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【短編小説】(前)「サザンクロスの下で待っている」(2話完結)

前編 真白な転校生

【あらすじ】
環境エンジニアの父の仕事の都合で、東京から宮古島へ移り住むことになった高校一年の女の子・真白。青すぎる海と近すぎる人の距離に心が追いつかず、放課後は川満漁港でひとり過ごしていた。そんな彼女に気づいたのは、同じ高校に通う男の子・比嘉蒼。「日本で一番美しい夜空が見える天文部」だと自負する彼は、真白に無理に島を好きになれとは言わない。港の食堂、海で生きる人々、見えない星を待つ夜。真白を元気づけようと、蒼の父はある計画を立てる。それはやがて、島の人たちを巻き込む出来事へとつながっていく。


寒緋桜かんひざくらが、島の生ぬるい風に揺れていた。ソメイヨシノのような淡いピンクではなく、誰かの強い意志が木々にぽつぽつと灯ったような、濃い赤紫色の桜だった。宮古島に冬の終わりを告げる、二月の上旬。高瀬真白たかせましろがこの島へやってきたのは、ちょうどそんな季節だった。

東京から見れば、ここは「南国の楽園」なのかもしれない。飛行機を降りた瞬間、真白を包み込んだのは、ねっとりと肌にまとわりつく湿気と、目が眩むほどの青だった。宮古島の海は、真白には青すぎた。空は逃げ場がないほど明るく、そのぶんアスファルトに落ちる自分の影だけが、境界線を引いたみたいに濃く見えた。

父の転勤は、いつも突然だった。環境エンジニアとして、マングローブ林や海辺の生態系を調査する臨時のプロジェクトが決まったのだと、父は荷造りをしながら言った。

「大事な仕事なんだ、真白」
その声に嘘はない。だからこそ、真白は何も言えなかった。

そこには、真白の気持ちを尋ねる余白だけが、きれいに抜け落ちていた。

東京に置いてきた学校、友達、まだ自分の匂いが残っていた部屋、休日になると何となく歩いていた駅前の道。そういう小さな日常が、父の仕事の都合という太くて硬い筆で、真白の知らない色へ次々と塗り替えられていく。

嫌だと言えばよかったのかもしれない。寂しいと泣けば、何かが変わったのかもしれない。それでも真白は、怒ることも泣くこともできないまま、胸の奥にできた白い空白へ、その変化を静かに沈めていた。

東京にいたころの真白は、目立つ子ではなかった。多くを話すわけでもなく、教室の少し静かな場所にいつも席を置いていた。それでもクラスで浮いていたわけではないし、寂しい思いをしていたわけでもない。不思議と、真白の周りにはいつも誰かがいた。

自分から誰かの輪に深く混ざろうとはしない。相手を値踏みしたり、傷つけたりもしない。ただ、スケッチブックの真っ白なページのように、静かにそこにいる。そんな真白の引き算みたいな静けさを、「一緒にいて楽」と言ってくれる友達が、東京にはちゃんといた。真白は空っぽなのではなく、まだ誰にも勝手に色を塗らせていないだけだった。

春休みが終わり、四月。真白は宮古島の高校に転校生として迎えられた。寒緋桜の濃い色は葉の影に隠れ、島の空はますます青さを増していた。新しい制服に袖を通し、教室の扉の前に立った時、真白は自分だけが白い紙のまま、色の濃い絵の中へ置かれるような気がした。

