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【短編小説】(後)「サザンクロスの下で待っている」(2話完結)

後編 静かな夜と、私の言葉(最終話)

【前回までの物語】
東京から宮古島へ転校してきた高瀬真白は、青すぎる海にも、人との距離が近い島の空気にも、まだ馴染めずにいた。放課後、真白は川満漁港近くの公園へ向かうようになる。そこで出会ったのが、南十字星を待ち続ける天文部の少年、比嘉蒼だった。

蒼の家の食堂、母の夏美の温かさ、父の洋平が残す短い言葉。頼んでいないのに差し出される優しさに戸惑いながら、真白は少しずつ、この島にあるものを受け取り始めていた。

五月の終わり、新月に重なった夜。星は雲に隠れて見えなかった。それでも蒼の「見えなかったことも、ちゃんと見たことだから」という言葉は、真白の胸に静かに残る。

そして六月、島の風が変わり始める。

六月に入ると、宮古島の空は、春という言葉を置き去りにするように、いっそう濃く澄んでいった。光は肌に残るほど強くなり、風は湿り気を帯び、海は朝と夕方でまるで違う色を見せる。高瀬真白たかせましろは相変わらず、学校が終わると川満漁港へ向かった。

もう、逃げるためだけの場所ではなかった。そこには波の音があり、マングローブの影があり、時には比嘉蒼ひがあおが、誰かを待つように南の空を見上げていることもあった。

蒼の家の食堂にも、真白は少しずつ顔を出すようになっていた。最初は店の外に立ち、暖簾が風に揺れるのを眺めるだけだったのが、次には入口に近い席へ腰を下ろすようになり、今では蒼の母・比嘉夏海ひが・なつみが「真白ちゃん、今日は魚汁あるよ」と声をかけると、少しだけ迷ったあと、黙って椅子に座るようになった。大げさに迎えられず、理由を聞かれず、ただ温かいものを出されるだけだから、真白はそこにいられた。

食堂には、いつも湯気と出汁の匂いが満ちていた。昼を過ぎても、漁師や常連客がぽつぽつと暖簾をくぐり、魚の話や潮の話、どこかの船のエンジンの調子を、まるで天気の続きみたいに交わしていく。真白には分からない言葉も多く、方言の細かな意味までは拾えなかったが、笑い声の低さや、心配を隠した沈黙や、何気ない相づちに混じる温度だけは、少しずつ分かるようになっていた。

ここには、海で働き、海に食べさせてもらう人たちの毎日があった。蒼の父、比嘉洋平ひがようへいは、店の奥で網の手入れをしていることが多かった。寡黙な人だった。真白に、島には慣れたかとも、元気を出せとも言わない。ただ、ときどき真白の食べ終えた皿を見て、「食べるなら、大丈夫だ」と短く言った。

励ましには聞こえないのに、その言葉は不思議と嫌ではなかった。余計な飾りも、こちらの気持ちを覗き込むような優しさもないからこそ、真白の中にすっと残るのだろう。ある夕方、食堂の窓から海を見ていた真白に、網をほどいていた洋平が、思い出したようにふと声をかけた。

「海ばっかり見るな。風を見れ。海だけ見てたら遅れる。先に変わるのは、風さ」

真白はその意味を、すぐには飲み込めなかった。洋平はそれ以上説明を足さず、言葉を海へ戻すように手元の網へ視線を落とした。短い一言だったのに、そこには長い時間を海で過ごしてきた人だけが知っている重さがあり、潮の匂いと一緒に、真白の中へ静かに残った。

その日、蒼は厨房の横で、小さな魚図鑑を開いていた。真白がそっと覗き込むと、そこには赤い体に細かな斑点を散らした魚の写真が載っていて、紙の上にいるはずなのに、海の底からこちらを見上げているような不思議な存在感があった。蒼はその斑点を、星座の位置を確かめる時と同じ静かな手つきで、指先でそっとなぞった。

