能性を喪失する感覚に襲われた。「そんなものと〔レヴィナスを〕一緒にするな」と言うときの「そんなもの」とは、ジェンダークィアとしての私の実存、人生そのものだからだ。その暴力的な言葉にひどく傷つき、学会発表をしようとする度に同じことが繰り返されるのではないかという考えがよぎるようになり、震えや動悸が止まらなくなった(それは今も続いている)。レヴィナス研究を行うことだけではなく、研究者としてのキャリアを断念しようと思った時期もあるし、ジェンダークィアとしての人生をおしまいにしてしまおうと思ったことも何度もある。

古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』229頁 太字強調は引用者

古怒田の『クィア・レヴィナス』が学術的な、あまりにも学術的な体裁によって書かれているのは、端的に、そうでもしなければ論文・書物になる以前に封殺されて、言葉として形を成し流通することすらかなわなかったからではないだろうか。

だとすれば、まさにここで、古怒田とレヴィナスは「生き残った者」として共鳴するのではないか。古怒田が注目しているように、第二次世界大戦中にフランス軍の兵士として従軍し捕虜となったものの生き延びたレヴィナスは、その哲学者としての活動の初期においては文学にも明確な志向を持っていた。古怒田とレヴィナスの共鳴がさらに長く豊かに響くなら、ひょっとして古怒田の手で、哲学論文ともエッセイともつかない、ある種の小説が書かれる日がくるのかもしれない。

レヴィナス/ジュネ/セリーヌ

さて、ここからはまた別の角度から。日本におけるレヴィナス受容において思想家の内田たつるは少なからぬ影響力を持った。レヴィナスへの関心から内田の著作を読み始めたという批評家・荒木優太が、2026年2月20日に発表された文章でこう書いている。

或いはまた、「顔」に殺人禁止の源泉を認めたエマニュエル・レヴィナスは、にも拘らず決してその顔の肌の色については語らなかった。一九六七年の中東戦争を経てなおイスラエル国を擁護したシオニストのレヴィナスにとって、パレスチナ人の顔は「顔」ではないのかという反間は依然横たわりつづけている。顔が倫理を起動させるとして、顔でないものがその作動的負荷を担っているとしたら。内田樹は専門外の政治談義で世相をひっかき回すのではなく、こういうことをきちんと考えるべきだ。

荒木優太「[文芸時評]相互性と片務性」『内田樹の時代』70頁

真っ当な指摘である。倫理的に振る舞うように促してくる他者の「顔」は、そう簡単に見て見ぬふりできないからこその「顔」ではないのか。レヴィナスにとって良くも悪くも自らの哲学的思考を研ぎ澄ます砥石になったのがハイデガーのナチス協力問題だとするなら、なおのことレヴィナスにとってイスラエル/パレスチナ問題とは何だったのかと問うべきだろう。

そして、やはりこの時勢に迫られてのことなのか、レヴィナスやデリダを含むフランスの思想家や知識人がイスラエル/パレスチナについて語ったことをまとめた著作が近日発売される。

哲学者や小説家たちの時事的な事柄についての短い発言などは、いかにも手応えのある「書物」と比べて後世の記憶には残りにくい。それを収集・整理・翻訳する研究者たちの努力には頭が下がる。『フランス思想におけるイスラエル/パレスチナ』の刊行を心して待ちたい。

二人の作家、二通りの異端

イスラエル/パレスチナ問題と関連して、二人の作家についても触れておきたい。すなわち、『夜の果てへの旅』などで高く評価されながら、反ユダヤ主義的な姿勢のために激しく批判されもする小説家ルイ=フェルディナン・セリーヌ、そして怪物的な才能にあふれる『泥棒日記』などを発表し、晩年はパレスチナ人とともに立った小説家・劇作家ジャン・ジュネである。

セリーヌもジュネも、公序良俗を搔き乱す過激な作風で知られるが、明確な違いもある。セリーヌは意図的に文法・語法を無視して、卑語や隠語がふんだんに混じる文体で作品を書いた。他方でジュネは、同性愛などスキャンダラスな内容の作品を書きはしたが、文体そのものは見事と言うほかないフランス語の完璧な美文だった。

1996年に行われた浅田彰と鵜飼哲の濃密な対談「ジュネを再発見する」のなかに、セリーヌとジュネを比較した一節がある。あまり表立って言わなかったものの、ジュネはセリーヌを強く意識していたらしい。

鵜飼
なぜ正しいフランス語で書くのかということについては、最初から隠語を使って書くということは医者のような階層の人間にしかできないからだ、とジュネは言う。ここで「医者」といっているのは、普通のお医者さんではなくセリーヌのことです。(中略) ともあれ、まず最初に医学の博士論文を普通に書いてから、隠語を使って書くと言うような芸当は私にはできない、私のような囚人にとっては、自分を拷問し抑圧するものの言葉を使って書かなければ、最初から何も聞いてはもらえなかっただろう、といっています。

浅田彰・鵜飼哲「ジュネを再発見する」
「批評空間」第II期第14号137頁 太字強調は引用者

10代で第一次世界大戦を経験し軍隊に入ったセリーヌは、戦争が終わって20代なかばに医学を志し、パリでの実習などをへて正式に医師になった。セリーヌは決してフランスの学問的制度の外側にいた人ではなかったのである。

他方でジュネは、浅田・鵜飼の対談でも語られているように、そもそも子どものころに捨て子となり、国家による戸籍制度による管理から漏れて、ほんとうに社会の周縁を放浪するように生きてきた人間だった。

正統派オーソドックスな知と権威を認められたセリーヌが、あえて言語をめちゃくちゃに乱して書く。社会システムの裏側で生きて、人並みの読み書きができるとすら期待されていなかったであろうジュネが、誰もが目を見張る美しい文体で書く。この二つの書き方は、どちらが優れているということではなく、二つの書き方、二種類の異端として肯定されるべきだろう。そして、すでに触れた古怒田望人/いりやはどちらかというとジュネに近いのではないか。だからなおさら私は、古怒田が小説を書くような未来をぼんやりと思い描いてしまう。

反ユダヤ主義を超えてセリーヌを読む

そんなルイ=フェルディナン・セリーヌの小説『ロンドン』の本邦初訳が、2026年3月に出版された(森澤友一朗訳, 幻戯書房)。心からの祝福と喝采を送る。「訳者解題」によると翻訳作業は2023年に8か月ほど続いたようだが、だとすれば訳者・森澤は、そんな並々ならぬ苦闘のさなか、2023年10月にはじまった今回のイスラエル・パレスチナ戦争の報道を耳にしたのだろうか。

イスラエル批判が即座に反ユダヤ主義ではないことは当然だ。だが、何かにつけ過激化しやすい昨今の政治状況を鑑みるに、「反ユダヤ主義者セリーヌ」の翻訳に腰が引けてしまう出版社も皆無ではあるまい。だからこそ、森澤の訳業がこうして立派に出版されたことを盛大に祝福したい。

そんなセリーヌ『ロンドン』についてのちからのこもった(長めの)書評が、すでに「文學界」2026年5月号に掲載されている。タイトルはまさしく、「多少の非難は覚悟して、 フェルディナンを抱きしめる──若い読者のためのセリーヌ『ロンドン』」である。

評者である青木耕平は『ロンドン』に直接先立つ『戦争』についてもレビューを書いているそうだ。改めて強調しよう。昨今の政治状況や出版業界の傾向を踏まえれば、決して読みやすいわけでもなく、しかも政治的に問題があったのは明白な小説家セリーヌの長大な作品が新訳で出版されること、そしてそれに対して文芸誌に丁寧な書評が掲載されることは、とてもとても喜ばしいことだ。

魔が差して時勢におもねったなどという言い訳では片づけられない激烈な反ユダヤ主義のパンフレットをセリーヌが書いたことは否定しようがないわけで、だからセリーヌを擁護するのにはどうしても一定の紙幅と留保が必要になる。2026年3月をもって「図書新聞」が廃刊した今、セリーヌについての長めの書評をしかるべき評者に依頼した「文學界」の判断は称賛に値する。

嘘とごまかしを粉砕して、その果てに反ユダヤ主義?

青木耕平の書評は嘘くさい絶賛に終始することなく、指摘すべき難点をごまかすこともなく、セリーヌ『ロンドン』を、それ自体を超えた文脈へと接続していく。印象的なこの書評のタイトルは、カート・ヴォネガットによるセリーヌについてのエッセイから取られているとのことだ。

ドイツ系アメリカ人として自らも第2次大戦で従軍して地獄を見たヴォネガットにとって、セリーヌが公然とナチに同調したことが許しがたい過ちだっただろう。しかしだからこそ、それでもヴォネガットがセリーヌを全否定しなかったのはなぜか、と立ち止まって考えてみたい。

これはヴォネガットやセリーヌのいち読者でしかない私の思い付きだが、『スローターハウス5』を書いたヴォネガットは、戦争にまつわる欺瞞と虚飾のすべてを粉砕しようとしたセリーヌに共感せずにいられなかったのではないだろうか。

ヴォネガットにとって戦争の欺瞞とはなにか? 原子爆弾なら「ヒロシマ/ナガサキ」、ガス室なら「アウシュビッツ」というように、想像を絶する規模の破壊と暴力の記憶と結びついてしまった地名というものがある。それらに比べると認知度が低いのだが、ドイツの都市ドレスデンは、イギリス・アメリカによる攻撃でほぼ丸ごと破壊された。デイヴィッド・アーヴィングの著作『ドレスデンの破壊』を引用しつつ、ヴォネガットは『スローターハウス5』の一節で、ドレスデンの死者を13万5000人と記している。これほどの被害にもかかわらずドレスデン爆撃があまり知られていないのは、ナチス・ドイツという「悪」を打倒した英米を「正義」と見なす歴史観=物語による抑圧が働いたと考えるのが妥当だろう。ヴォネガットは、そんな欺瞞と虚飾に同調できなかった。彼はその場にいて真実を見てきたのだから。