担任の城間しろま先生は、眼鏡の奥の目をやわらかく細めて、黒板に真白の名前を書いた。

「東京から来た高瀬真白さんです。みんな、急に距離を詰めすぎないようにね。言葉は、急がなくていいから」

教室のざわめきが、ほんの少しだけ静まった。真白はその一言に驚いた。自分の中にある言葉の遅さを、責めずに置いてくれた人は、この島に来て初めてだった。

新しい席に着いた瞬間から、島の子たちは信じられないほど人懐っこい笑顔で真白を囲んだ。

「ねえねえ、東京のどこから来たの?」
「制服、前の学校のやつ?かわいいね」
「宮古そば、もう食べた?」

心の壁なんて最初から存在しないみたいに、島の子たちは笑いながら距離を縮めてくる。耳にまだ馴染まない、波の音に似たイントネーション。肩先に触れそうな近さで交わされる声。開け放たれた窓の向こうには、どこまでも濃い空と海が広がっている。その明るさも、人懐っこさも、真白には一度に押し寄せる色の洪水みたいで、うまく言葉を返そうとするほど、心のピントはぼやけていった。

「困ったら、わたしに聞いてね」と、前の席の女子がくるりと振り向いた。仲里なかざとさくらと言う子は、短く切った髪がよく似合っていて、こちらの反応を急かさない明るい目をしていた。

「教室の事とか、購買の事とか、先生のクセとか。わたし、だいたい知ってるから」

真白は少しだけ迷ってから、「ありがとう」と答えた。さくらはその一言だけで嬉しそうに笑い、もっと言葉を重ねてくるのかと思えば、真白の中へそれ以上踏み込もうとはしなかった。ただ、気にしているよ、という小さな目印だけをそっと置いて、何事もなかったように前を向く。その距離の取り方が、真白には少しだけありがたかった。

結局、真白はいつも教室の窓の外を見るようになった。東京のビル群に四角く切り取られていた空とは違い、そこには遮るもののない青が広がり、肌を刺すほど強い光が、教室の床にまで容赦なく流れ込んでくる。

真白はただ、その眩しさへ視線を預けていただけだったが、その静けさを面白がらない人たちも、少しずつ出てきた。やがて、真白が席を外した時や、休み時間の喧騒がふっと薄くなる瞬間に、後ろの方からひそひそ声が聞こえるようになった。

「高瀬ってさ、何考えてるか全然分かんないよな」

声の主は、神谷翔かみやしょうだった。クラスの中心にいて、よく笑い、よく喋り、場の空気を明るくすることに慣れている男子だった。悪意だけで人を傷つけるような人間ではないのだろうと、真白にも分かった。ただ、その明るさは時々、自分と違う静けさに気づかないまま、誰かの大事な場所を雑に踏んでしまう。

「話しかけてもよ、あー、とか、うん、としか言わん訳さ」
「東京の子って、みんなあんな感じ? なんか、ちょっと気取ってるみたいじゃない?」

そう言ったのは、下地陽菜しもじひなだった。

翔の近くにいることが多い女子で、噂話をする時だけ声が少し高くなる。

「ていうか、どっか体でも悪いんじゃないわけ?」

その言葉の端に混ざる島の響きは、真白の耳に思った以上に鋭く届いた。それでも振り向かなかった。言い返すことも、悲しそうな顔を見せることもしない。ただ、ここから先は私の場所だから、勝手に入ってこないで、と胸の奥で静かに線を引きながら、窓の外に広がる青を見つめ続けていた。 

隣の席の上原健人うえはらけんとが、ふと鉛筆を置いた。無口な男子で、真白に自分から話しかけることはほとんどなかったが、その日だけは、聞こえるか聞こえないかくらいの低い声で、窓の外を見たまま静かに言った。 

「あれ、気にしなくていいと思う」

真白は目だけを動かして彼を見たが、健人はその視線を受け止めるでもなく、窓の外へ顔を向けたまま、さっきと同じ低い声で続けた。

「神谷はさ、声が大きいだけだよ。下地も、誰かのこと気にしてないと落ち着かんだけさ」

それは慰めと呼ぶほど大げさなものではなく、正義感を見せつけるような言い方でもなかった。机の端にそっと置かれた消しゴムみたいに、必要なら使っていいし、いらないならそのままでいい、そんな温度の言葉だった。