「スジアラ。沖縄ではアカジンミーバイって呼ぶ。うちの父さんたちは、たまに“ほしまだら”って言うわけ」

「ほしまだら?」

真白が聞き返すと、蒼は図鑑の中の赤い魚を見つめたまま、斑点のひとつに指先を置いた。

「うん。夜の海で見たら、赤い体に星が散ってるみたいに見えるんだって。普段はなかなか獲れんよ。荒れる前、風が変わって、底の潮がふっと動く一瞬だけ、浅い方へ上がってくるらしいさ」

「荒れる前にしか出ないの?」

「父さんはそう言ってる。幻って言ったら怒るよ。いないんじゃなくて、条件が合わんと見えないだけだって」

真白は、魚図鑑の写真をじっと見つめた。空には南十字星があり、海には星斑ほしまだらがいる。どちらも、見たいと思った時にすぐ見えるものではなく、待って、読んで、ほんの少しの変化に気づいた人だけが出会えるものなのだろう。真白はその魚の名前を、前に南十字星の名前を覚えた時と同じように、心の余白へ小さく書き留めた。

数日後、島の風が変わった。海はまだ穏やかに見え、空もすぐに崩れそうな顔はしていなかったのに、食堂の暖簾だけが、さっきから同じ方向へ強く引っ張られている。昼下がりの湯気の中で交わされる漁師たちの声も、いつもより少し低く、誰もはっきりとは言わないまま、海の奥で何かが動き始めていることだけを、互いに確かめ合っているようだった。

夏美は厨房に立ちながらも、何度も窓の外へ目をやっていた。朝から船を出す準備をしている洋平の背中を見て、「今日はやめときなさい。空が変だよ」と声をかけると、洋平はその言葉を受け止めるように一度だけ手を止めた。それでも空を見上げることはせず、店先まで出て、頬をかすめる風の向きだけを静かに確かめた。

「荒れてからじゃ遅いさ。荒れる前だから上がるわけ」

洋平がそう言うと、夏美は小さく息を吐き、畳まれていく網と、その向こうにある海を交互に見た。

「真白ちゃんに、ほしまだら食べさせたいわけ?」

洋平は少しだけ黙った。返事をすれば余計なものまで見透かされると分かっているように、畳んだ網を腕に抱え、視線をそらしたまま短く言った。

「店に出すだけさ」

昼過ぎには戻る。洋平はそれだけ言い残して、港を出ていった。真白は、船がゆっくり岸を離れていくのを見送りながら、海の向こうへ小さくなっていく洋平の背中を目で追った。隣にいる蒼はいつもより口数が少なく、父の判断を信じているようにも見えたし、どこかで風の速さを測り続けているようにも見えた。

真白は何も言わず、ただ海を見た。海だけ見るな、風を見ろ。洋平の残した言葉が胸の奥で小さく鳴り続け、目の前に広がる穏やかな海ではなく、その少し先でまだ形になっていない変化を見ろと、誰かに静かに促されているような気がした。

夕方になると、空の色が急に鈍くなった。低く垂れ込めた雲の下で、海面には細かい皺のような波が走り始め、食堂の中にまで、外の気配がじわりと染み込んでくる。その時、棚の上に置かれた無線機から、ざざ、と砂をこすったような音が鳴り、夏美が包丁を持つ手を止め、蒼がはっと顔を上げた。

『川満港、こちら第三ひが丸。感度あるか』

砂を噛んだような雑音の奥から、洋平の声が聞こえた。いつもより少し遠く、海と風の向こうから押し戻されてくるような声だった。夏美はすぐに無線機へ駆け寄り、濡れてもいない手を一度だけ前掛けで拭いてから、マイクを握った。