そしてセリーヌもまた戦争における薄っぺらいごまかしを激しく拒絶したのだが、それについて語る前に少々気の滅入る話をしておかねばならない。『スローターハウス5』でヴォネガットが引用した『ドレスデンの破壊』のデイヴィッド・アーヴィングは、現在では悪質な歴史修正主義者であると目されている。(以下にアーヴィングの経歴が簡潔ににまとまったnoteを貼っておく。)

アーヴィングとて、はじめは「正史」では語られぬ歴史の挿話をすくいあげる、くらいの知的好奇心と善意から本を書き始めたのかもしれない。しかし彼はやがて明確に反ユダヤ主義的な姿勢を強めていく。ユダヤ人女性の歴史家デボラ・リップシュタットがそんなアーヴィングを批判すると、彼は逆にリップシュタットを名誉棄損で訴え、かくしてホロコーストをめぐる歴史的真実を賭けた法廷闘争が始まった……。これは、リップシュタット自身の著作『否定と肯定』としてまとめられ、レイチェル・ワイズ主演で映画化もされた。ドレスデンでの死者は、現在は2万5000人と見積もられているそうだ(だから大したことではない、ということにはならないが)。

不穏なパターンは誰の目にも明らかだろう。『夜の果てへの旅』のセリーヌは、世界のあらゆる嘘とごまかしを嫌い、どんな組織・どんな国にも恭順しない小説家だったはずだ。なぜそんな彼が反ユダヤ主義へと滑り落ちていったのか? 同様に、英米が誇らしげに掲げた「正義」によって脇に押しのけられるドレスデンの悲劇について書いたアーヴィングは、なぜ連合国側の欺瞞を暴くところで踏みとどまれず、ホロコーストを否定するなどという極端に行き着いたのか?

過激な個人主義者だったセリーヌ(の主人公)が、反ユダヤ主義という差別へと行き着いたことは、この記事の後半で言及する琴峰ことみの長編小説『言霊のさきわう国で』を考えるうえでなにがしかの示唆を含んではいる。この長編には、「めぐ」という女性が登場する。めぐは幼いころから女性差別的な家庭に育ち、女性であるというだけで強いられる様々な理不尽に抗ってきた。男性中心の社会に苛立って毒づいてきた彼女は、いつしかフェミニズムを通り越して、SNSでトランスジェンダーに対する差別的な投稿をするようになってしまうのだ。(詳しくは後段、「『言霊の幸う国で』から「懊悩の子」へ」を読まれたい)

医師、あるいは生死の境をつかさどる者

さて、青木耕平による『ロンドン』書評を踏まえてさらにひとつだけ。一度読めば忘れられないこと請け合いの『夜の果てへの旅』や、それに続く『なしくずしの死』に比べれば、作者による十分な推敲を経ていない『ロンドン』はいかんせん散漫な印象を与えはする。

しかしそんな作品についても、セリーヌ自身によく似た主人公フェルディナンが医者になる展開を指摘している青木はさすがというべきだろう。ロンドンで出会ったユダヤ系の医師ユーゲンビッツから思わぬ励ましをもらって医者を志すフェルディナンだが、生まれたばかりの赤ん坊ピーターを救うことができない。戦争に倦み疲れてややもすれば自暴自棄にも見えるフェルディナンでも、子どもの死に無感動ではいられないのだ。

では、主人公に大きな影響を及ぼした医師ユーゲンビッツがユダヤ人であることは、いかなる意味をもつのか? 今回邦訳された『ロンドン』には訳者である森澤による「ルイ=フェルディナン・セリーヌ[1894-1961]年譜」がついている。この年譜によると、草稿として『ロンドン』が執筆されたのは1934年、セリーヌが共産主義への糾弾を発表するのが1936年、翌37年には反ユダヤ主義的なパンフレットが発表される。『ロンドン』にはその後のセリーヌの反ユダヤ主義の萌芽が見受けられるのか、それがこの作品の解釈にあたって避けて通れない問いになるだろう。

セリーヌ作品における「医師」は、単に人間の健康状態の維持・改善につとめる専門家・技術者ではいられない。端的に医者は、ひとりの人間が生きているのか死んでいるのかを判定する審判である。フェルディナンが選びとる医者の仕事とは、生きている人間のうちで誰を<生>の領域にとどめ、逆に誰を<死>の世界へと引き渡すのかを采配することである。

そもそも『ロンドン』の主人公フェルディナンがユダヤ系の医師ユーゲンビッツを訪ねるのは、フェルディナンの友人ビジューの死の証明書を発行してもらうためなのだ。フェルディナンとビジュー、そしてもう一人の友人のステファンは、酒場での乱闘騒ぎに巻きこまれて気がつけば血だらけズタボロのまま投げ出される。「ビジューとおれの二人して。きっとおれたちくたばったと思われたんだ」(107頁)。気がつけば、半死半生のフェルディナンとビジューを乗せた台車をボロクロムが引いている。

おれはドックで体の上に掛けられてた布を外套のようにして羽織ってた、ビジューも同様、やつの場合はむしろ屍衣だが。やつがひっくり返る。掛かってたそいつもめくれ返る、服越しに柔らかいとこにナイフ突き立ててみた、やつめ嫌な声ひとつ漏らしやしない。てことはもう間違いない

ルイ=フェルディナン・セリーヌ『ロンドン』112頁 太字強調は引用者

もう間違いなくビジューは死んでいる。だからフェルディナンたちは、郊外の墓地へと遺体を輸送する目的に特化した駅(これは本当の話だそうだ)へとビジューの亡骸を運んでいくが、駅長には引き取りを断られる。身分証明書もなにもない死体を持ちこまれても困るというわけで、押し問答の末にフェルディナンたちは、紹介された医師の元へ赴き、ビジューの死亡証明書を貰うため呼び鈴を鳴らす。

「先生、証明書が必要なんです」
 ああ、と扉を開けた。部屋着だった。(中略)
 おれは証明書の詳細を説明してやった。
「実際に見てみないとね」
おれは手押し車のところまで下りてった。彼の方はランプを探しに上がってってそれからやつをじっくり拝見、ビジューの量の瞼を押し上げてみたり、両腕両足動ママかしてみたり。
いやこの方はまったく死んでなんかいませんよ」と彼。「早いとこうちの中に連れてかなければ」

ルイ=フェルディナン・セリーヌ『ロンドン』119頁 太字強調は引用者

こうして、フェルディナンの目には死んでいるとしか思えなかったビジューは、医師ユーゲンビッツによってまだ生の側にいると判定される。

セリーヌ作品では、死/生の対立が真理/欺瞞の対立に重なりやすい。セリーヌ文学の基調をなす強迫的命題を、青木耕平も忘れず書き記している。「この世の真実、それは死だ」。世界はすでに腐臭を放つ巨大な死骸である。道行く人々が生きているように見えても、それは皮相な見せかけに過ぎない。どいつもこいつも生ける屍、歩く死者にすぎない。生は、死という真実を覆い隠す欺瞞だ。ゆえにセリーヌ文学における医師とは、今見えているものが真実なのか、それとも真実をごまかす見せかけなのかについて診断を下す存在となる。

このことは、セリーヌ的な「医師」がきわめて陰謀論の標的になりやすいということを意味している。真実の告知についての権限を持つということは、裏を返せば、世間に蔓延する嘘偽りに責任があるということだ。現代のマスコミが左派からも右派からも批判されることを思い返せばよい。左派は報道が政権寄りで政治家を「忖度」してばかりだと言い、右派はマスコミなど「反日」勢力の巣窟だと言う。だとすれば、『ロンドン』の医師ユーゲンビッツがユダヤ系として設定されているところに、すでにセリーヌの反ユダヤ的・陰謀論的な想像力の端緒が見て取れるといってもよかろう。

もちろんこれらすべてを合わせても、セリーヌ『ロンドン』を読まずにおく理由にはならない。破れかぶれで、悪態まみれで、空回りするフェルディナンの頭のなかで、今でも戦争の爆撃音の残響が暴れまわる。青木耕平とともにセリーヌの『ロンドン』を抱きしめよう。

浅田彰と千葉雅也の対談から…

セリーヌとジュネを対比させてまとめた2通りの異端について、別の文脈から語りなおしておきたい。

「新潮」2026年5月号に掲載された、浅田彰と千葉雅也の対談からはじめよう。タイトルは、「私とは一個の他者である──トランプ時代のクィア・セオリー」だ。

いわゆる「現代思想」に通じた二人の対談なので、まずは順当にドゥルーズ&ガタリやデリダの名前が出てきて、1960年代以降の思想の流れが整理される。話題は主にLGBTQのQつまりクィアだ。問われるのは、トランプ現象のような反動に歯止めがかからない時代にクィアであるとはどういうことか、ということだ。

一度きりの革命は革命ではない

この対談の重要なポイントをあげよう。つまり、「革命はワン段階ステップでは終わらない」ということだ。1960年代の後半から性的マイノリティが声をあげはじめ、今日ではLGBTという言葉が一般にも浸透している。レズビアン/ゲイ/バイセクシャル/トランスジェンダーのそれぞれが病気や障害ではなくれっきとしたアイデンティティであることを真っ向から否定するのは、かつてよりは難しくなったと言っていいはずだ。確かにこれは、ひとつの変化すなわち革命だった。

だが、LGBTのアイデンティティが認められるだけでは、革命は終わらない。むしろそれではかえって困ることもある、と浅田はまとめる。

浅田
デリダに即して強調しておきたいのは、たとえば同性愛が恥ずべき異常とされ、本人もそう思い込まされてきた長い歴史を思えば、同性愛者が自らのアイデンティティを認め、カミング・アウトして社会に認めさせるアイデンティティ・ポリティクスが絶対に必要であるということです。しかし、LGBTのアイデンティティばかり強調していると、その枠に収まりたくない人たちが排除されてしまう。それでインターセックスとかノンバイナリーとか様々な種類のアイデンティティが付け足されていくけれど、いつまでたっても問題は残る。むしろ、そこに付加される項目のひとつであるQつまりクイアは、自らにアイデンティティを押しつけることを拒否し変態し続けていく欲望を体現するものと考えた方がいいというのが僕の考えです。