真白は少し間を置いて、「うん」とだけ答えた。健人はそれ以上、何も言わず、またノートへ視線を戻した。その静けさは、無関心とは少し違っていた。誰もが真白を理解しているわけではない。それでも、誰もが真白を雑に扱うわけでもない。その当たり前のようで当たり前ではないことを、真白はまだうまく信じきれずにいた。

そんな真白の、不自然なほど整えられた静けさを、斜め後ろの席から黙って見つめている少年がいた。比嘉蒼ひがあおは、他の子たちのように無理に真白の輪へ入ろうとはせず、陰口に加わることもなく、ただ窓辺に座る真っ白な背中を、遠い星を探す時と同じ静かな目で見つめていた。

蒼の机の横には、いつも星図の端が少しだけ覗いていた。昼休みになると、教室の後ろで平良湊たいらみなとと何かを話している。湊は天文部の副部長で、よく笑うムードメーカーだった。

「蒼、今日も星?」
「雲がなければ」

「お前、雲にも予定聞いとけよ。今日は邪魔しませんかって」

湊がそう言って笑うと、蒼もほんの少しだけ口元を緩めた。真白はその声を、窓の外を見ながら聞いていた。星の話をしている時の蒼は、教室のざわめきから少し離れた場所に立っているように見えて、その横顔には、誰かに分かってもらうことを急がない人だけが持つ、静かな強さがあった。

放課後のチャイムが鳴ると、真白は誰よりも早く教室を抜け出した。学校からまっすぐ家に帰る気にはなれず、行き先を決めているつもりもないのに、足はいつも川満漁港へ向かっていた。そこはガイドブックに載るような華やかなビーチではなく、観光客の笑い声よりも、船の軋む音や網を直す人の手つきが似合う、地元の生活がそのまま息づいている静かな漁港だった。

すぐ隣には、泥の中にがっしりと根を張ったマングローブ林が広がり、夕方の光を受けた海面は、深い緑から金色へと時間をかけて色を変えていく。近くの小さな公園から少し高くなった丘へ登ると、視界を遮るもののない南の空がひらけ、海の向こうまで続いているように見えた。

真白は公園の古びたベンチに腰を下ろし、何もしなかった。スマートフォンを取り出して誰かと連絡を取るわけでもない。誰もいない海に向かって涙を流すわけでもない。ただ、寄せては返す波の音を聞きながら、海と空が交わる場所を見ていた。

ここだけが、誰にも何も説明しなくていい場所だった。どうして喋らないのとも、何に怒っているのとも聞かれない。ただの景色として、そこにいることが許される。真白がこの見知らぬ島でようやく見つけた、たったひとつの息ができる場所だった。

「ここ、夜になると星が低いところまで見えるよ」

ある夕方、少し離れた場所で自転車のスタンドががしゃりと鳴り、真白が顔を上げると、同じクラスの比嘉蒼ひがあおが南の空を見上げたまま立っていた。偶然を装っているものの、真白が毎日ここへ通っていることには、とっくに気づいていたのだろう。学校の制服のまま、潮の匂いを含んだ風に吹かれているその横顔は、教室で見る時よりもずっと静かだった。

真白は視線を海へ向けたまま、感情の混じらない声で返した。

「星を見るために来てるんじゃない」
「じゃあ、何しに来てるの」
「何もしないため」

蒼は「ふうん」とだけ言って、それ以上は何も聞かなかった。どうしてそんなに冷たいのとも、もっと仲良くしようよとも言わず、理由を無理に探ろうとしない。

その、つかず離れずの距離感が思いがけず心地よくて、真白は閉ざしていた胸の奥で小さな戸惑いを覚えた。この島にも、こんなふうに静かな距離を保てる人がいるのだと思った。

