27歳、適応障害、東南アジアの旅⑩ -タイとマレーシア、いつか乗りたかった夜行列車-
2025年の初夏。5月11日から23日までの13日間。
適応障害の休職中。深夜の衝動に背中を押されるように、日本を飛び出しました。シンガポールからラオスまで。東南アジアを南から北へ、電車と陸路だけで縦断する旅。
予定も決めずフラフラと。ただ、心の底に沈んでいた澱のようなものが、少しずつ消化されていくのを感じながら、旅に身を委ねていた記憶です。
ペナン島で「ゆっくり」とした時間を過ごした僕は、この島に別れを告げ、広大なマレー半島をさらに北へ進むことに決めた。
宿の主人に、次の旅先を相談する。
どうやらタイの首都・バンコクへ向かう夜行列車が走っているらしい。
ただ、肝心のチケットをどうやって取るのかは、主人にもわからないみたいだ。とりあえず国境の街・パダン・ブサールまで行けば、どうにかなるらしい。
「まぁ、なんとかなるかな」
少しの期待と、それよりちょっと大きな不安を抱えながら、パダン・ブサールへ向かうことにした。
夜行列車へ
以前からずっとしてみたかったことがある、「夜行列車に乗る」ことだ。
いつもは寝る支度をする時間に電車に乗り込み、好きなだけ車窓を眺める。星なんか見ながら、飽きたら好きな時間に寝て、朝日とともに目覚める。
どこなのかもわからない場所に興奮しながら、あらかじめ買っていた常温のコーヒーを飲む。
何も特別なイベントなんて起きるわけではない。
でも、こんな旅をずっとしてみたかったのである。
日本で定期的に走る寝台列車は、今ではサンライズ瀬戸・出雲くらいになってしまった。
東京と西日本を結ぶ、あの優しい色の夜行列車。
いつか乗ってみたいと思いながら、結局その「いつか」は来ないまま、僕は社会人になってしまった。
社会人のスケジュールで生きていると、そんなゆっくりした移動を楽しむ余裕はなかった。
大阪に住んでいた僕にとって、東京は飛行機で1時間の場所だった。
商談や出張のたびに朝の便で飛び、夜には帰る。
毎週のように、ただ東京を往復していた。
情緒もクソもない。
僕にとってこの移動は、商談の緊張や数字のプレッシャーに耐える時間だった。
でも、今は仕事なんて関係ない。
ずっと後回しにしていた「いつか」をようやく味わえるかもしれない。
次の旅の目的地をバンコクに決め、念願の夜行列車に乗ることにした。
ペナン島から国境へ
ペナン島から国境の街パダン・ブサールへは、フェリーと電車で約2時間。
通勤用みたいな、ごく普通の電車に揺られながら北へ進む。

特別な特徴があるわけでもなく、日本の通勤電車にもありそうなロングシートタイプ。
日本と違うのは、人の目なんか気にせず床に座り込み、大声で会話を楽しんでいる人たちがいることぐらいだ。
日本で同じ光景を見れば、たぶん誰かが舌打ちをしている。
でも、僕はこの場所では部外者だし、誰かを注意する立場でも、正しさを決める立場にもない。
そんな自由な空気を「異国情緒」の一つとして眺めていた。
電車が進むにつれ、車内の人は一人、また一人と入れ替わっていった。そんなことにも気づかないうちに、電車は国境の街・パダン・ブサールに到着した。

「到着、、、してしまったなぁ」
(海外では毎度、目的地について嬉しいはずなのに、慣れた電車から放り出されて、また見知らぬ場所を歩き回る不安の方が少し勝る)
となると、しないといけない仕事は一つ、バンコク行きの夜行列車のチケットを取ることだ。
人づてに、駅の中にタイ国鉄のチケット販売所があることを聞き、探してみる。
20分ほどかけてようやく見つけた売り場は、まだ開いていなかった。簡単に作成された時刻表が一枚貼られているだけだった。

(見つけた時点で、あと10分)
数分待つと、販売所が開いた。もちろん、ぴったり時間通りではない。まぁこのくらいなら誤差だろう。
数分遅れのその販売所では、軍服みたいな威圧感のある制服を着たお兄さんが対応してくれた。
バンコクまでの夜行列車に乗りたいと伝える。
しかし、本日出発する夜行列車は全て埋まっているみたいだ。というか、基本的に毎日売り切れているみたいだ。
夜行列車に乗るためにここまで来たのだ。どうにか乗る方法はないか、と交渉してみる。
すると、ここから電車で30分ほどの街・ハジャイまで行けば、そこからバンコク行きの夜行列車に乗れるらしい。
「普段なら、ここでは買えないよ」
彼はそう言いながら、幸運にもハジャイ発のチケットを取り置いてくれた。
本当に、普段は買えないのかは知らない。
彼らの仕事、結構適当だし。
以前タイを訪れたときに使い切れなかったバーツをバックパックからかき集める。お釣りはいらないよと駅員さんに伝え、なんとか念願のチケットを購入することができた。

国境の街
電車がここを発つまで、まだかなりの時間がある。
せっかくなので、駅の周辺を歩いてみることにした。

どこまでレールは繋がっているのだろうか

気温も湿度も高く、雲だけがやけに遠い。
観光地らしい場所があるわけでもなく、特に何かが起きるわけでもない。
ただ見知らぬ街をぶらぶらと歩く。
こういった時間が、少しずつ好きになってきた。