「私とは一個の他者である──トランプ時代のクィア・セオリー」
「新潮」2026年5月号 167-168頁

浅田が言うQクィアは他の4つとは異質だ。LGBTのそれぞれが確立されたひとつのセクシュアリティだとすれば、Qは場合によってはそのどれかに接近しつつ、そのいずれにも固定されない。浅田が言うように、変態クィア変態メタモルフォーシスでもあるから、移り変わることそのものの欲望なのだ。LGBTであることを認められるようになるのはひとつの革命だが、LGBTであり続けることが窮屈な牢獄になることもある。それなら、その人がLGBTのどれであれ、固定されたアイデンティティそのものから逃れ出ていく欲望にクィアという(仮の)名前をつけよう、というわけだ。なぜその名前が「仮」であるかと言えば、クィアというひとつの名前で指示されてはいても、その欲望の具体的なありようはそのたびごとに異なっているからだ。

私たちの性(セクシュアリティ/ジェンダー)にかかわる革命は2段階でなければならない。①性的マイノリティとしての同一性アイデンティティが認められなければならない。これが今日、「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれるもので、その名の通り政治的な運動として展開される。それと同時に、②アイデンティティそのものの変態クィアな揺らぎも肯定されねばならない。このふたつは、あくまでも同時に遂行されなければならない。

なお、2段階あるいは2方向の革命という考え方はドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』以降の共著でも提示されている。興味のある方は以下を参照。

政治vs芸術、いまさら?

ところが、①と②が食い違うように見えてしまう場合があるから悩ましい。浅田は親交のあったメディア・アーティスト古橋ふるはし悌二ていじの言葉を振り返っている。ゲイであることを公表し、ドラグ・クイーンとして踊りまくってもいたという古橋は1995年にエイズによる敗血症で亡くなっている。

浅田
(…)アクティヴィストでもあった古橋さんが、アート作品に関して「ああ、ポリティカル・コレクトネスね」と片付けられたらそれでお終いだ、とはっきり言っていた。
千葉
「アートがそうなったらあかん」と明言していたわけですね。
浅田
それは、アーティストとして、パフォーマーとしての真っ当な感覚だったと思いますよ。(…)

「私とは一個の他者である──トランプ時代のクィア・セオリー」
「新潮」2026年5月号 172頁

ここで「ポリティカル・コレクトネス」と言われているのは、おおむね①の方向性だと考えてよい。浅田も慎重に前置きしているが、クィアとは、そもそもポリティカル・コレクトネス的な良心というか、「かわいそうだからLGBTにも市民権を認めてあげようよ」といった恩着せがましい優しさをはねのけるところがある。

浅田
(…)「真っ当な市民としてのアイデンティティなど認めてもらわずとも結構だ」というところから、ストレンジと似て「奇妙な、いかがわしい」という意味を持つクィアという言葉が出てきた。

「私とは一個の他者である──トランプ時代のクィア・セオリー」
「新潮」2026年5月号 169頁

今もネット上で読むことのできる古橋のインタビューでも、同様のことが言われている。

強調しておこう。ポリティカル・コレクトネスの流れを止めてはいけない。差別的な言動を悪びれもせず繰り返すトランプが大統領としての職を追われずにすんでいる現状があるのだから、私たちの社会は今もなお様々なマイノリティを踏みつけにして、彼ら彼女らの苦痛を土台にして維持されているとしか言いようがない。

だがポリティカル・コレクトネスは、実質的に、|多数派(権力をもつ側)《マジョリティ》が嫌々ながらマイノリティに譲歩した結果である。内心では差別しているけれど我慢して、マイノリティを承認するふりをしているにすぎない。だから千葉雅也が2010年代には危惧していたように、ポリティカル・コレクトネス的な流れがある一線リミットを超えると逆襲が、「マジョリティの逆ギレ」がはじまる。しかもそのとき、マジョリティはマイノリティと同じ言葉遣いで、自分たちも被害者なんだと怒鳴りはじめる。アイデンティティを認めてもらえず傷ついただと? 白人男性で中流の俺だって俺なりに疎外されて孤独だったぞ! 俺がお前の痛みをわかっていないだと? お前だって俺の痛みは分からないだろう!......だいたいこんなところか。こうやってなりふり構わずマジョリティとマイノリティがぶつかったら、優勢なのはもちろんマジョリティの側だ。

マイノリティにそれぞれのアイデンティティを認めていく政治的運動は絶対に必要だし、まだまだ続けるべきだ。女性を含むマイノリティの国会議員がもっともっと増えるべきだ。だが、やはりそれだけではいけない。ポリティカル・コレクトネスを推進する政治的運動はどうしても確固たるアイデンティティという発想に頼るしかない。そのような発想そのものから自由になるには芸術が必要になる。芸術か政治かなんて何をいまさら、と鼻白む人もいるだろうが、これが今もなお私たちを悩ませている問題であることは否定できない。

蓮實重彥と工藤庸子の往復書簡から…

もういちど、問題を別の言葉で整理してみよう。私たちの社会をよりよくするためには、少なくともツー段階ステップの革命が必要だ。

  1. さまざまな弱者や少数派マイノリティのアイデンティティが認められること。(大規模マクロで社会的・政治的な革命)

  2. そもそも固定的なアイデンティティなんてものをすり抜けること。(小規模ミクロで哲学的・芸術的な革命)

これは粗い区分にすぎない。しかしこの区分を考えると、いろいろな論争や対立でなにが起こっているのかが見やすくなるように思う。

あちらこちらに溢れる「ケア」

ここで、蓮實重彥と工藤庸子の「対話」に目を向けてみたい。これは「群像」で不定期に連載されている往復書簡風の討議あるいは対談だ。2026年4月号にはその第六回が掲載されていて、全体が三つのパートに別れ、①蓮實⇒工藤、②工藤⇒蓮實、③蓮實⇒工藤という構成になっている。

その①で蓮實は、1986年に大江健三郎と筒井康隆がディケンズ『荒寥館』(Bleak House)について語り合った対談に触れる。邦訳では『荒涼館』とされることもあるこの英文学の名作への大江・筒井の関心を、蓮實はあまり共有できないようだ。とはいえ二人の小説家の対談は刺激的だと称賛しつつ、なのに昨今の文芸誌での対談はなんとも劣化しているように見えると蓮實は書く。

そしてここで言及されるのが、近年「ケア」研究の文脈で名前があがる心理学者キャロル・ギリガンとその著作、そして来日したギリガンを招いて行われた鼎談である。「ケア」という言葉が人文系の領域で頻繁に目につくようになったのはいつごろからだろう。この単語・概念の「理不尽なまでの氾濫ぶりにいささかの苛立ちを隠しきれずにいた」蓮實が言うには、そもそも決して優れてはいないギリガンの二冊の著作には、どちらも副題に「ケア」の一語が含まれる。『人間の声で──ジェンダー二元論を超えるケアの倫理』、そして『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの理論』という具合だ。ところが、この二つの著作の原著の副題には「ケア」は含まれていないし、翻訳者たちがそんな邦訳オリジナルの副題について説明しているわけでもない。

だとするなら、その日本語訳に添えられた「ケアの倫理」という語には、もっぱら商業的な目的がこめられていると見なければなりません。「ケア」という語彙の現代日本における理不尽とも思える氾濫ぶりの起源が、ことによるとそこにあったのかと見当をつけたりもしておりました。

「対話 第六回 「ケア」という語彙の氾濫ぶりに……」
「群像」2026年4月号 180頁

蓮實にしては珍しい、直截な言い方だ。つまり、「やたらとケアだケアだと言っているけど、要するにそれが流行りだから、そういう副題にすれば売れ行きが伸びるとでも思ってるんだろう」と批判しているわけだ。もちろん、やはり蓮實というべきか、「ケア」という語彙の氾濫を批判する自分自身もその状況の外側に立つことはできない、ということを暗示するために、蓮實自身の文章には「ケアという語彙の氾濫」といった表現が何度も繰り返される(わずか1、2頁に3回)。

蓮實の批判は正当なものだろうか? たぶん、社会的弱者を実際に「ケア」する現場に身を置く人には、蓮實の批判など安逸な暮らしが確保された人々による無責任な難癖にしか見えないのではないか。さまざまな「生きづらさ」を抱える人々が社会には存在するし、そういう人々を支える人たちも大勢いる。それなのに「ケア」の現実は不可視のものとして、いわば存在しないことにされがちだ。だからこそ、「ケア」に対する社会の認知を高めるためにも、どんどん「ケア」について語るべきだ──こう考えることは間違っていない。つまり、蓮實は「小規模ミクロで哲学的・芸術的な革命」を目指している一方で、社会にはいまだに、「ケア」を旗印にした「大規模マクロで社会的・政治的な革命」も必要なのだ。けれど蓮實には、このマクロなやり方が粗雑で、いっそ時代遅れにすら見える。しかも悪いことに、それは本の売れ行きを伸ばすためのキャッチコピーみたいなものにも思えてしまうわけだ。

大学教授のひそかな愉しみ…?

