50年前の読書録を開いて㉘カンダタが怒るのは当然ではないか
「戦中戦後の感覚から言えば、カンダタが怒るのはもっともである。
クモを助けたのは彼なのだから、糸の権利は彼だけのものであるのは当然で、危険を感じれば怒鳴るのも当然だ。
(中略)
ダメとわかっていたらそっとしておくぐらいの洞察力は、賢い釈迦にないはずはない。生前の陰徳でたった一つの救済の希望が出てきたのに、それにすがりついて、当然の権利を主張したとたんに、元の木阿弥では、全く神も仏もないも同然だ。」
――小松左京「蜘蛛の糸」
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、誰でも一度は読んだことがあるのではないでしょうか。
地獄に落ちたカンダタが、生前に蜘蛛を一匹助けたことから、お釈迦様が極楽から蜘蛛の糸を垂らしてくださる。
カンダタはその糸につかまって、地獄からはい上がろうとします。
ところが下を見ると、大勢の罪人たちが自分のあとを追って、同じ糸を上ってくる。
「この糸は俺のものだ。下りろ」
そう叫んだ途端、蜘蛛の糸は切れ、カンダタは再び地獄へ落ちていく。
子どもの頃にこの話を読めば、
「自分だけ助かろうとしたから罰が当たったのだ」
と、割合素直に受け取ります。
ところが小松左京は、そこに横から異議を申し立てる。
そもそも蜘蛛を助けたのはカンダタではないか。
その善行によって垂らされた一本の糸なら、「これは自分を助けるための糸だ」とカンダタが考えるのは、それほどおかしなことなのか。
しかも、地獄からやっと抜け出せるという、生涯に一度あるかないかの場面です。
そこへ何百、何千という人間がぶら下がってくれば、
「糸が切れる。やめてくれ」
と言いたくなるのも、人間として無理のないことではないか。
五十年前の私は、小松左京のこの文章を書き写しています。
おそらく、
「なるほど、そんな読み方もあるのか」
と思ったのでしょう。
そして五十年たった今読み返しても、やっぱり「なるほど」と思います。
芥川の言うことも分かる。
小松左京の言うことも分かる。
若い頃なら、どちらが正しいのかを決めたくなったかもしれません。
けれど、この歳になると、人間というものは、そんなに簡単に善人と悪人に分けられるものではないと思うようになりました。
自分が地獄から必死にはい上がっているとき、その一本の糸に大勢の人がぶら下がってきたら、私は、
「みんな一緒に上がろう」
と言えるでしょうか。
どうも自信がありません。
そう考えると、『蜘蛛の糸』は、カンダタという悪人の話ではなくなってきます。
あの一本の糸にぶら下がっているのは、案外、私自身なのかもしれません。
