チョムスキー「言語と自由」── ことばと自由はなぜつながるのか?

そもそもチョムスキーって誰?
ノーム・チョムスキーは、20世紀後半を代表する知の巨人のひとりです。MITで長く言語学・哲学を教えた言語学者・思想家で、現在はMIT名誉教授、アリゾナ大学の言語学教授として知られています。
ひとつは「言語学の革命家」としての顔。
1957年に出版した小さな本『統辞構造論』(Syntactic Structures)が、その後の言語学を根本から変えてしまいました。
「チョムスキー革命」と呼ばれるほどです。
もうひとつは「鋭い社会批評家」としての顔。
ベトナム戦争に反対する論陣を張り、その後も世界各地の政治問題について発言し続けてきました。
このエッセイ「言語と自由」(Language and Freedom)は、1970年にシカゴのロヨラ大学で行われた講演で、チョムスキーが、「言語の研究」と「自由への思想」がどこで交わりうるのかを、慎重に探った貴重な一篇です(チョムスキー自身はこの接続を決して単純化していません。むしろ「言語」と「自由」を結ぶ道筋はまだ細く、未完成の問いであることを認めています。そのうえで、言語研究が人間の自由や社会のあり方を考えるための手がかりになりうる、と慎重に提案しているのです)
チョムスキーは自分の立場を「リバタリアン社会主義(libertarian socialism)」と呼びます。
少しややこしい言葉ですが、ざっくり言えばこういうものです。
国家による抑圧にも反対
資本主義による搾取にも反対
人々が自由に選び、自由に行動できる社会を理想とする
この発想のルーツを、彼はある哲学者たちにたどります。
シェリング、ルソー、カント、デカルト、そしてヴィルヘルム・フォン・フンボルト。
「人間の本質は、理性と自由にある」と考えた人たちです。
エッセイの出発点:「言語」と「自由」をどう結ぶか?
講演の冒頭で、チョムスキー自身がこう言っています。
「『言語と自由』というテーマで話してくれと頼まれたとき、私は当惑した。言語については語ることがある。自由についても語ることがある。しかし、この二つをつなぐ "and" はいったい何なのか?」
このエッセイは、その「and」を探す旅です。
第一の手がかり:ルソーの「不平等論」
チョムスキーがまず取り上げるのが、ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)です。
ルソーはここで、過激なことを言いました。
市民社会や法制度は、しばしば富者の既得権を正当化し、弱者に新たな鎖をかける仕組みとして働いてきた。
「貧しい人と金持ちを平等に扱う」という法は、結局のところ強者を守る道具にしかなっていない
暴君を打ち倒す革命は、暴君がそれまで人々を支配してきたのと同じくらい「正当」である
過激すぎて、当時の懸賞論文の審査員は最後まで読むのを拒否したそうです。
ルソーの核心:人間と動物の違いは「自由」
ルソーはこう論じます。動物は本能に従って機械のように動く。
一方、人間は本能に逆らうことができる。
それが「自由」だ、と。
「自然はすべての動物に命令し、獣はそれに従う。人間も同じ衝動を感じる。だが、人間は自分が従うか拒むかを自由に選べると気づいている。」
自由こそが人間の本質である、というのがルソーの結論です。
だから「奴隷の子は奴隷として生まれる」と決めた法律家たちは、「人間は人間として生まれない、と言ったに等しい」とルソーは怒ります。
第二の手がかり:カントとフンボルト
チョムスキーは、同じ思想がカントやフンボルトにも見られると言います。
カント:「自由になる準備ができていない人々」への反論
カントの時代、「庶民にはまだ自由を与えるには早い」と言う人がいました。フランス革命の混乱を見て、なおさらそう言われたのです。
カントの反論は鋭い。
「自由を一度も経験せずに、自由のための成熟など得られるはずがない。自由を使いこなせるようになるには、まず自由でなければならない。」
最初の試みは失敗するかもしれない。でも、失敗を恐れて自由を与えないかぎり、人間は永遠に成熟できない。
フンボルト:言語論と自由論を、同じ人間観から考えた人
ここでチョムスキーが最も力を入れて紹介するのが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトです。
フンボルトは二つの顔を持つ思想家でした。
一流の言語学者として、言語の本質を探究した
リバタリアン思想家として、国家による干渉を最小限にすべきだと説いた
彼の根本思想は「ビルドゥング(Bildung)」という一語に集約されます。これは、「個人や共同体や人類が、その潜在能力を最も豊かに、最も調和的に発展させること」を意味します。
フンボルトは言います。
「人間の真の目的は、自分の力を最高に、最も調和的に発展させることである。そのために最も必要なのが自由であり、もうひとつ必要なのが多様な状況だ。」
核心:「言語」がなぜ「自由」の証拠になるのか
ここからがチョムスキーの真骨頂です。
デカルトとその弟子たちは、こう考えました。
「他人にも心があると確信できる唯一のしるしは、その人が言葉を使う様子だ」
どういうことか? 言葉の使い方を観察してみてください。
刺激に縛られていない ── 同じ状況でも、人は違うことを言える
新しい、これまでに聞いたことのない文を作れる
状況に応じて適切に発話できる
聞き手の頭に新しい考えを呼び起こす
これは、単純な機械的反応だけでは説明しにくい。
少なくともデカルト派やチョムスキーが問題にした意味では、人間の言語使用は、ただ刺激に反応しているだけではなく、状況に応じて新しい表現を生み出す営みだと考えられました。
もちろん現代では、AIも自然な文章を生成します。だからこそ、「人間が言語を使う」とは何か、という問いはさらに重要になっています。ただ、チョムスキーが注目したのは、単なる出力ではなく、「なぜ人間は有限の規則から、状況に応じた無限の表現を生み出せるのか」という問題でした。
この「言語の創造的使用」こそが、その人に自由な精神があることの証拠だとデカルト派は考えたのです。
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