改めて言えば、政治的マクロな社会変革は個々のアイデンティティが認められ、さまざまな形で表現されることだ。たとえば、マイノリティ当事者が自分の特性をオープンにして選挙に出馬して国会議員になれば、こういうマクロな変革のための大きな一歩になる。だが、こういった変革は「自己同一性アイデンティティ(identity)」とか、「表現=代理表象リプレゼンテーション(representation)」といった概念に頼らざるをえない。蓮實が心理学者キャロル・ギリガンになぜこんなに苛立っているかといって、それは彼女が、「自己同一性アイデンティティ」や「表現=代理表象リプレゼンテーション」といった単語を無批判に使っているところだ。

わたくしのように一九六〇年代から一九七〇年代にかけてフランスの地に長く滞在していた者にとって、この二つの語彙は信頼よりはむしろ不信の対象となりがちなものであります。(…)自分自身は言うまでもなく、他者の「アイデンティティ」などまったく信じておりませんし、倫理的な意味で、自分の書物が個人なり不特定多数の集団なりを「代理表象」することなど間違ってもあってはならない。たえず、そう戒めております。

「対話 第六回 「ケア」という語彙の氾濫ぶりに……」
「群像」2026年4月号 180頁

フーコーやドゥルーズやデリダやバルトの著作に刺激を受けてきた人間(私も含む)からすれば、心理学者ギリガンが「女性のアイデンティティ」に関して、女性たちの思考を代理表象するリプレゼンテーション(代弁する)、なんて言っているのを見ると首をかしげてしまう。

「ケア」という語彙の氾濫を問題視する蓮實は、エリートの立場からエラソーに批判しているわけではない。蓮實はむしろ、大学に籍を置く研究者たちの言葉(=学問的な言説)が市場原理を踏まえた打算によって浸食されていることを批判しているのではないだろうか。言うまでもなく学問は、著作が売れるかどうかとか、一般読者のあいだで何が流行っているかとか、そういう打算を抜きにして行われるべきだ。それが「真理」の重みでなければならない。どうも近年「ケア」という語が濫用されているように見えるのは、おそらく文芸ジャーナリズムの影響もあるだろう。蓮實の対話の相手である工藤庸子も、率直に困惑を表明している。

ここでは特に、近年のSNSで時折見受けられる、大学の「研究者」に対して「当事者」が怒りをぶちまけている光景を思い起こしてほしい。「研究」というものは、ある現実の事態に対してそれなりの距離を取らないと不可能な場合が多い。ひとつの「現実」に完全に埋もれている状態では、それを分析し表現することもままならない。この意味で研究者とは、(悲惨な)現実に対して一種の傍観者であるほかない。だが、さまざまな「弱者」についての研究が、むしろその弱者を「素材」として利用し、利用どころか搾取しているように見えることもある。戦争の悲惨さを伝えようとする戦場カメラマンは、「お前は現場にいたんだから人助けでもすればよかったじゃないか。目の前で人が死ねば良い写真が撮れて有名になれるとでも思ってるんだろう」と非難される可能性に常にさらされている。なんらかの意味での「弱者」にかかわる研究者も同じことだ。だからこそ学問的研究は、不用意に研究対象となる人々を代理表象リプレゼント(=代弁)するなどと言ってはならない。弱者は研究者が業績を稼いで出世するための踏み台ではない。

オーストラリア出身のコメディアンにして障害当事者でもあるステラ・ヤングが提唱した「感動ポルノ(inspiration porn)」という言葉を耳にしたことがある人は多いだろう。日本でも、チャリティ番組「24時間テレビ」とまったく同じ時間帯(いわゆる「裏」)で、NHKの「バリバラ」がこのステラ・ヤングのTEDトークをとりあげて、大きな話題となった。「感動ポルノ」についてのステラ・ヤングの説明は明快だ。それぞれの意志と人格をもって生きている障害者を、健常者の感動のための道具にしてはならない。それはオナニーのために他人を裸にするポルノと同じだ。

というわけで、すでに著作が2作邦訳されている心理学者キャロル・ギリガンをめぐる状況を批判する蓮實は、容赦なくギリガンの反動的な姿勢を批判し、とりわけイングマール・ベルイマンの映画『野いちご』をとりあげるギリガンの杜撰な手つきを罵倒する。「ああ、何という無教養! 何という無知! 何という破廉恥ぶり!」(189頁)

浅田・千葉の対談で話題になった革命のふたつの段階という問題が、蓮實・工藤の対話でも形を変えて浮上している。「文学+」の編集人でもある文芸批評家の中沢忠之がこの蓮實・工藤の対話に言及しているところを紹介したい。

有料記事なのであまり細かく引用はしないが、中沢の立場もやはり分裂しているというか、複雑なものだ。「ケア」という語が濫用されているように見える現状を批判する蓮實は、反動的にも見える、と中沢は書く。

蓮實は、女性たちを代弁(represent)しようとするギリガンを批判するが、男性中心のアリーナにこれまで代表(represent)、いや参加すらしえなかった立場からの批判がフェミニズムやケア論周辺からあったここ十数年だったはずで、ゆえに反動ともとられかねない批判ではある。こと彼はそのアリーナの中心にいつづけた批評家である。

中沢のこうした視点を、片時も忘れてはなるまい。蓮實にとって、自らの論旨を補強するために小説や映画をテキトーに要約する心理学者ギリガンが許しがたいのは理解できる。しかしそれでも、そもそも批評家や大学教授といった肩書は圧倒的に男性のものだったのだ。研究者が男性ばかりの状況よりは、女性の研究者が増えた方がよい。人気作家が男性ばかりであるより、女性作家の本もたくさん読まれた方がよい。これはあらゆるマジョリティ/マイノリティについて言えることだ。もっと大勢の女性が国会議員や大学教授のポストに就く方がよいし、性的マイノリティについても同じことだ。代表=表象リプレゼンテーションの回路を通じてそれぞれのアイデンティティが承認される方が、されないよりは良い。だがそれだけではいけないわけで、結局はまた浅田・千葉の対談と同じ問題に逢着していることがわかる。

琴峰ことみの評論と小説から…【ネタバレ注意!】

女性やLGBT、あるいはクィアは、私たちの社会においてしばしば存在しないかのように不可視化される。だから、まずはこうしたマイノリティの存在を明確に認めなければならない。

では文学作品でマイノリティはどのように表象されるべきなのか。それを考えるにあたって、琴峰ことみが最近発表した評論と小説に注目したい。

「小説トリッパー」の2025年秋季号・冬季号で発表された「これからの「日本文学」のために──日本文学のクィア表象について」という評論で、李琴峰は「アイデンティティ」を「属性」と対比して定義している。

「属性」とは個人に属する性質のことで、多くの場合、それは変えられない所与のものである(国籍や性別など、一定の条件のもとで変えられるものもある)。一方で「アイデンティティ」とは、個人がどのように自己を認識するか、あるいはどの集団に同一化し、帰属意識を持つかの問題である。

李琴峰「これからの「日本文学」のために(前編)」
「小説トリッパー」2025年秋季号267頁 太字強調は引用者

李琴峰にとっての「アイデンティティ」は、なによりもまず「私」が「私」自身を(帰属集団との関係において)どう考えるかの問題だ。この点で、李と蓮實の姿勢の違いは歴然としているかに見える。自他を問わずアイデンティティなど信じていないし、一人の人間が自分の所属する集団全体を代表=代理=代弁するなどと言語道断と言わんばかりだった蓮實とは対照的に、李は政治的な行動のためにもアイデンティティは必須だと考えている。

クィアの人たちが主体になるためには、アイデンティティが不可欠だ。アイデンティティなき者は、「主語=行動主体」たりえないし、「語り手」にもなれない。いつまで経っても「他者」「語られる対象」の位置に磔にされ続けたままである。それだけではない。アイデンティティなき者は共同体を構築しえないし、権利回復のための政治的な主張もできない。「私たちはここにいる」と言うことができないだけでなく、「私たち」という複数形すら失われる。

李琴峰「これからの「日本文学」のために(前編)」
「小説トリッパー」2025年秋季号268頁

文学作品でクィアの人々の姿が描かれる(表象リプレゼンテーションされる)べきであり、クィアの人々が政治的に連帯するのにもアイデンティティは必須だというのが李琴峰の立場だ。

李琴峰と蓮實のどちらが正しいのかについてジャッジすることはできないし、する意味もあまりないだろう。私が思うに、政治的な主張のためにはアイデンティティが必須だと訴える李の言い分を蓮實も真っ向から否定はしないだろう。そして、アイデンティティという概念そのものに疑わしいところがあるということには、おそらく李も同意するのではないか。だから両者の言い分をここで勝手に併記して無闇に対比させることはしない。とはいえ、李じしんの評論と小説を併読してみるくらいのことはすべきだ。

「懊悩の子」における複数の差別

2025年に前・後編にわけて発表された評論に続き、「小説トリッパー」2026年春季号には琴峰ことみの短編「懊悩おうのうの子」が発表された。

主人公の名は大野おおの宇乃子うのこ。38歳の彼女はホテルの清掃員として働いている。宇乃子の楽しみは、SNSで知り合った仲間とともに、女性差別への抵抗を口実にして、ファッションモデルの小芝こしばリョンヌを叩いてウサを晴らすこと。以前、宇乃子が働くホテルにリョンヌが宿泊した際、彼女の部屋を清掃して所持品を物色した宇乃子は、リョンヌが実は男性であることを突き止める。男など大嫌いで、まして女になりすます男など目の敵にしているメンバーたちに持て囃された宇乃子は、しばらくしてまた泊まりにきたリョンヌの身分証などから、やはり彼女が戸籍上は男性である証拠になる画像を撮影するに及ぶ。その画像を仲間と共有するとバッシングはさらに加速していく……というのが「懊悩の子」のあらすじだ。

主人公の名前がそもそもダジャレであるところからも察せられるが、「懊悩の子」は、戯画的なまでに露骨な紋切型の言葉でできている。ファッション誌で読者モデルをしたことのある宇乃子は、保守的な両親のもとを離れて上京したが芸能界で成功する夢はかなわない。やがて彼女はフェミニズムの旗印のもと女性差別を糾弾するSNSアカウントに遭遇して、あられもなく感化される。

 そうだ、自分が夢をかなえられなかったのも、こんなふうに落ちぶれているのも、何もかも女性差別のせいだ。
 思い返せば、いくらでも思い当たる節があった。実家のお風呂の順番や、お正月の食事、同級生の嘲笑、弟の教育費を優先した両親、自分から若さばかりを搾取した出版社。(中略)
 ひとたび女性差別への観察眼が備わると、社会のありとあらゆるところに差別がひそんでいることに宇乃子は気づかざるを得なかった。脱毛をすすめてくる電車広告。露出が多く、やたらと胸が強調されるアニメキャラクター。(以下略)

