【野球と哲学】細野晴希のノーヒットノーランを観た私〜時間と場の同一性〜
2026年4月1日、エスコンフィールド北海道。
その瞬間を私は外野席から見ていた。
雄叫びを上げたその一瞬の後。
細野は綻んだ笑顔で、捕手と抱き合う。
選手たちが駆け寄ってもみくちゃになる。
球場のファンは熱狂に包まれる。
その瞬間、あの場では確かに何かが共有されていた。
腕の角度が変わって「別人」に?
今年のキャンプ。細野は、腕の角度を下げていた。今までは上から投げ下ろすようなフォームだったのが、少し斜めから通すようなフォームに変化している。
ノーヒットノーランの直後に出た記事で、細野を支えてきたトレーナーはこう語る。
──前々から“ちょっと上から投げすぎてるよね”みたいな話はしてたんですけど、今年の1月ですかね、エスコンフィールドで練習している細野から“北川さん、なんか僕やっぱり腕下げたほうがいいっすよね”って連絡が来た。そこから、さらに良くなりましたね。彼が自分で気づいたっていうのが良かったんです。
その変化によってコントロールが上達したことについては、記事を読んでいただきたい。
ともかく細野は変わったのだ。
本当にそうだろうか?
純粋持続と細野の変化
細野はフォームを変えた。投球が変わり、結果が変わった。
しかし私たちはそれが全く別人の細野だとは思わない。
たとえそう形容したとしても、表現したいのはあの日ドラフト1位で獲得した細野晴希である。
私たちは変化しているものを、それでも同じだと捉えることができる。
この感覚を説明する手がかりとして、アンリ・ベルクソンの「純粋持続」という考え方がある。
持続とは、意識の中で過去と現在、未来が明確に区切られることなく溶け合いながら進んでいくことである。
時計で計れる時間が「量的な時間」であり、純粋持続は「質的な時間」だ。
例えば、音は一つ一つに区切れるが、メロディーはその連続性によって成り立つ。そして「音楽」という一塊の持続を聞く者に与える。
この音楽を聞いた時間が切り離せない「質的な時間」ということになる。
細野は自分で腕の角度を下げた。
トレーナーが語ったように細野が自分で気づいたのは、純粋持続のなせるものではないだろうか。
それまでの間トレーナーを含めた色んな人からの助言や本人の違和感はあっただろうが、そういう過去を統合して、細野の中で何かが噛み合った瞬間が今年の1月だった。
フォームは変わったが、彼の中では連続性を持って訪れた変化である。
この連続性こそが彼を彼たらしめている。
一方、私たちの意識の中でも、細野の変化は連続性の中にある。
ドラフト1位での獲得、甲子園での初登板、さらなる成長のためのフォーム変更、そしてノーノー。
そのストーリーは彼が成長していく過程として我々の中に連続性を持って刻み込まれた。
そしてこれからもストーリーは続いていくと未来を予感させてくれる。
これがベルクソンの言う「純粋持続」なのだ。
球場の熱狂と連続性
私たちは野球を観る時、その試合を一つの連続したストーリーのように見てしまう。
実際は1回、1イニング、1アウト、1球……に分割できる量的な時間なのに、それを連続性のある1試合として捉える。
ではあの試合で流れていた時間はどうだろうか。
私は、ファンは、細野は、いつからそれが「ノーヒットノーラン」という記録とストーリーの一部だと感じていたのだろうか。
ベルクソンは「本能は見つけるが探さない。知性は探すが見つけない。」と好んで語った。
私たちは「どの瞬間に気づいたか」を正確には思い出せない。
それは、区切られた一点としてではなく、連続性の中で「ふと」立ち上がるものだからだ。
私も具体的にどの1球から「今日はノーノーあるぞ」と思ったのか、覚えていない。
だが5回頃だっただろうか。ふと、「今日ヒット出てなくない?」と思ったのだ。
これは本能の気づきだ。
7回頃にはX(旧Twitter)でもそのような情報が出回り始める。そして誰もが意識する。
細野も7回から意識したと語っている。
だが、7回が始まった瞬間、その試合がノーノーというストーリーに変わったわけではない。私たちはやはり知性でそれを見つけられない。
一つ言えるのは、最初の1球からノーノーのストーリーは続いていたはずだということだ。
最後の1球が投げられるまで、ノーノーという音楽は完成することがなかった。
そして途中のどの投球を抜きにしてもノーノーは語れない。
これもまた「純粋持続」の現れである。
共有されるということ
では、この持続は、私一人の中だけで生じていたのだろうか。
あの瞬間、球場全体で共有されていたものとは、一体何だったのだろうか。
私たちは完全に同じものを見ていたわけではない。
座席も違う。画面の向こうで見ていた人もいる。ノーノーの可能性に気づいたタイミングも、感情も違う。
それでも同じものを見ていたという感覚が残る。
それは同じ出来事を見ていたからというだけでなく、「同じ時間の質」を体験したからだ。
私の中では「今日はノーノーあるかも」と思った瞬間に、過去、未来、そして現在が連続性を帯びて、一つの持続として共有された。
純粋持続は、本来それぞれの意識の中で起こるものであるが、あの場では、それぞれの持続が、似た方向へと収束していった。
完全に同じ演奏でなくても、同じ音楽を想起させるように。
この共有を可能にしたのは、球場という「場」が持つ力ではないだろうか。
細野の緊張感、ファンの反応、盛り上がっていく空気。それらが雰囲気として感覚される。
誰かの息を呑む気配が伝わり、沈黙が広がり、一球ごとに拍手が大きくなっていく。
この連鎖の中で個々の感覚が少しずつ似通っていく。
ノーノーというストーリーは、個々の中で立ち上がりながら、同時に場全体で共有されていく。
誰かが歌い出した音楽を、一人、二人と伝わって、やがて球場全体が奏でるように。
私たちは同じではないが、同じ時間を生きている。
その中で質的なものを共有することで、同じストーリーを描くことができる。
それはファンだけではない。
細野自身も、自らが描いたストーリーの完成へと向かって投球をする。
一球一球の中に流れる質を感じ取り、その先にある未来を信じること。
それができるとき、野球はただの結果ではなく、ひとつの物語として立ち上がるのだ。
あとがき
あの球場で感じた共有は、決して野球だけのものではないのかもしれない。
私は先日はじめて反戦デモに行った。
(特定の政党・団体とは無関係です。)
世界の戦争にNOを突きつけたいこと、戦争によって日本が悪い方向に進むのを食い止めたいこと、その一心だった。
はじめは怖かった。
デモのイメージは、声が大きく、過激で、みんな怒っているというものだったからだ。
しかし場に出てみると、案外すんなりとペンライトを振れた。私が今まで見えなかった怒りの正体が、ここでは共有できたからだ。
そっと声を上げてみた。
歌も歌った。
不謹慎かもしれないが、野球の応援のようで、気持ち良かった。
でも、一般市民の自分がここまでしないといけないことには疑問が残った。
結果、私の参加したデモは過激なものではなかったが、やはりデモは人目につくし、正当であれ怒りを内包しているから、怖い。
できればやりたくない。
それでも私は周りの市民と同じ怒りを共有して、同じ質の時間を過ごせたことで、一緒に一つのストーリーを世の中に作り出すことができた。
後にTwitterでデモのニュースが海外に流れているのを見た時は誇らしかった。
思い描くストーリーが望まない方向に行っている人はぜひ行動してほしい。
過去は変えられないが、持続の中にある現在は未来へと開かれている。