「ここ、天文部の観測場所なんだ」

蒼は自転車の籠から、古びた星図を取り出した。折り目のところが少し白くなっていて、何度も開かれたことが分かる。

「天文部って、何人いるの」
「数えたら三人。真面目に来るのは、俺と湊くらい」
「少な」
「少数精鋭って言って」

真白は返事をしなかったが、蒼はその沈黙を気にした様子もなく、急かすことも、気まずさを埋めるように言葉を足すこともせず、ただ南の空へ静かに目を向けた。

「でも、日本で一番美しい夜空が見える天文部だとは思ってる」

その言い方が少しだけ誇らしげだったので、真白は思わず蒼を見た。冗談で軽く言っているのではない。彼は本気で、この島の夜空を美しいと信じていて、そのまっすぐな確信が、真白には少し眩しかった。

蒼の家は、この港のすぐ近くで、こぢんまりとした食堂を営んでいた。お昼時には、お腹をすかせた地元の人や、海から上がってきたばかりの漁師たちが自然と集まり、夕方になると仕事帰りの人たちが、ただいまと言う代わりのように暖簾をくぐっていく。店の前を通るだけで、カツオと昆布の濃い出汁の匂いがふわりと漂い、真白の知らない島の日常が、湯気みたいにそこからこぼれていた。

長年、たくさんの人の胃袋を満たしてきたその匂いは、壁や暖簾の隅々にまで温かく染みついていた。潮風に混じる油の匂い、湯気の向こうに立つ醤油の香り、何度も人の足に踏まれて艶を帯びた古い木の床。そこにあるものはどれも飾られていないのに、真白には妙にまぶしく見えた。人が人として暮らしている場所には、きっとこんな匂いがするのだと思った。

ある日、蒼の母親である比嘉夏美ひがなつみは、真白が毎日のように漁港のベンチでひとり海を見ていることを、息子から聞いたらしかった。だからといって、本人の前に立って大丈夫かと尋ねることはせず、夕方の風が少し涼しくなるころ、蒼の手にひとつのプラスチックのパックを持たせて、真白のもとへそっと届けさせた。

「母さんが、これ持ってけって」

蒼は少し気まずそうに頭を掻きながら、ベンチの前に立った。

「頼んでない」

「知ってる。でも、うちの母さん、頼まれてないもの持たせるの得意だからさ。刺身、今日、親父が海から獲ってきたやつ」

そう言いながら差し出す蒼の手つきは、押しつけるというより、断られても仕方ないものをそっと置いていくみたいだった。

輪ゴムで留められたパックの中には、つやつやと光るマグロとイカの刺身が、誰かの手で丁寧に並べられていた。真白は困った。見知らぬ人から差し出される厚意に、どう応えていいのかまだ分からない。それでも、蒼がパックと一緒に割り箸を差し出してくると、その小さな重みまで突き返すことはできず、受け取った手の中で、島の温度だけが少し残った。

真白は小さく「ありがとう」とだけ呟き、受け取った箸で刺身を一切れ、そっと口に運んだ。ねっとりとした甘みと、さっきまで海の中にあったような新鮮な風味が舌の上に広がり、思わず息を止めそうになる。

おいしい、と言葉にしてしまえば、差し出された温かさまで認めることになる気がして、真白は何も言わなかった。それなのに箸は止まらず、最後の一切れまで、きれいに残さず食べていた。

それを見て、蒼はそれ以上何も言わず、少しだけ安心したように笑った。いたずらっぽさを残しながらも押しつけがましさはなく、真白が最後まで食べたことだけを、余計な言葉に変えずに受け取るような笑顔だった。その表情を見た瞬間、刺身の味とは別の温かさが、真白のお腹の奥でゆっくり広がっていった。


その翌日、さくらが昼休みに弁当箱を持って真白の席へやってきた。

「高瀬さん、昨日、川満の方にいた?」

真白は箸を止めた。

「いたけど」

「やっぱり。うちのおばあが、港の近くで東京の子見たって言ってたさ。悪い意味じゃないよ。髪長くて、海見てたから、きれいな子だったって」

その言い方があまりにもまっすぐで、真白はどう答えればいいのか分からなくなった。褒められているのだと頭では分かるのに、その言葉をそのまま受け取るには、まだ心のどこかが追いつかなかった。さくらは、真白が困っていることに気づいたのか、すぐにいつもの明るい笑顔へ戻って、何事もなかったように話題を変えた。