「第三ひが丸、こちら食堂。聞こえてるよ。今どこにいるわけ?」

『南側、マングローブの外さ。少し風が回ってる。昼過ぎには戻るつもりだったが、遅れる』

「だから言ったでしょう。早く戻りなさいよ」

『戻るさ。心配するな』

短い返事だった。いつもの洋平の声だったはずなのに、無線の雑音がその言葉の端を削っていくせいで、真白には、海そのものが何かを隠そうとしているように聞こえた。

そこで一度、音が割れた。ざあっという雑音の向こうで、何かが船体に当たったような鈍い音が混じり、食堂の中にいた全員が、同じ瞬間に息を止めた。夏美はマイクを握り直し、無線機に顔を近づけるようにして、もう一度呼びかけた。

「第三ひが丸、聞こえるね? 洋平、返事しなさい」

返事はなかった。

港には、あっという間に人が集まった。雨はまだ本降りではないのに、風だけが先に荒れ始め、ロープが鳴り、看板が軋み、マングローブの黒い影が海の方からざわざわと揺れている。夏美は無線機の前から離れず、何度も同じ呼びかけを繰り返した。

「第三ひが丸、応答して。洋平、聞こえるね? 聞こえてるなら返事しなさい」

返ってくるのは、途切れ途切れの雑音だけだった。その白く濁った音が、食堂の湯気も、人の声も、さっきまでそこにあった日常の温度までも、少しずつ海の向こうへさらっていくように聞こえた。

蒼は岸壁の端に立ち、暗くなり始めた海をじっと見ていた。風に押されるようにして、そこへ湊が駆け込んでくる。肩で荒く息をしながら、片手には懐中電灯、もう片方の腕にはロープを抱えていて、いつもの軽い笑顔はどこにもなかった。

「蒼、港の人たち、集まってる。先生にも連絡した」

湊が息を整えながらそう言うと、少し遅れて城間先生の車が港の入口に止まった。助手席からさくらが降り、後部座席からは健人が静かに出てくる。その後ろには翔と陽菜もいて、どちらも何を言えばいいのか分からないような、気まずそうな顔をしていた。誰も冗談を言わなかった。前の教室で、真白を遠巻きに見ていた人たちまで、今は同じ港の風に吹かれ、同じ海の暗さを見つめていた。

「今の風だと……」

蒼の声は低く、風の音に混じって沈み込むようだった。真白は隣に立ち、暗くなり始めた海を見つめる蒼の横顔へ、そっと目を向けた。

「今の風だと、何?」

蒼は海から目を離さないまま、ゆっくり言葉を継いだ。

「マングローブの奥に入ってたら、大きい船は近づけん。浅瀬が複雑だし、潮も速いわけ。エンジンが止まってたら、たとえ見つけても、すぐには引き出せんかもしれない」

蒼は取り乱していなかった。泣き叫ぶこともなく、ただ暗い海を見つめていた。海を知っているからこそ、そこに潜む最悪の形が見えてしまい、知っているからこそ、軽々しく動くこともできないのだろう。真白はその横顔を見た。星を待つ時の静かな横顔とは違う。そこには、ただ待つしかない人だけが抱える、声にならない怖さが浮かんでいた。

その瞬間、真白の中で、洋平の声がはっきりと蘇った。海だけ見るな、風を見ろ。風が先に変わる。何気なく聞き流したはずの言葉が、今になって暗い海の向こうを指し示すように胸の奥で鳴り、真白は濡れた髪を耳にかけながら、震えそうになる息をゆっくり吸い込んだ。

「比嘉くん」

真白が呼ぶと、蒼がこちらを見た。その目には、何かにすがりたい気持ちと、すがってはいけないと分かっている怖さが、同じ暗さで揺れていた。真白は自分の声が震えていないかを確かめるように、ひとつずつ言葉を選んだ。