李琴峰「懊悩の子」
「小説トリッパー」2026年春季号14頁

この箇所だけを読んでも、「懊悩の子」がかなり大胆な作品であることがわかる。「懊悩の子」は、フェミニストの言うことなど耳を傾けるに値しないのだ、と世間に喧伝したがる輩が喜びそうな表現に満ち満ちている。だからこの作品は、フェミニストを無思慮・無責任な悪役として貶めるだけの低俗なフィクションにも見えかねない。

主人公・大野おおの宇乃子うのこの行動や考え方には分かりやすい限界や欠陥がある。男尊女卑的な社会のなかで宇乃子も辛酸をなめてきたわけだが、それが言い訳にならないくらい浅薄かつ短絡的な女性として彼女は提示されている。ジェンダーロールだのミソジニーだのというカタカナ言葉を覚えて舞い上がるくせに、同じ職場の外国人は蔑視する。女に成りすまして女性の居場所を侵害する男がいると思いこみ手前勝手な義憤に駆られ、小芝リョンヌが実は小此木おこのぎ睦月むつきという男性であることを仲間たちと共有して盛り上がる。大野宇乃子もその仲間たちも、それが「アウティング」という加害行為に該当する可能性に思いいたって懊悩することはない。やがて、男だと噂されたのを苦にして小芝リョンヌが自殺を図り、宿泊客の私物を勝手に撮影したことがバレて宇乃子が追い詰められる、というのが「懊悩の子」の結末に至る展開だ。

「懊悩の子」を読む者の脳裏には必然的にこんな疑問が浮かぶ。「差別されている女性が他のマイノリティを差別していたら、彼女にどのように寄り添うべきなのか?」 「懊悩の子」は、2種類の異なった差別の交錯や、それら複数の差別に同時に抗うことの難しさを描いていると言えるだろう。詳しくは作品そのものを読んでほしいところだが、結末ではなんの同情の余地もないくらい叩きのめされる主人公・大野宇乃子ではあるが、彼女が女性として差別されてきたことも間違いなく描かれていることは強調したい(宇乃子には弟がいるが、両親は弟の進学を優先して宇乃子の学費はだそうとしなかった)。

改めて言えば、琴峰ことみの「懊悩の子」は、彼女自身の評論「これからの「日本文学」のために」とともに読まれるべきである。この評論で李は、女性同士の恋愛を美しく描き出した上質な恋愛小説として綿矢りさ『のみのままで』に一定の評価を与えつつ、クィア表象に関して物足りないところもあると指摘する。綿矢が描く女性同士のカップルが、二人で穏やかに暮らすことを最優先にして、法的に正式なパートナーとして認められるようとしない点に触れて、李は次のように書いている。

要するに、社会を変えるために行動を起こすより、権利を手に入れるために声を上げるより、世間に認められることより、二人でいる方が大切だ、という表明である。現実世界で、そうした生き方を選んだ当事者は当然尊重されるべきである。しかし小説内で、しかも二〇一九年に発表された小説において、わざわざそうした反動的な表明を行う意味は何だろうか。現に同性愛者が社会的・法制度的に差別され、排除されている現状の中で、そうした表明はベクトルを間違えたら、いとも簡単に「権利を主張するな、ひっそり暮らしていろ、そうすれば認めてやる」という、マイノリティを抑圧する言葉に変貌しうるということを、著者は十分認識しているのだろうか。

李琴峰「これからの「日本文学」のために(後編)」
「小説トリッパー」2025年冬季号265頁 太字強調は引用者

現実の性的マイノリティが、社会的な承認(政治的な表象リプレゼンテーション)よりもプライベートな親密さを優先することと、そのようなマイノリティを小説で表象リプレゼンテーションすることは同じではない。不特定多数の読者にむけて公表される小説は、どうしても一定の「公的」なメッセージという側面を有してしまう。ゆえに、「声を上げたがらないマイノリティも(一部には)いる」という表象は、「マイノリティは声をあげようとすべきではない」という意味で受け取られる可能性を排除できないのである。李琴峰がこの箇所の註で付け加えるように、性的マイノリティはやかましく権利を主張しなければ黙認してやる、とでもいった差別的な発言がいまだに聞こえてくる私たちの社会では、綿矢に対する李のこうした批判も的外れではないだろう。

しかし、だとすれば李琴峰みずからが書いた小説「懊悩の子」に対して同じ批判ができないだろうか? 大野おおの宇乃子うのこは、ほとんどトランスジェンダー差別のコピペ用テンプレのような表明をする。「男に生まれた恵まれた人たちが、なんと自分のことを女だと言い張って、女性に残された数少ないスペースにまで押し入ろうとしてくるというのだ!/許せない、絶対許せない、と宇乃子は強く思った」(「懊悩の子」15頁)。そんな彼女が作品末尾でわかりやすく破滅するのだから、「懊悩の子」は「女も所詮は他のマイノリティを差別するのだから、女性差別を批判する資格なんてない」というメッセージを発しているようにも読めてしまう。李琴峰はそんな誤読のリスクを覚悟のうえでこのように書いていると考えるのが妥当だろう。だからこそ「懊悩の子」は(こう言って僭越でなければ)とりわけ批評によって応答すべき作品だと言えるだろう。

『生を祝う』から「懊悩の子」へ

ここまで触れてこなかったが、琴峰ことみの「懊悩の子」は、2026年2月に文庫化された李の長編『生を祝う』(朝日文庫)と密に結びついている。

この二つの小説は、「子宮のなかの胎児が自らの意志で生まれるかどうかを選択する」という主題を共有している(芥川龍之介の「河童」を思い出すひともいるだろう)。「懊悩の子」は、主人公である大野おおの宇乃子うのことは別の「わたし」によって語られている。「宇乃子自身が見てみぬふりをしているような思考や感情も読み取れます」と語る「わたし」が誰なのかが明かされるのは、作品のほんとうに最後の箇所だ(「懊悩の子」31頁)。

繁華街で声をかけてきた男とセックスして妊娠した宇乃子は生まれてくる子の性別を気にしているのだが、まだ生まれていない胎児の「わたし」は、生を受けることを拒絶する。

 何を隠そう、わたしは宇乃子が必死に叩いてきた「女に成りすます男」そのものです。(中略)宇乃子が知りたがってたわたしの本当の性別は女ですが、もし生まれたら、宇乃子のいる世界の人たちはわたしのからだに基づいて、私を男だと判断するでしょう。それはわたしにとっても宇乃子にとっても災難なのです。
 だからわたしは自分を殺します。

李琴峰「懊悩の子」
「小説トリッパー」2026年春季号32頁

「生まれる前の胎児による生誕の拒否」という主題をより細かく肉付けした設定を、李すでに長編『生を祝う』で採用していた。

コロナ禍の2021年に単行本化された『生を祝う』は、「失われた三十年」から50年以上が経過した時代の日本を舞台としており、その時代ではすでに同性婚が認められている。しかしそれ以上に大きな変化は、母胎のなかの胎児と簡単なコミュニケーションをとる技術が確立されたことだ。このため、遺伝的疾病や両親の経済的条件などを総合的に考慮した人生の生きやすさが数値としてその胎児に提示され、生誕するか否かを胎児自身に選ばせることが制度化されている。胎児には「生の自己決定権」があり、胎児の合意なく出産することは「出産強制罪」として告発・処罰される可能性がある。『生を祝う』の世界では、人を殺そうとする「殺意」と同じく、自由意志を無視して人間を誕生させようとする「産意」もまた、忌まわしいものとして糾弾される価値観が浸透しているのだった。

李琴峰は、なぜ『生を祝う』で用いた主題を再利用して短編「懊悩の子」を書いたのだろうか? 有り体を言えば、登場人物の多彩さや物語の起伏などから判断するなら『生を祝う』の方が「懊悩の子」の数段上である。だから、『生を祝う』で小説家・李琴峰に興味を持った人がその次に「懊悩の子」を読んでも、失望とは言わないまでもかなり肩透かしのような印象をうけるのではないだろうか。長編『生を祝う』がいわば「ちゃんとした」小説として書かれているのに対して、短編「懊悩の子」は、一人の浅はかな女性の差別意識をテンプレ的な言葉でこれでもかと言わんばかりに露悪的に陳列しただけのように見えるからだ。 

だが私は、李琴峰が『生を祝う』だけで終わらずに「懊悩の子」を書かねばならなかった必然性があると解釈する。つまり、一見したところ小説としての完成度が高い『生を祝う』にはひとつ、不十分と言わざるを得ない点があって、それを踏まえて改めて書かれたのが「懊悩の子」である。以下ではこの解釈について説明しよう。

自然な欲望 VS 人為的な規範…それだけでいいのか?