「比嘉くんちの刺身、食べた?」
「少し」
「少しって顔じゃないさ。あそこの魚、ほんとにおいしいからね」

真白は思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。さくらはその小さな変化を見逃さなかったが、見つけたことを大げさに騒ぐようなことはせず、ただ嬉しそうに笑って、自分の弁当箱から卵焼きをひとつ取り、真白の弁当箱の端へそっと置いた。

「これも、頼まれてないやつ」

真白は小さく息を吐いた。島の人たちは、どうして頼まれてもいないものを、こんなに自然に差し出してくるのだろう。困るはずなのに、その温かさはいつも拒むより先に手のひらへ乗ってしまい、真白は受け取ったあとで、自分の中の線が少しだけ揺れていることに気づくのだった。

数日後、蒼に連れられて、真白は初めて比嘉家の食堂の前まで行った。中に入るつもりはなく、店の外で暖簾が風に揺れるのを少し眺めたら、それで帰るつもりだった。ところが、戸の隙間からは常連客の笑い声や器の触れ合う音がこぼれ、魚汁の湯気を含んだ匂いまで流れてきて、真白はまだ踏み出してもいないのに、もう食堂の温かさの端に触れている気がした。

「無理に入らんでいいよ。ここで待っててもいいさ」

そう蒼が言うと、真白は入口の少し手前で立ち止まったまま、小さくうなずいた。まだ入るとは決めていない、という距離を残していたその時、暖簾の向こうから夏美が顔を出した。写真で見たことがあるわけでも、誰かに詳しく聞いていたわけでもないのに、真白にはすぐ、蒼の母親だと分かった。明るい表情と、湯気を含んだような声の温かさが、店の匂いと一緒にふわりと流れてきた。

「あんたが真白ちゃんね」

真白は思わず身構えた。大丈夫、もう慣れた、島はいいところでしょう、そんな言葉を向けられるのだと思い、先に心の奥で小さく扉を閉める。ところが夏美は、真白の表情を探るようなことはせず、にこっと笑うと、手に持っていた小さな包みを当たり前みたいに差し出した。

「ひとりで海ばっかり見てたら、お腹まで冷えるさ。持っていきなさい」

中には、まだ温かいおにぎりが二つ入っていた。真白は目を瞬かせた。

「いえ、あの」
「お金なんかいらんよ。うちの息子が勝手に心配してる分だから、受け取っておきなさい」

「母さん」

蒼が少し困った顔をしたが、夏美はそんな息子の様子など気にも留めず、真白をまっすぐに見た。その目は、かわいそうな子を見るものではなく、珍しい転校生を眺めるものでもなかった。ちゃんと食べていない子を見つけた大人が、余計な理由を聞く前に、まず何かを食べさせようとする目だった。

「食べられるなら、大丈夫。食べなさい」

その言葉は、乱暴なくらいまっすぐだったのに、不思議と真白を傷つけなかった。余計な同情も、事情を探る気配もなく、ただ空っぽになりかけた場所へ温かいものを差し出されたようで、真白は両手で包みを受け取り、「ありがとうございます」と小さく言った。夏美はそれで十分だというように満足そうにうなずくと、また湯気と笑い声のこぼれる店の中へ戻っていった。

店の奥では、蒼の父、比嘉洋平ひがようへいが網の手入れをしていた。寡黙な漁師だと蒼から聞いていた通り、白い手ぬぐいを額に巻き、日に焼けた腕で絡まった網を黙々とほどいている。真白と目が合っても、洋平は言葉をかけることなく、ただ軽く顎を引いただけだった。その仕草は無愛想というより、海の上で余計な言葉を削ってきた人の、静かな挨拶のように見えた。