怖さを煽りたいわけではなく、根拠のない希望を差し出したいわけでもない。ただ、見えているかもしれない可能性を、見えないふりのまま海へ沈めたくなかった。

「お父さんは言ってた。海だけ見るな、風を見ろって」

蒼の目が、ほんの少し揺れた。真白はその揺れを見ながら、胸の奥に残っている洋平の言葉を、ひとつずつ拾い上げるように続けた。

「お父さんなら、風を読んでる。流されたんじゃなくて、最初から逃げる場所を選んだんじゃない?」

「逃げる場所……」

蒼が低く繰り返す。真白は暗い海へ目を向け、まだ形になっていない考えを、どうにか言葉に変えていった。

「ほしまだらは、荒れる前に出るんだよね。だったら、お父さんは荒れる前の海を読んで出た。風が変わったなら、その次に読むのは、逃げ込める入り江なんじゃないの」

蒼はしばらく黙っていた。風に濡れた前髪が額に張りつき、低い波の音だけが二人のあいだを流れていく。

「……たしかに、父さんなら、ただ流されるだけじゃないはずさ」

その声には、まだ不安が残っていた。それでも、さっきまで凍りついていた蒼の目に、もう一度、海を読む人の光が戻り始めていた。

蒼の顔に、考える色が戻った。真白はすぐにスマートフォンを取り出し、父に電話をかける。何度目かの呼び出し音のあと、高瀬透たかせとおるが出た。

「真白? どうした」

真白は、胸の中で絡まりそうになる言葉を一息で押し出した。

「お父さん、川満漁港の南側、マングローブの奥の潮の流れ、分かる?」

電話の向こうで、父の声が変わった。家で聞く声ではなく、仕事場で海や土地の変化を読む時の声だった。

「何があった」

「比嘉くんのお父さんの船が戻らない。風が変わってる。マングローブの浅瀬に逃げ込んだかもしれない。今の潮位と風向き、見られる?」

「分かった。すぐ確認する。最後に無線が入った場所は?」

「川満漁港の南側。ほしまだらを狙って出たって」

父はそれ以上、余計なことを聞かなかった。不安をなだめる言葉も、落ち着けという言葉もなく、ただ必要な情報だけを受け取り、すぐに動き出す人の声になっていた。

真白は初めて、父の仕事を遠くから眺めるものではなく、自分の手の届く場所で動いているものとして感じていた。東京から自分を連れてきた理由も、ずっと胸の奥でくすぶっていた納得できなさも、この夜だけは、誰かを暗い海から帰すための手がかりへ変わろうとしている。そのことが悔しいくらい確かで、真白はスマートフォンを握る手に、そっと力を込めた。

数分後、透から送られてきた地図と潮位のデータを、真白は港の大人たちに見せた。雨に濡れた髪が頬に張りつき、声も決して大きくはなかったが、その言葉は不思議なくらいまっすぐ届いていく。真白は地図の上に指を置き、風向きと潮の流れをひとつずつ結びながら、見えない海の中にまだ残されている可能性を、暗闇からそっと拾い上げるように説明していった。

「この潮位なら、大きな船は無理でも、小さな漁船なら入れる場所があります」

港の大人たちが、いっせいに地図へ身を乗り出した。城間先生が横からライトを当て、健人が雨でめくれそうになる地図の端を黙って押さえる。さくらは夏美のそばに立ち、震えているその手を、何も言わずにそっと支えていた。

「風は南東から変わっています。流されたというより、避けた可能性があります。この入り江なら、マングローブが風よけになる。船を隠す場所としては、ここが一番近いです」

誰かが「危ないさ」と言い、別の誰かが「暗すぎるわけ」と低く呟いた。判断を間違えれば、助けに行く船まで危険にさらすことになる。真白にもそれは分かっていた。分かった上で、地図から顔を上げる。

「誰も行かないなら、私がマングローブの岸から歩いて探します」

その場の空気が、ぴたりと止まった。真白は叫んでいるわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ、本当に行くつもりでそこに立っていた。蒼が一歩、真白の方へ踏み出し、湊が息を呑む。翔は小さく「無茶だろ」と呟き、陽菜は何か言いかけたまま、雨の音の中で言葉を飲み込んだ。