『生を祝う』と「懊悩の子」において李《り》琴峰ことみが採用した「胎児による出生の拒絶」は、近年では「反出生主義」と呼称されている。『生を祝う』の単行本が出版された際、李は小説家・朝井リョウと対談して次のように語っていた。


「生の自己決定権」には、自分がなぜ生まれてきたのか、生まれ来る場所としてここは正しいのかという問いを込めました。生の根源に対する問いかけは昔から様々な哲学者がやってきたのですが、最近になってそれらの哲学と思想が「反出生主義」という名前をつけられ可視化されました。人間も動物の一種で、子孫を残す本能はどこかに残っているので、子をなすことに問題提起する「反出生主義」に対して「気持ち悪い!」と本能的な嫌悪感を抱く人も多いでしょう。うっすら感じたり思ったりしていても他者に対して言語化しづらいのは恐らくそのためです。だからこそ小説の出番かなと思ったわけですが。

太字強調は引用者

李琴峰の見解は、「人間には子孫を残す本能があり、だからその本能を否定・疑問視する反出生主義を本能的に嫌悪するひとが多い」とまとめて良いだろう。そしてこれに対応する見解を朝井リョウが提示した。『生を祝う』文庫版に寄せた「解説」で朝井は、同性カップルが容易に子どもを育てられないといった現実が、反出生主義の背後にある可能性を指摘している。

 このような現状によって、現実社会の出産可能世代の一部に「この国で子どもを生むということ自体、虐待のようなものなのでは」という考えが広がっているのは、非常に自然な流れだと感じる。もちろん非婚化・少子化の理由は選択的夫婦別姓制度の未整備や経済的事情など様々だが、〝生まれくる場所として、同性婚すらできないこの国は適切なのか〟という問いは、昨今の人権意識の高まりの表出と言っていいだろう。反出生主義は、行き過ぎた悲観主義や厭世主義による過激な思想だと捉えられがちだが、人権意識の高まりからも発生し得るのである。

李琴峰『生を祝う』 朝井リョウ「解説」205頁 太字強調は引用者

反出生主義についての李と朝井の見解は、以下のような実にクリアな図式を形成している。

  1. 子どもを産みたいという欲望は、人間に備わる「自然」な本能である。

  2. しかし、本能を抑制する「人為」的な規範としての人権意識は、子どもの意志の尊重をもとめる。

自然な欲望 VS 人為的な規範という対立はとても理解しやすく、ひとつの小説の物語をこの二つの力の相克・葛藤で説明できることもある。『生を祝う』の主人公・彩華あやかは、子どもが誕生するかどうかについては本人の意思を尊重すべきだという社会の「規範」を受け入れている。しかし、育児環境がひどく悪いわけでもないのに、彼女の子どもは出生を拒絶する。愕然とする彩華はどうしても産みたいと抵抗するが、自身の姉も以前に胎児側から拒絶されたことを知り、同性パートナーの佳織かおりとも衝突するなどして、最後には子どもの意思を尊重して産まない決意をする。「規範」の側に立っていた主人公が思わぬ事態で「自然」に襲われ、二つの力によって揺れ動きつつも、最後にはまた「規範」の側に帰還するわけだ。

だが、自然な本能/人為的な規範という対立軸だけでは、反出生主義について語るのには不十分である。『生を祝う』の内容や、李琴峰と朝井リョウが「反出生主義」について語る言葉でも考慮されないままになっているものがある。それは、自然と人為の対立や、本能と規範の衝突をより複雑なものにしてしまう第3項すなわち、資本主義である。李の『生を祝う』では、胎児による誕生の同意/拒絶がどれくらい経済的な条件と関係するのかという問題意識が皆無とは言わないが、かなり薄い。

すでに紹介したように、『生を祝う』ではそれぞれの国の社会状況や気候の変動、さらに胎児本人の性的指向などが総合的に計算されて、「生き易さ(あるいは生き難さ)」が数値として胎児に通知され、誕生に同意するかと尋ねられた胎児がイエス/ノーで答えることになっている。この制度が成立するにいたった経緯を、李琴峰は疫病による人口減少や安楽死の合法化、さらにはチョムスキー流の「普遍文法」に基づく新技術などを引き合いに出して説明する。

だが、このように「胎児が出生を拒否できる社会」を描きだす『生を祝う』では、子どもの誕生と親の経済状況との関連性がほとんど語られない。もっと言えば、『生を祝う』の登場人物たち(主人公、そのパートナー、主人公の姉や同僚etc.)は、同性愛者だったり、中国人と日本人のダブル(いわゆるハーフ)だったりするが、彼ら・彼女らは総じて中流層の市民であり、経済的な意味での弱者ではない。先進的な技術によって女性同士でも子どもを作ることができる(ただし生まれてくるのは女児のみ)時代、主人公とそのバートナーはいよいよ、胎児が出生に合意するかどうかを予測する計測値を専門医から手渡される。

***胎児生存難易度計測報告書***
(中略)
【胎児遺伝子情報解析】
性染色体による性別:女
性的自己認識:8(男1~女10)
性別違和傾向:検出されず
(中略)
【親権予定者A評価:総合】
経済状況:213(基準値:100以上)
社会的地位:276(基準値:100以上)
(以下略)

李琴峰『生を祝う』63-64頁 太字強調は引用者

こうして、特段これといって親としての不適格性を示すような数値もなく、主人公たちの子どもが出生に同意する確率は97.8%と算出される(が、結局は出生を拒絶されてしまう)。とくに「経済状況」のところの基準値なるものが何を意味するのか明言はされていないが、基準が100以上のところで213という判定を得ている主人公が貧困層ということはなさそうだ。そしてそのパートナーも小説家であり、おおむねこのカップルは中流の上くらいだとみてよかろう。『生を祝う』には貧困層が描かれていないのである。それは、必然的に貧富の差を生み出す資本主義というシステムを実質的に捨象しているということだ。

しかし実情において、トランスジェンダーだけでなくマイノリティにとっての「生きづらさ」は貧困と分かちがたく結びついている。これは、そのマイノリティが単に金持ちであれば一切の悩みから解放されるということでは全くない。マイノリティの生きづらさがそのまま貧困に等しいなどと言っているわけではない。だが、トランスジェンダーの大半は経済的にも苦境に立たされることが多い。すでに言及した高井ゆと里が翻訳したショーン・フェイ『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』のなかの一節を引用しておく。

トランスであることは、経済的な格闘と結びついた経験だ。一方抜きに他方はあり得ない。
 大半のトランスたちにとって、普通自分のジェンダーアイデンティティは収入に負の影響を与える。わずかな数の裕福なトランスたちは、単にお金を出すことで、多くの社会的なトランスフォビアから逃れることができる。

ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』180頁

もちろん、琴峰ことみがこうしたことについて無知ではないことは、後段で言及する『言霊のさきわう国で』からも明らかである(フェイの著作も参考資料として巻末に挙げられている)。とはいえ、少なくとも『生を祝う』の主人公とその女性パートナーは同性愛者・同性カップルであることが原因でいくらかの不利益を被ってはいても、決して貧困層とは言えない。

現実の日本で少子化が止まらない理由のうちのひとつは、どう考えても、若い世代に経済的な余裕がないことだろう。逆の言い方をすれば、たとえ子どもを産み育てることに不安があっても(難しい病気になったら? 勉強ができなかったら?)、両親に十分なお金があれば(いわゆる「太い」実家があれば)そんな不安要素が人生全体に暗い影を落とす可能性はかなり軽減されるはずだ。

だから、李琴峰が『生を祝う』で描いた法制度や技術がほんとうに実現したなら、親になろうとする人々が胎児から誕生の同意イエスを引き出せるかどうかは、その親に金銭的な余裕があるかどうかに大きく左右されるはずなのだ。法律や技術がどれだけ名目上は平等でも、実際には経済的な序列によって人々は分断される。現に、コロナ禍で健康を害するリスクがもっとも高かったのは(医療従事者をのぞけば)非正規雇用の労働者や路上生活者だったのではないか。ウィルスはそれ自体としては人間の事情になど頓着しないのに、それでも真っ先に割を食わされるのは貧しい者たちであって、他者との接触を絶ちリモートワークができる中流以上の人々ではなかった。私たちの社会では、うんざりするくらい金がモノを言うのだ。

すでに李琴峰と朝井リョウの言葉を引用して、自然な本能/人為的な規範という対立には言及したが、資本主義によって生じる貧富の差という視点がないために、『生を祝う』の登場人物たちが感じる葛藤も、いくらか的外れに思える。たとえば、主人公の綾華あやかが、姉の友人の女性・キム結奈ゆいなと出会った場面を以下で引用しよう。『生を祝う』で描かれる日本にも、胎児による誕生の合意を確認する「合意出産制度」に反対する「無差別出生主義者」たちが存在し、その一部は過激化して病院へのテロを実行する。実は綾華の姉や金結奈は、この過激なグループ「天愛会」の関係者だった。その過激な行動についていけなくなった金に、綾華は改めて、「合意出産制度」は正しいのか間違っているのかと問いかける。

 金さんは首を傾げながら、暫く黙り込んだ。
「間違っているか間違っていないかなんて、分からないけど……」
 独り言のように呟き、少し間を置いてから、金さんは俯き気味にゆっくり首を横に振った。「いや、違う。たぶんそれは、すごく正しい。自分の人生なんだから、生まれるかどうかは自分で決められるべき。間違った要素なんて何もない。ただ」そこまで言って、金さんは頭を上げ、私を見つめながら言葉を継いだ。「あまりにも正し過ぎるからこそ、逃げ場がないように感じられたの。天愛会は、いわば正しくない人たちが作り上げた逃げ場のようなもの」
「でも、あらゆる動物の中で、生の自己決定権なんてものがあるのは人間だけだし……」
「確かに、そうね。でも、自由とか、平等とか、そういうものがあるのも人間だけで、他の動物にはないんだね」

『生を祝う』朝日文庫186⁻187頁 太字強調は引用者

これを、解きがたい人生の難問に悩む人間を真摯に描いた一節として評価する人もいるだろうが、私にはやはり隔靴掻痒かっかそうようの感がある。「合意出産制度」には「間違った要素なんて何もない」と言えるためには、社会の誰もが経済的な不安から解放されていることが前提ではないか。大企業の正社員は子どもを持てるのに中小企業の派遣社員は子どもは持てないような状況が成立しているとしたらどうだろう? 経済的に不安定な親のもとに生まれることを拒絶するのは、ほんとうにその子どもの自由意志なのか? 貧しくて子どもを持てなかったら、それは当人の責任なのか? 自由や平等といった理想もまた動物にはない人間だけのものだ、だから胎児による「生の自己決定権」も正しい──こう議論するなら、なによりもまず、人間の行動に様々な影響を与える「資本主義」について問うべきなのだ。

ここで、人間の生死にかかわる決定権について、琴峰ことみの『生を祝う』を、市川沙央さおうのデビュー作『ハンチバック』と比較してみたい。ほぼ寝たきりの重度障碍者である女性主人公は、子どもを産み育てることなどできない。だが、妊娠と中絶までなら可能だと考える彼女は、胎児殺しを夢みる。