「父さん、真白」。
蒼が紹介すると、洋平は短く言った。

「食べるなら、大丈夫だ」

それが挨拶なのか、励ましなのか、真白には判断できなかった。それでも、何も言わずに向けられたその短い仕草には、不思議と突き放す冷たさがなく、真白は戸惑いながら小さく頭を下げた。その時、洋平は蒼の首にぶら下がった星図ケースへ目をやり、絡まった網から指を離さないまま、低い声でぽつりと続けた。

「星ばっかり見て、海を見落とすなよ。海も、ちゃんと見とけ」
蒼は少しだけ肩をすくめた。
「見落としてないよ」
「ならいい」
洋平はそれ以上何も言わず、また網へ視線を落とした。

あまりにも短い会話だった。それなのに、洋平の一言は妙に真白の耳に残った。星を見る事と、海を見落とす事。その言葉の意味は分かるのに、そこに沈んでいる重さまではまだ掴めず、真白は包みを抱えたまま、店の奥で黙々と網をほどく洋平の背中を見つめていた。蒼が学校の天文部の部長なのだと、真白がきちんと知ったのは、それから数日後のことだった。

放課後、蒼は「少しだけ寄る?」と言って、理科準備室の奥にある小さな部屋へ真白を案内した。そこが天文部の部室だった。壁には黄ばんだ星図が何枚も貼られ、棚には古い双眼鏡や折りたたみ式の三脚、レンズキャップのない小さな望遠鏡が並んでいる。窓際には観測ノートが何冊も積まれていて、誰かが長い時間をかけて空を見上げ続けてきた気配だけが、夕方の薄い光の中に静かに残っていた。

どれも新しくはない。たくさんの夜に持ち出され、潮風を吸い、誰かの手で何度も開かれてきたものたちだった。

「お、転校生」

奥の机で何かを書いていた湊が顔を上げた。

「高瀬さんだよね。俺、平良湊。天文部の副部長。まあ、蒼の保護者みたいなもんさ」
「違う」

蒼が間を置かずにそう言うと、湊は待ってましたとばかりに笑った。その笑い方には悪びれたところがなく、蒼の反応まで含めて、いつものやり取りなのだと分かる軽さがあった。

「蒼は放っておいたら、一晩中星見てるからさ。誰かが帰る時間教えんと、ほんとに朝になるわけ」
「そんなに見てるの」

真白が思わず聞くと、蒼は少しだけ照れたように目を逸らした。

「見えない日も多いけどね」

蒼は観測ノートを一冊開いた。ページには、日付と天気、雲の様子、月齢、見えた星の名前が細かく記されていて、その几帳面な文字の奥に、何度も空を見上げてきた時間が滲んでいた。雲、観測できず。水平線に霞、不可。月明かり強すぎ。南十字星、確認できず。そこには、見えた星の記録だけでなく、見えなかった夜の静けさまで、きちんと残されていた。

「見えなかった日も書くわけ?」

真白がそう言うと、蒼はそれが当たり前のことみたいに、静かにうなずいた。

「見えんかったことも、ちゃんと見たことだから」

見えなかったことまで記録する。できなかったことを、失敗という一言で片づけず、その夜に確かに見上げた空として残しておく。蒼の中には、すぐに答えが出なくても待ち続けられる、そういう静かな根気があるのだと、真白は少しだけ分かった気がした。

「この宮古島では、四月から六月にかけての短いあいだ、条件がよければ、南の水平線すれすれのところに南十字星が見えるんだ」

蒼は星図を広げ、南の空を指差した。

「ただ、すごく低いわけ。雲が少しでも出たら隠れるし、月が明るすぎても光に負ける。新月の前後で、南の空がびっくりするくらい晴れてる夜を、じっと待たんといけない」

「ずいぶん面倒な星だね」

「だからさ、見えたら一生忘れないんだと思う」

面倒な星。真白は心の中で、その言葉をゆっくり繰り返した。わざわざ夜中に起きて、見えるかどうかも分からない南の空を、ただ黙って待ち続ける。

そんな時間の使い方を、東京にいたころの自分ならきっと考えもしなかっただろう。だけど蒼の声には、その面倒さまで大切にしている人の静かな熱があって、真白は広げられた星図の上に、まだ見たことのない小さな十字を探していた。