港の大人たちの目つきが変わった。

「高校生にそこまで言わせて、黙っていられるか」
「小さい船を出せ。浅瀬を知ってるやつだけ乗れ」
「無線持ってけ。ライトもロープも忘れるなよ」

声が次々に上がり、港が一気に動き出した。人が走り、結ばれていたロープが解かれ、雨の中にいくつものライトが灯って、小型船のエンジンが低く唸り始める。救助に出る船の無線機から、雨と風に削られたざらついた声が飛んだ。

『こちら第二かりゆし。これよりマングローブ南側へ向かう。第三ひが丸、聞こえたら応答してくれ』

無線は雨と風を拾い、何度も白い雑音を吐いた。

『第三ひが丸、応答せよ。洋平さん、聞こえてるね?』

真白は岸壁で地図を握りしめていた。指先は冷えているのに、胸の奥だけが熱かった。見えなかった夜を観測ノートに残すように、今、自分は見えない海へ言葉を投げているのだと思った。返事がなくても、そこにいるかもしれない人を、いなかったことにしないために。

救助の船が港を離れると、そこには待つ時間だけが残った。雨は本降りになり、風はさらに強まっていく。夏美は食堂の軒下で両手を組み、蒼は濡れた岸壁から一歩も動かず、さくらは黙って真白の隣に立っていた。

健人は何も言わずに予備のライトを持ち、湊は無線の音に耳を澄ませている。翔と陽菜も、もう誰かをからかう顔ではなく、暗い海の向こうへ、それぞれの不安を押し黙ったまま向けていた。

『こちら第二かりゆし。南側入り江へ近づいてる。波、高い。視界、悪い』

無線の声が一度途切れ、雨と風を巻き込んだ白い雑音だけが港に流れた。誰も動かなかった。次の声を待つあいだ、ロープの鳴る音も、軒先を叩く雨音も、やけに遠く聞こえた。

『マングローブ奥、ライトらしきもの確認。繰り返す、ライトらしきもの確認』

港のざわめきが、そこでぴたりと止まった。真白は息を吸うのも忘れ、雨の向こうへ目を凝らした。マングローブの黒い影のさらに奥で、小さな光がひとつ揺れている。こちらへ近づいているのか、波に押されているだけなのか、最初は誰にも分からなかった。次の無線が入るまでのわずかな時間が、永遠みたいに長く伸びていく。

『見つけた。第三ひが丸。船体、傷入ってる。洋平さん、生きてる。繰り返す、洋平さん、生きてる』

その瞬間、港の空気が一度に崩れた。夏美がその場に座り込み、さくらが慌てて肩を抱く。蒼は泣きそうな顔をしているのに、まだ海から目を離せずにいた。真白はその時になってようやく、自分の指先が細かく震えていることに気づいた。

救助船に引かれるようにして、洋平の船が港へ戻ってきた。船体にはいくつもの傷が入り、甲板には雨と海水が溜まり、片方だけ残ったライトが、岸壁を弱々しく照らしている。洋平が船から降りるなり、夏美は駆け寄って、その肩を力いっぱい叩いた。

「馬鹿。本当に、馬鹿だよ」

洋平は疲れ切った顔で、少しだけ笑った。

星斑ほしまだらは、逃げた」

その場にいた漁師たちが、泣き笑いのような声を上げた。蒼は何も言えず、ただ父の濡れた袖を掴んでいる。洋平はその手を振りほどくこともせず、蒼の頭に一度だけ大きな手を置くと、それから真白へ目を向けた。何かを言いかけて、やめたあと、海で削られたような低い声で、短く尋ねた。

「風、見たか」

真白はすぐに返事ができなかった。喉の奥が熱くなり、言葉にしようとすれば何かがこぼれてしまいそうで、ただ小さくうなずくのが精いっぱいだった。洋平も、それ以上は聞かなかった。満足したように一度だけうなずくと、その時、港を吹き抜けていた風が、役目を終えたみたいにふっと弱まった。雨の音が細くなり、雲の切れ目が夜空に開いていく。蒼がふと顔を上げ、南の水平線の方角を見て、静かに目を細めた。