僕を日本人だとわかると、なぜか星野源をBGMに流してくれた
異国の国境で聴く星野源。
どういう気遣いなのかはわからないけど、聞き慣れた日本語に少しだけ安心した。
冷たい飲み物を飲みながら、手に入れたばかりのチケットを何度も確認する。確かに自分の名前が書かれている。
今日の日付も、タイ語の文字も書いてある。
どうやら本当に今夜は夜行列車に乗れるみたいだ。
見つけてくれた3人組

無事に出国と入国の審査を済ませ、電車の出発を待つ。
審査の際、係官が怪訝そうな顔で僕のパスポートを眺めていた。
「シンガポールから来た。ラオスまで行くよ」
そう伝えると、彼は急に陽気な笑顔で親指を立ててくれた。
少し緊張していた気分が、その親指に助けられた。
「自分は今、海外にいるんだよな」
そんな当たり前のことを改めて考えながら、ハジャイ行きの列車に乗り込んだ。

かなり年季が入っていそう


よく見ると日本語が!「しまる・ゆるむ」
誰もいない席をあえて選び、ようやく落ち着いた僕は窓の外を眺める。
電車はすぐにマレーシアを離れ、思っていたよりもかなりのスピードで走り出した。

誰もいない車両を独り占めしながら、ハジャイまで一眠りでもするか。
そう思っていたところ、高校生ぐらいの年齢の男の子3人組がやってきた。
彼らはキョロキョロと座席を探すと、僕の隣に座った。
「こんなにガラガラなんだから、離れたところに座れよ…」
いかにも日本人らしく、そう思ってしまった。
彼らはこちらをチラチラ見ながら、何かコソコソ話している。
すると、そのうちの一人が「…日本人ですか…?」
と話しかけてきた。
あまりに自然な日本語だったので、一瞬、ここが日本なのかと勘違いしそうになった。話を聞くと、日本語を話せるのは一人だけ。学校で日本語の授業があるらしい。
一人でゆっくりできなくなった、と思っていた気持ちは、あっさり180度転換した。
簡単な日本語と英語を織り交ぜながら、彼らとの会話を楽しむ。途中、簡単なタイ語もいくつか教えてくれた。
彼ら3人は今まで日本人に会ったことがないという。
つまり彼らにとって、僕が人生で初めて出会った日本人らしい。
出国審査の列で日本人らしき男を見つけ、話しかけるために、わざわざ列車の端から端まで探してくれたそうだ。
わざわざ端の席で一人になっていて、なんだか申し訳ない。
そう思いながらも、人懐っこい彼らの笑顔と、一生懸命に日本語を話してくれる姿が嬉しくて、気づけば会話を楽しんでいた。
彼らは休みを利用して、ハジャイまで一泊二日の小旅行をするらしい。
高校生くらいの彼らが、列車で国境を越えて海外旅行する。日本とはずいぶんスケールが違うなと思ったが、彼らにとっては結構普通のことみたいだ。

彼らと話していると、列車はあっという間にハジャイへ到着した。
一緒に電車を降り、固く握手する。
お互いに「元気で」と声をかけ、別れた。
一人で眠りたくて選んだ端の車両で、まさか僕を探してくれた3人組と出会うとは思わなかった。
念願の夜行列車

駅は人でごった返している。
人混みを歩きながら、パダン・ブサールの駅員さんが取ってくれたチケットを手に、念願の夜行列車を探す。
10分ほど歩き、ようやく見つけた。
ずっと乗ってみたかった夜行列車。
そして、僕の今日の寝床だ。

雰囲気でなんとなくわかる


駅の中でお弁当を調達し、それを食べながら車窓を眺める。冷房完備。コンセントも完備。
流石にシャワーはないが、トイレはもちろん、食堂車だってある。
困ることは何もない。
困るとすれば、テンションが上がりすぎて、今夜ちゃんと眠れるのかわからないことくらいだ。

要するに卵焼きのせご飯

考えてみれば、これは、ずっと諦めていた「いつか」だ。
サンライズに乗らないまま社会人になり、飛行機で東京へ行っては、その日のうちに大阪へ帰っていた僕が、今夜は十数時間もかけて、たった一つの街へ向かっている。
速さで潰していたはずの時間を、今はわざわざ持て余している。
夜になると、乗務員が手際よくベッドを組み立てていく。
座席はあっという間に寝台へ変わり、車両はすっかり夜の顔になった。
狭い寝台によじ登って、横になる。
あれほど焦がれた「いつか」の中に、今、こうして寝ている。
.…..のだけど、いざその中に入ってみると、感動で胸がいっぱいになるわけでもなかった。
ただ、列車の揺れと、レールの継ぎ目を叩く音と、冷房の乾いたにおいがあるだけだ。
「まぁ、こんなものか」
願いというものは、叶った瞬間に花火みたいに爆発するのではなく、案外、こんなふうに静かになるものなのかもしれない。
それでも列車に揺られているうちに、さっきまでのはしゃぎが嘘のように、まぶたが重くなってきた。
-続く