蒼のまっすぐな横顔を見ていると、その言葉は不思議なくらい静かに、真白の胸へ染み込んでいった。真白はその星の名前を、頭の片隅にある小さな余白へ、消えないようにそっと書き留める。『南十字星』、まだ一度も見たことのないその星は、見えないまま、真白の中で小さな白い点のように灯り始めていた。

五月の終わり、暦が新月に重なった、よく晴れた夜のことだった。真白と蒼は、昼間いつも過ごしている川満漁港のすぐ隣、海を見下ろす丘の上に立っていた。南十字星を見るためだった。少し後ろには湊もいて、手には懐中電灯、肩には小さなリュックをかけている。いつもなら冗談で空気を軽くする彼も、夜の丘では不思議と声を落とし、足音まで海風に預けるように静かに歩いていた。

「俺、少し下で見てるさ。ふたりの邪魔はしないから」
「変な言い方するな」

蒼が低く言うと、湊は悪びれもせず笑いながら数歩下がった。

「天文部の副部長として、観測の安全管理です」

そう言って、湊は懐中電灯の光を足元へ落としながら、公園の方へゆっくり降りていった。真白はその背中を見送りながら、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。

この島の人たちは近い、近すぎる、ずっとそう思っていたはずなのに、近づきすぎないために冗談を使う人もいるのだと、夜風の中で初めて知った気がした。

夜の漁港は、昼間とはまったく違う顔をしていた。足元では、真っ黒な闇に沈んだマングローブの木々が、巨大な生き物の影のようにゆっくり揺れている。昼間あんなに青かった海は、星の光をかすかに吸い込みながら、底の見えない深さで静まり返っていた。

「見える?」

真白は薄いカーディガンを羽織り、夜空を仰いだ。周囲に街灯がないせいで、頭上にはこぼれ落ちそうなほどの星屑が広がり、天の川が白い帯になって夜の底を横切っている。東京では見えなかった夜が、いま目の前に、息をひそめるように広がっていた。

ところが、蒼が教えてくれた南の水平線へ目を向けると、そこにはカーテンを引きちぎって置いたような、重く厚い雲が居座っていた。月明かりは弱く、風も穏やかで、条件は悪くないはずなのに、肝心の南十字星があるべき場所だけが暗い雲に遮られ、何も見えなかった。

「私みたい」

星を探すのをやめ、夜の草の上に腰を下ろした真白が、膝を抱えながらぽつりと言った。

「何が?」

「真っ白で、何も見えなくしてる」

真白の声は、夜の静けさの中へゆっくり吸い込まれていった。心の奥にある、誰にも言えない居心地の悪さ。東京の友達にすら打ち明けられなかった、父への小さな反抗。

島の人たちを拒絶したいわけではないのに、どうしても素直になれない頑なさ。何も描かれていないまま、誰も中へ入らせないスケッチブックみたいな自分の白さが、水平線に沈み込む雲の重さと、いつの間にか重なって見えていた。

蒼はすぐには答えを返さなかった。責めるわけでも、慰めるわけでもない。ただ暗い空を、その優しい瞳で見つめ続けていた。潮風が、二人のあいだを静かに通り抜けていく。やがて、蒼は遠くの水平線を見つめたまま、静かに口を開いた。

「たださ、雲って、ずっと同じ場所にはいないよ」

蒼の声は、驚くほど穏やかだった。

「今夜は見えなくても、風が吹いたら雲は流れる。星は消えたわけじゃなくて、あそこの奥で、ずっと待ってるんだと思う。だから、焦らんでもいいんじゃないかな」

真白は、何も返せなかった。言葉が出なかった、という方が近かった。いつもなら、思い通りにならない現実に嫌気がさして、すぐに立ち上がり、家へ帰ってしまうはずだったのに、今夜はなぜだか立ち上がれない。前よりもほんの少しだけ長く、蒼の隣に並んで、星のひとつも見えない暗い南の夜空を見上げていた。