「……今なら、見えるかもしれん」

蒼がぽつりと言うと、真白もつられるように空を見上げた。

「何が?」
「サザンクロス」

誰かが「丘に上がるか」と言った。不思議なことに、誰も笑わなかった。漁師たちは濡れた合羽のまま、夏美は泣き腫らした顔のまま、クラスメイトたちは気まずそうに黙ったまま、それでも一人、また一人と、公園の丘へ向かって歩き出した。真白もその流れの中にいた。

逃げるためではなく、誰かの後ろに隠れるためでもなく、ただ同じ空を見るために、みんなと一緒に丘へ向かった。

丘の上に着くと、湿った草が靴の底にまとわりついた。海はまだ荒れた息を残し、港の灯りは小さく揺れ、マングローブの影は濡れた黒になって夜の中へ沈んでいる。蒼は南の水平線を指した。

「あそこ。水平線のすぐ上。低いところさ」

最初、真白には何も見えなかった。前の夜と同じように、ただ暗い空が広がっているだけに思えた。蒼は焦らず、ひとつずつ星の位置を教えていく。

湊も隣で小さく頷き、さくらは息を殺すように空を見つめ、健人は無言のまま目を細めていた。翔も陽菜も、今だけは誰かの反応を気にすることなく、低い南の空へ、それぞれの沈黙をまっすぐ向けていた。

やがて、南の低い空に、頼りないほど淡い十字の星が浮かび上がった。南十字星だった。思っていたより小さく、思っていたより低く、雲が少しでも戻ればすぐに消えてしまいそうなのに、それでも確かにそこにある。真白は息を止めた。見えなかった夜の奥で、星はずっと消えずに待っていたのだ。

「見えたね」

さくらが小さく言った。湊が「やっとだな」と笑い、蒼は何も言わず、ただ真白の横顔を見ていた。

真白は膝の上にスケッチブックを開いた。まだ何も描かれていない白いページへ黒い鉛筆の先を置き、ゆっくりと一本の線を引く。それは、海と空の境目の線だった。

「描くんだ」

蒼が小さく言った。真白はページを見つめたまま、静かにうなずいた。

「うん。ここから」

その声は、前よりも少しだけはっきりしていた。

翌日、教室の空気は、ほんの少し変わっていた。真白がいつもの窓際の席に着くと、翔が気まずそうに近づいてきて、陽菜はその少し後ろで、言葉を探すように立ち止まっている。さくらは前の席から黙って様子を見ており、健人は隣でノートを開いたまま、聞いていないふりをしながら、鉛筆の先だけを静かに止めていた。

「昨日、港にいたんだろ」
「うん」
「比嘉のお父さん、助かってよかったさ」
「うん」

短い沈黙が落ちた。
翔は頭を掻き、視線を逸らしながら、
「あのさ、今まで悪かった。変なこと言って」
と、いつもの大きな声ではなく、少しだけ低い声で言った。

陽菜もその横で小さく口を開き、
「わたしも。ごめんね」
と、真白の顔を見るような、見られないような曖昧な目で呟いた。

真白はすぐには答えなかった。窓の外に広がる青を見た。前と同じ青なのに、そこにはもう、ただ眩しいだけではない何かが混じっている気がした。

「怒ってないわけじゃない」

翔が目を丸くし、陽菜も息を止めた。真白はその反応に流されないよう、ゆっくり言葉を選びながら続けた。

「ただ、怒ってるだけで終わりにしたくない」

教室の空気が、少しだけ揺れた。真白は、翔や陽菜をすぐに許したわけではなかったし、かといって責め続けたいわけでもなかった。傷ついたことをなかったことにはしないまま、それでもここから先へ進むために、自分の言葉で静かに線を引いた。それだけで、今の真白には十分だった。