当時、中絶規制法改定の動きを巡って、障害者を産みたくない女性団体と殺されたくない障害者団体が激しくぶつかり合っていた。殺す側と殺される側のせめぎ合いは「中絶を選ぶしかない社会」を共通のヴィランとすることでアウフヘーベンして障害女性のリプロダクティブ・ライツにまで辿り着き、安積あさか遊歩ゆうほのカイロ演説を生んだ。1996年、、、、、にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう
 だったら、殺すためにはらもうとする障害者がいてもいいんじゃない?
 それでやっとバランスが取れない?
[引用者注記: 引用文の「当時」はリブ活動家の米津知子が東京国立博物館の「モナ・リザ」に赤いスプレーを吹きかける事件が起きた1974年を指す。]

市川沙央『ハンチバック』44-45頁 太字強調は引用者

障害のある子どもを産まないと選択すること、つまり「障害者殺し」について市川が述べていることは、李琴峰『生を祝う』における「合意出産制度」についても該当するだろう。そもそも『生を祝う』において誕生にも本人の合意が必要だという考え方は、安楽死が合法化された後で社会に広まったとされている(『生を祝う』17頁)。出生前診断などの技術があれば、疾患や障害のある子どもを親の側が事前に拒絶することもできるし、はじめは高額な医療費がハードルになっていても、需要が多ければ市場原理に従ってやがてはよりリーズナブルな、つまりはカジュアルで、これといって罪悪感を引き起こすこともない行為になるだろう。すると、安価な医療技術にすらアクセスできない貧困層の家庭に障害のある子どもが生まれる可能性が高くなるわけだ。

妊娠した女性に産むかどうかを自己決定する権利があることを私は否定していない。だが、少なくとも私たちの社会がますます新自由主義的になり、金さえあれば様々な不便が避けられる状況では、生死にかかわる事柄を「人権」の文脈のみで議論するのは危険である。その場合の「人権意識」とは、要するに消費者としての意識に近くなる。子どもを産むかどうかの自己決定権ですら、消費者として特定の商品やサービスを買うか買わないかの自由と大差ないものに見えてくるのはそのためだ。

市川沙央はある往復書簡のなかで、何重にも慎重に留保を置きつつ、人工妊娠中絶の権利を認める「プロ・チョイス」(女性の選択を重視)と「プロ・ライフ」(胎児の命を重視)ならば、自分は後者に近いと告白した。無論、概してリベラルな人間の多い人文系ではかなり珍しい立場だが、市川は妊娠中絶をする「自己決定権」の危うさを次のように語っている。

しかし、近代社会が自己決定権の印籠の元に、明晰な自己意志を持つ標準的な身体のみを社会に揃えることを目指しつづけ、不良品の排除を進めるというのならば、宗教や素朴な道徳の他に何をブレーキとして頼んだらいいのだろう。欧州の安楽死制度先進国ではすでに、神経筋疾患を含む重篤な難病患者の身体は、状態のよい臓器のドナープールとして移植医から認識されているらしい現代において。

荒井裕樹・市川沙央 往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」 
「文學界」2023年8月号223頁

野放図な市場原理に歯止めをかけない限り、たとえば貧困家庭の子どもがスマートフォンを買うために自分の臓器を売ることだって「自己決定権」の名のもとに正当化されるだろう。資本主義という下地を無視して「人権」について語ることの危うさがここによく表れている。

『生を祝う』は、胎児による生誕の意志確認というSF的な設定を採用することで、私たちが自明視しがちな「生」の価値をめぐる葛藤と対立を描いている。だがそのような空想的技術がなくても、市場原理と自己決定権の結びつきは数々の難問を引き起こす(売春は個人が自由意志で選択する商取引であるか否か...etc.)。『生を祝う』の弱点は、「ひとは生誕を自ら選ぶべきか」という問いを単なる価値観や社会通念の問題として、つまり自然VS規範の文脈で考えて、資本主義の影響が十分考慮されなかったことだ。

なお、資本主義において様々なモノやサービスが金銭で取引されることの問題点については、マイケル・サンデル『それをお金で買いますか 至上主義の限界』(鬼澤忍訳、ハヤカワ文庫)が分かり易く豊富な具体例を挙げているので参考にされたい。

「懊悩の子」における抵抗

この点で、琴峰ことみにとって目下最新作である短編「懊悩の子」は小品として脇へ押しのけてよいものではない。確かに小説作品として見るならば「懊悩の子」よりも『生を祝う』の方が格段に充実している。しかし、人生の生き易さに多大な影響を及ぼすはずの市場原理を十分考慮しなかったことでいささか観念的になっていた『生を祝う』とは違い、「懊悩の子」はより明確に経済的な格差の問題をとりあげているという強みがある。

改めて振り返るなら、「懊悩の子」の主人公である大野おおの宇乃子うのこは、高校の時に読者モデルに採用されたので卒業後に東京に出てきたものの上手くいかず、38歳の今はすでにホテルの清掃員の仕事を五年以上続けている。他方で、宇乃子によって戸籍上は男性であることが暴露されて自殺未遂事件を起こすファッションモデルが小芝こしばリョンヌである。「リョンヌは持ち前の陰翳いんえいのある雰囲気と独特なスタイルで人気を呼び、ここ一年、各女性誌・ファッション誌に頻繁に登場し、表紙を飾ることも何度もあった」(「懊悩の子」13頁)。

つまり宇乃子とリョンヌを、同じ業界の敗残者と成功者として対比することができる。リョンヌを女に成りすまして世間をだます男だと認識する宇乃子にとって、リョンヌは二重の意味で我慢のならない存在ということになる。「本物の女である自分をさしおいて、この偽物の女がモデルとして人気を集めているという事実、それ自体が宇乃子には耐えがたい屈辱だった」(「懊悩の子」16頁)。

宇乃子がリョンヌの個人情報を盗み撮りしてネットに流出させるにいたる展開も、宇乃子がリョンヌのあいだの見紛いようのない格差と関係している。宇乃子は勤務しているホテルにリョンヌが宿泊した際に私物を漁ってリョンヌが戸籍名「小此木おこのぎ睦月むつき」という男性であることを突きとめた。次の機会をじりじりと待っていたところへ再びリョンヌが現れる。

 ホテルの清掃員として五年間働いてきたが、世の中の人の無防備さに宇乃子はいつも瞠目どうもくさせられる。連泊のときたいていの宿泊客は荷物を部屋に置いて出かけていくのだが、財布や鍵、パソコン、スマホといった貴重品を置いていったり、身分証明書とか仕事関連の重要そうな書類を机の上に出しっぱなしにしたりしたままの人も多い。(中略)客からすれば清掃員なんて空気のような存在だから意識すらしないのかもしれない。空気は書類を見たり物品を取ったりしない。たしかに存在を意識されないような空気みたいなものになるのがプロの清掃員とも言えるが、しかし清掃員は空気ではない。宇乃子は空気ではない

李琴峰「懊悩の子」
「小説トリッパー」2026年春季号22頁 太字強調は引用者

市場原理が浸透した社会における私たちの生活環境の快適さは無数のサービスによって維持されているが、そのような必須の土台としての労働に限って不可視化され、吸っては吐く空気のごとく自明のものとして、意識されることもなく消費される。「懊悩の子」の宇乃子はそんな空気になることに抵抗しているのであって、抵抗の仕方(宿泊客の個人情報の暴露)こそ大間違いではあれ、抵抗したくなる気持ちそのものは間違っていない。資本主義が実質的に捨象されていた『生を祝う』では、「空気」になることへのこうした苛立ちは描けなかっただろう。

『言霊のさきわう国で』の意義

ただし、「懊悩の子」と関連する文脈では読むべき琴峰ことみの作品としては、『生を祝う』のみならず『言霊のさきわう国で』を挙げないわけにはいかない。この長編小説は、なにを措いても読むべきだ

主人公は台湾国籍で初の芥川賞作家となったLことりゅう千慧ちさとで、物語は彼女が芥川賞選考会の前日に新宿の神社にお参りをする場面から始まる。もちろん誰もがこのLに李琴峰を重ねて読むが、これはあくまでフィクションであると断られている。ただし……「作中で批判対象として実名で引用したテキストは、すべて実在のものです」(498頁)。

『言霊のさきわう国で』では、コロナ禍で世界が混乱した2021年の7月から、安倍晋三が銃撃される2022年7月までの時期に、Lとよく似た李琴峰の身に実際に起きた事柄(誹謗中傷、アウティングetc.)にフィクションが混ざっている。リアリティがあるなんてものではない。場合によっては実在する研究者や批評家や小説家までが登場して、Lのカミングアウトを驚きつつ受けとめたり、相談に乗って静かに寄り添ったり、指摘すべきことは穏やかに明確に指摘したりする。

李琴峰の書いたものを網羅的に読んだわけではない私なのに、『言霊の幸う国で』こそが目下、小説家・李琴峰の最高傑作だと言ってしまいたい誘惑に駆られる。これを読むことで私は、台湾と日本それぞれの政治勢力のねじれた共闘関係の背景を学び、『ハリー・ポッター』を愛読したクィアな読者が複雑な感情とともにJ・K・ローリングのトランス差別発言を受けとめたであろうことを思い、あるいはアメリカとイギリスそれぞれにおけるフェミニズムの傾向の違いを知った。

この小説は勉強になるから読んだ方がいい、と言っているわけではない(もちろん勉強にはなるのだが)。小説の雑多性をこんなにも豊穣ヴィヴィッドに示した作品は滅多にないと声を大にして訴えたいのだ。いったい、『言霊の幸う国で』の何がそんなに素晴らしいのかというと、この作品では、小説というジャンルにもともと備わっている「なんでもアリ」なところが、誇らしげに、そこかしこで顕現しているのである。小説というのは、ほんとうにどんな風に書いてもよい。出し抜けに戯曲のようになってもいいし、珍妙なポエムが挿入されてもいいし、現実の政治・歴史が改まった文体で説明されていてもよい。