少し離れた場所から、湊が懐中電灯を足元へ向けたまま声をかけた。

「見えた?」

蒼は首を横に振った。

「今日は無理そう」

湊は空を見上げ、軽く笑った。

「じゃあ、記録だな。雲、観測できずってやつ」

蒼も、静かに笑った。

「うん」

真白は、その短いやりとりを黙って聞いていた。見えない夜を、失敗という一言で終わらせず、ちゃんと見上げた時間として記録に残していく。なかったことにしないという、その静かな待ち方が、南の雲を見つめる真白の胸に、少しずつ染み込んでいった。

帰り道、丘を下りると、公園の入口に夏美が立っていた。手には小さな紙袋を持っている。

「遅くまで星見てたら、お腹すくでしょう」
蒼が呆れたように言った。
「母さん、なんでいるの」
「なんでって、迎えに来ただけさ。ついでに、余ったポークたまごおにぎり」
「それ、ついでじゃないでしょ」

夏美は笑って、真白にも紙袋を渡した。
「真白ちゃんも。星は見えた?」
真白は少しだけ迷って、首を横に振った。
「見えませんでした」
「そっか。じゃあ、また見ればいいさ」

その軽さに、真白は胸の奥の力が少しだけ抜けていくのを感じた。見えなかったことを、大げさに残念がらなくていい。また見ればいい。夏美の言葉は、食堂の湯気みたいに自然で、押しつけがましいところなど少しもないまま、真白の冷えていた場所へゆっくり温かく染みていった。

帰り際、食堂の裏で網を片づけていた洋平が、三人を見た。

「見えんかったか」
蒼がうなずく。
「南だけ雲があった」。
洋平は空を見上げたあと、海の方へ視線を移した。

「星ばっかり見てるからだ」
「またそれ?」
蒼が少し笑う。

洋平は網をまとめながら、低い声で言った。
「空を見るなら、海も見ろ。海が先に変わる時もある」
真白は、その言葉を黙って聞いていた。
まだ意味は分からない。

ただ、蒼の父の言葉は、いつも短いのに、どこか遠くまで届く感じがした。真白はまだ、この宮古島という島を好きになれたわけではない。青すぎる海も、近すぎる人々の体温も、東京の思い出をかすませていく光の強さも、まだどこか遠い世界の出来事みたいに感じていた。

それを横から覗いた湊が、
「初参加って書いたら、部員みたいじゃん」と笑った。
蒼は鉛筆を置き、少しだけ考えてから言った。
「まだ、仮で」

そのころ、真白は教室の窓際の席で、いつものように外を見ていた。前の席からはさくらが振り返り、隣では健人が静かにノートを開き、後ろの方では翔と陽菜の声が、少し遠い波音みたいに響いている。教室の景色は何も変わっていないはずなのに、その中にいる真白の呼吸だけが、ほんの少しだけ昨日までとは違っていた。

真白はノートの端に、誰にも見えないくらい小さく、鉛筆で十字の印を描いた。まだ見えていない星。まだ好きになれていない島。まだ何も描ききれていない自分。それらはどれも消えてしまったわけではなく、雲の向こうや胸の奥で、名前を呼ばれる時を静かに待っているのだと、真白は少しだけ思えるようになっていた。

見えないだけで、どこかにある。待っていてもいいし、急がなくてもいい。窓の外に広がる宮古島の青は相変わらず眩しく、真白の目にはまだ少し強すぎた。

それでも、その青の奥に、昨夜見上げた星の気配がほんの少しだけ残っているようで、真白はしばらく、まぶたの裏に小さな十字を浮かべながら、静かにその空を見つめていた。

(前編 おわり)

後編へ続く (21時ごろ更新予定。)



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