城間先生は教卓の前で、何も言わずにその様子を見ていた。授業が始まる直前、真白の机の横を通り過ぎる時だけ、ほんの少し声を落とす。

「言葉は、急がんでいいさ」

真白は小さくうなずいた。その一言は、宮古島に来た日の教室で聞いた言葉と静かにつながり、遅くてもいい、震えていてもいい、それでも自分の言葉で話せば届くのだと、真白の胸にそっと残った。

数日後、真白は父から、話があると言われた。夕食を終えたあと、高瀬透たかせとおるはテーブルの向こうで手を組み、いつもより慎重に言葉を探していた。その沈黙の長さだけで、これから聞く話が小さなものではないことを、真白はもう分かってしまった。

「会社から、海外プロジェクトの話が来ている」
透がそう言うと、真白は箸を置いた。食卓の上に、小さな音がひとつ落ちる。

「場所は?」
「オーストラリア。ウルルの近くになると思う。乾燥地の植生回復と、水資源の調査に関わる仕事だ」

また、と思った瞬間、真白の胸の奥がざらりとした。宮古島に来たばかりのころ、何も言えないまま父の決めた場所へ運ばれてきた自分が、白いページの向こうからこちらを見ている気がした。あの時と同じように黙って飲み込めば、また自分の生活が、誰かの太い筆で別の色へ塗り替えられてしまう。透は、そんな真白の沈黙を急かすことなく、少し間を置いてから続きを口にした。

「急な話だ。ただ、今度はお前に先に話したかった」

真白は、しばらく黙った。怒りはあったし、寂しさもあった。せっかく自分の手で引き始めた線を、また誰かの太い筆で別の色へ塗り替えられてしまうような気もした。それでも、前と同じように胸の奥へ押し込んで、何もなかった顔をする気にはなれなかった。

「行くのが嫌なんじゃない」

その言葉に、透が顔を上げた。真白は逃げずにその目を見つめ、胸の奥でずっと白く固まっていたものを、ひとつずつ自分の言葉へ変えていった。

「勝手に決められるのが嫌だった。私の生活も、私のものだから」

透は何も言わなかった。言い訳もしなかった。ただ、その言葉を受け止めるように、深くうなずいた。


「分かった。ちゃんと話す。お前の気持ちも聞く」

真白はその言葉を聞きながら、自分の声がちゃんと届いたことを感じていた。大きな声でなくても、強い言葉で押し切らなくても、胸の奥から差し出した言葉は、届く時には届く。静かな声にも、自分の場所を守る力があるのだと、今の真白はもう知っていた。

出発が決まる少し前、真白は蒼にそのことを話した。川満漁港へ向かうのかと思っていた真白を、蒼は学校の理科準備室の奥へ連れていった。そこは天文部の部室で、使われなくなった顕微鏡の箱や古い標本棚の隙間に押し込まれるように、ひっそりと存在していた。

壁には黄ばんだ星図が貼られ、棚には三脚と、レンズに細かな傷の入った双眼鏡が置かれている。窓際には何冊もの観測ノートが積まれていて、蒼はその中から一冊を選ぶと、真白の前へ静かに置いた。

「これ、南十字星の記録」

真白がページをめくると、そこには星が見えた日の記録より、見えなかった日の記録の方がずっと多く残されていた。雲、観測できず。月明かり強すぎ。水平線に霞、不可。短い言葉が何年分も並び、見えなかった夜たちが、消されることなく紙の上で静かに息をしていた。

「見えなかった日まで書くんだ」
「うん。見えんかったことも、ちゃんと見たことだからさ」

真白はその言葉を、ゆっくり胸の中に落とした。

宮古島に来たことも、ここを離れることも、真白にはまだうまく意味にできなかった。それでも、意味が分からないまま過ぎていく時間まで、消えてしまうわけではないのだと、少しだけ思えた。蒼は星図の上に指を置き、宮古島の南に広がる空をなぞるように、低い声で言った。