とはいえ、たいていはそれぞれの小説家の文体や作風ができあがっていくにつれて、多方向に延びていく可能性のある「小説」が一定の方向・均一な感触によって統合されていく。琴峰ことみもまた作品を書くにつれてある程度は彼女なりの定まった文体のようなものを獲得してきたはずだ。

言い換えると、『言霊の幸う国で』を構成しているのは、琴峰ことみとよく似た小説家Lこと柳千慧の言葉だけではなく、(ときに暴力的に)彼女の存在そのものに触れてくる他者の言葉である。たとえば、この小説の語りは原則としてLに焦点をあてた三人称で書かれている。しかし、まずはそこに、安倍晋三に批判的なLを反日よばわりする匿名のネトウヨたちの書きこみが侵入する──〈パヨク芸人〉〈ビジネス左翼〉〈強烈な反日の新人! 日本人舐めてるし〉(65頁)。対中国という観点から安倍に期待していた台湾のひとびとまでが「台湾の恥」「中共の手先」「日台友好の害悪」(69頁)と言いだす始末。こうして日本と台湾、2方向からの電子的呪詛にさらされるLの運命は、しかしある意味では芥川賞受賞を知る以前からはじまっていた。知り合いの編集者たちとともに選考会の結果の連絡を待っていたLは、いよいよたまらなくなってトイレに行く。

個室に入って便座に腰を下ろし、音姫を鳴らした瞬間、電話が鳴り出した。
 Lは背筋が凍った。
今Lの耳には、二種類の音が聞こえている。スマホの着信音と、音姫の流水音。ここで電話に出たら、トイレの個室を満たしている音姫の流水音は電話の向こうの相手にも聞こえるに違いない。

李琴峰『言霊の幸う国で』21頁 太字強調は引用者

どこかコミカルな場面でもあるが、しかし異なる二種類の音に襲われるLの姿が、日本と台湾それぞれから好き放題罵倒されるその後の場面を予示していると解釈してもかまうまい。

李琴峰の『言霊の幸う国で』の文体的な多様性は、ネット上を飛び交う言葉を取り入れました、などというレベルではない。それくらいは別に珍しくもない。しかし、ストーカーに対して法律事務所を経由して送付した通知書(134-136頁他)はまさに法律関係の文書といった堅さを保持ししているが、そうかと思えば章と章のあいまにはLのエッセイ(91-95頁)が挿入され、彼女自身が「私」と語りだす。書き下し文付の漢詩(「幾春秋いくしゅんじゅう、共に塵夢じんむたのしみ」400頁)がでてくるだけでなく、終盤ではLGBTの神職による祝詞のりとまでがテクストの上で踊る(449頁)。小説は本来、このような多様性が花開いて当たり前のジャンルではなかったのか。そのことを改めて思い起こさせてくれる現代日本文学が台湾籍の小説家によって書かれたことは、祝福すべきことでなければならない。

特に、ボロボロに傷つくLに接する一人一人の人間が、それぞれの人柄を想像させてやまない語り口によって描き分けられている見事な多彩さに注目してほしい。以下に列挙してみよう(網羅的なリストではないことは言うまでもない)。

  • Lに話があると言われて、重たい打ち明け話を覚悟して少しおどけて「さあ、話を聞こうではないか」(245頁)と水を向ける杉山文野。

  • Lが過去に性別を変えたと聞かされて、驚きはするが取り乱さずに「ちさとちゃんはちさとちゃんだし」(272頁)と囁く恋人の小雪。

  • ノンバイナリーであることを公表した宇多田ヒカルへの微妙な違和感を打ち明けたLに同調せず糾弾もせず、「ふむふむ、なるほど。うむ、なるほど」(413頁)と考えこむ研究者の高井ゆと里。

  • 精力的な若手評論家ではあるが、どこかチャーミングで甘えるような声で「大変ですぅ」(435頁)なんて言ったりもする水上文。

『言霊のさきわう国で』から「懊悩の子」へ

では、このような『言霊の幸う国で』から「懊悩の子」へと受け継がれたものは何か。それ自体ですでに豊かでカラフルな長編『言霊の幸う国で』を、短編「懊悩の子」が書かれた今から振り返って読むと、どんな共通点が見えてくるか?

「懊悩の子」で前景化された「(過激な)フェミニストとトランスジェンダーの対立」という構図こそ、『言霊の幸う国で』の物語のなかでもっとも重要な要素であるように思える。この長編の登場人物たちはそれぞれがLと議論したり雑談したりする。ネット上には実名あるいは匿名でLを、あるいはトランスたちを差別し攻撃する言葉が流れている。だが、これら幾筋もの言葉の流れに曝されるLが誰よりも深く、火花を散らせて互いの心身を削りとるような対話を交わすのは、彼女の年来の友人である女性・めぐである。めぐは、いつまでたっても変わらない女性差別的な社会への嫌悪を募らせるあまり、トランスたちを差別する側に回ってしまった女性なのだ。

めぐはもともと、「死にたいとか、労働はクソだとか、会社はなんで倒産しないのかとか、人類はなんで滅亡しないのかとか、そんな憎まれ口を憚らず叩く」女性だった(397頁)。それでもLとめぐは一緒にSMバーやレズビアンバーを回り、海外旅行でともにトラブルを乗り越えつつ笑いあうような友人だったのだ。芥川賞まで獲ったLの小説を読もうとすらしなくても、二人の友情は揺らがなかった。だが、おそらくこのめぐという女性の怒りは、どこかで方向を間違えてしまったのだろう。自分を苦しめる男性たち、そんな男性の共犯となる異性愛者の女性たち、そんな世の中のほぼすべてに対する怒りがいつしか、めぐのなかでトランス差別という形をとってしまう。めぐの差別的なSNS投稿に耐えかねてやめてくれとLは言うが、めぐとてそれですんなりやめるような女性ではない。

Lはポケットティッシュで涙を拭きながら論した。「めぐちゃんを苦しめてるのは誰なのか、ちゃんと考えてよ。社会を変えたいならネットで攻撃的な発言をするんじゃなくて、もっと具体的な行動ができるんじゃないの?」  
 「してるよ!」
 めぐも涙がぽろぽろ落ちてきて、めがねを外してシャツの袖で涙を拭った。Lはポケットティッシュを渡そうとしたが、拒否された。めぐはまくし立て始めた。「女がこたつに入っちゃいけない、食事をする時に男たちは暖かいところでご飯を食べてるのに女は寒いキッチンで食べなければならない、そういう家庭で生まれたんだよ。(中略)たくさん行動したし、社会に対して刃物を振り回してきたよ」
 できるものなら、Lは今すぐめぐを抱きしめてあげたいと思った。

李琴峰『言霊の幸う国で』392頁

人生を通じて味わってきた違和感や屈辱にめぐの視界は曇り、もはや冷静に標的を選ぶこともできなくなっている。この「してるよ!」が最も印象に残ったのでこの箇所を引用したが、この前後のLとめぐの会話の場面すべてが素晴らしい。友人めぐと和解できるという希望を捨てきれないLの迷いや性別移行のことをめぐに伝えるか否かの逡巡が細かく描かれる。めぐはめぐで、おそらく内心では自分が誰かを理由もなく傷つけていることに気づいていて、けれど攻撃的な言葉を止められず、罠にかかった獣が必死でジタバタと体をよじるようにめぐの主張は支離滅裂に転変して、結局Lとは絶交して去っていく。私は近年、これほど長くスリリングで充実した、政治的にリアルで心理的に痛々しくペインフルでしかも文学的にカラフルな会話の場面を読んだことがない。

このLとめぐの決別の場面が「懊悩の子」の雛形になっているのではないか、というのが私の解釈だ。つまり、『言霊の幸う国で』では、めぐの男性嫌いがトランスジェンダー差別へと変質することで、それまではLをめぐに結びつけていた絆が切れていた。それは、「懊悩の子」で大野宇乃子の胎内の子どもが、宇乃子を見限って生まれることを拒絶することに対応する。めぐも宇乃子も女性として差別されてきたことは否定できないし、その点で彼女たちの男性嫌いにはいわば情状酌量の余地がある。だがその男性嫌いが包摂的なフェミニズムではなくトランス差別へと転じたことで、彼女たちはトランスの他者(L/胎児)との絆(=へその緒?)を切断されるのである。

ゆえに、『言霊の幸う国で』では直接的に描くことのできなかっためぐの内面を描き出すために、李琴峰は「懊悩の子」の大野宇乃子を創造した、というのが私の解釈である。もちろん、やはり作品そのものの長さゆえに、宇乃子よりもめぐの方がはるかに奥行きがあって、毒のある言葉ばかり吐いてはいても忘れがたい人物になってはいる。それゆえ、この「宇乃子=めぐ説」には一定の留保が必要かもしれない。たとえば、「懊悩の子」で宇乃子は、SNSでの男性嫌い/トランス差別のグループに参加する際に「雪キツネ」という名前を使う。そして『言霊の幸う国で』ではネット上でのアウティングなどを理由にLが(おそらく)台湾人のSNSアカウントの運用者たちを訴えるのだが、彼らのいくつかのアカウント名の第一にあがるのが「雪狐」である(255頁)。宇乃子の中でこれらの複数の人物が混ざりあって合流しているというのが実情に近いのではないだろうか。

以上、李琴峰の最新作と関連して述べてきたが、何はともあれまずは彼女の『言霊のさきわう国で』を読んでみてほしい。トランスジェンダーの問題に関して、若手女優の発言が批判を浴びて炎上・謝罪、なんてことがあったのは数年前だ。この問題は、見てみぬふりをしたところで今後も必ず再燃する。SNSの断片的情報で手前勝手に燃え上がる前に、冷静に事態を見つめる必要がある。李琴峰の『言霊のさきわう国で』は、ほんとうに問題を解決しようとする人のための最良の一冊である。

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