「宮古島から見るサザンクロスは低いさ。水平線の近くだから、雲に隠れやすいわけ」

それから蒼は、星図のもっと南の空へ指を滑らせた。

「オーストラリアなら、もっと高く見えるはず。ウルルの近くだったら、宮古よりずっとはっきり見えると思う」
「同じ星なのに?」
「同じ星さ。見える場所が違うだけ」

真白は、星図の上に引かれた線を見つめた。東京での自分、宮古島での自分、これから向かうまだ知らない土地での自分。そのどれも別々の自分のようでいて、きっと全部つながっている。場所が変われば、同じ星でも見え方が変わるのなら、自分もそうなのかもしれないと、真白は星図の白い余白を見つめながら思った。

出発前夜、真白と蒼はもう一度、川満漁港の丘に立った。南十字星は見えなかった。雲が低く垂れ、水平線は黒く閉ざされている。前なら、真白はそれを失敗だと思ったかもしれない。今は違った。見えない星も、そこにないわけではない。

「向こうで見えたら、描く」
真白が言うと、蒼は少し笑った。
「送って」
「うん」
「俺は、こっちで記録するさ」

真白は蒼を見た。
「待ってて、とは言わない」
蒼は少しだけ目を細めた。
「うん。じゃあ、俺が勝手に待ってる」
「どこで?」
「サザンクロスの下で」

その言葉は、真白の胸に静かに残った。

真白が宮古島を離れてから、三週間が過ぎた。オーストラリアの夜は、宮古島の夜とはまったく違っていた。湿った潮の匂いはなく、風は乾いていて、赤い大地の熱だけが、日が落ちたあとも足元に残っている。遠くに黒く沈むウルルの影を見ながら、真白はスケッチブックを抱えていた。

スマートフォンが短く震えた。蒼からだった。
「今夜、見えそうさ」

真白は空を見上げた。南の空に、宮古島で見た時よりもずっと高く、はっきりとした星の十字が浮かんでいる。
「こっちも」
それだけ打って、送信した。

同じころ、宮古島の川満漁港では、蒼が丘の上に立っていた。南の水平線ぎりぎり、雲の切れ間に、頼りないほど淡い南十字星が見えている。真白がいる空とは、きっとまったく違う見え方をしている。それでも、同じ星だった。

真白はスケッチブックを開いた。あの日、宮古島で引いた海と空の境目の線。その隣に、今度は赤い大地と夜空の境目を描いていく。白いページは、もう何もない場所ではなかった。線を引けば、そこから景色は始まるのだと、真白は知っていた。

宮古島では、蒼が天文部の観測ノートを開いていた。鉛筆の先を紙に置き、いつものように短く記録を書く。

六月二十八日。南十字星、観測。
宮古島、川満漁港の丘。
同時刻、オーストラリアでも観測。
サザンクロスは、遠い空で静かに輝いていた。

宮古島でも、ウルルの夜でも、見え方は違っても、同じ星だった。描かれていない未来は、消えているのではない。これから、自分の手で描いていける。真白は赤い大地の上で、もう一度、空を見上げた。

サザンクロスの下で待っている。その言葉は、誰かを縛る約束ではなく、離れた場所で同じ空を見上げるための、ふたりだけの静かな合図になった。

(おしまい)

前編へもどる

《あとがき》

前後編の読み切り小説を書くのは、今回が初めてでした。1話完結のつもりで始めた物語でしたが、真白や蒼たちを書いているうちに、思っていた以上に長い旅になりました。途中で何度もバテそうになり、書き終えたあとは、しばらく何もできないくらいぐったりしていました。(苦笑)

それでも、宮古島の空と海、見えなかった星、そして真白が自分の言葉を見つけていく時間を、最後まで書き切ることができてよかったです。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。



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