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「身体で語る男、言葉で語る男」──1年生内野手・高根裕太と中林滉太、対照的な二人の武器


プロローグ

グラウンドの土はまだ真夏の強烈な熱をたっぷりと吸い込んだまま、白っぽく乾いてカサカサと音を立てていた。
夏合宿という過酷な練習漬けの日々を終えてから数日、Aチームの守備練習が一区切りついたタイミングでのことだ。

汗で湿ったグローブを片手に持ち、額から流れる大きな汗の粒をユニフォームの袖でゴシゴシとぬぐっていた2年生内野手・中村寛人のもとに、一人の1年生が全速力で駆け寄ってきた。スパイクが土を蹴り上げ、派手な土煙を巻き上げるその一直線な走り方だけで、誰が向かってきているのかは一目瞭然だった。
「中村さん!お願いします、弟子にしてください!」
勢いそのままに、ブレーキをかけるようにして眼前で深々と頭を下げてくる後輩に、中村は思わず持っていたグローブを落としそうになり、慌てて抱え直した。
「……は?いきなり何の話?」
「盗塁と走塁です!中村さんが2年生で一番足が速いって聞きました!俺、もっと速くなりたいんです!」
声を張り上げたのは1年生・高根裕太である。真っ黒に日焼けした顔に、一切の屈託がない人懐っこい笑みを浮かべ、直立不動の姿勢のまま真っ直ぐに返事を待っている。その背筋の伸びと、微塵の迷いもない目の輝きに、中村は毒気を抜かれたように苦笑いを浮かべるしかなかった。
「弟子とか師匠とか、お前そういうの本当に好きだよな……。打撃の方は陣内に教わってなかったっけ?」
「陣内さんはリズムとバッティングの師匠です!走塁はまた別の師匠が必要かなって思って!」
迷いのないまっすぐな返答に、中村は二の句が継げなかった。悪気など欠片もない。ただ純粋に、今の自分に必要だと思ったから頭を下げている。そのシンプルな情熱が眩しいほどだった。

少し離れた1塁側のベンチでは、その賑やかな様子を視線の端で眺めながら、もう一人の1年生が素振りに励んでいた。木製バットをキュッと握り直し、一球ごとにしっかりと間を置いて何かを考え込むように小さく首をかしげる。それから意を決したように、フッと息を吐いてようやくスイングを始める。その丁寧すぎる練習を、彼は延々と繰り返していた。中林滉太である。
高根裕太と中林滉太。同学年で、同じ内野手で実力も拮抗するライバル。だが、二人が野球というスポーツに向き合う"言語"は、まるで正反対だった。

高根裕太──"師匠"を作りまくる男

高根裕太という1年生の野球人生を語る上で、もはや欠かせなくなった単語がある。「師匠」だ。
夏合宿での自主練習中、フリーバッティングでどうしてもバットの芯で球を捉えきれず苦しんでいた高根に、たまたま通りかかった2年生・陣内竣哉が「バッティングはリズムだ!」と"即興ラップ指導"を行った。体をリラックスさせ、当てるための「我慢」を体得したあの出来事は、チーム内でもまだ記憶に新しい。
バットの芯にボールが乗った瞬間の、あの手のひらに残る独特で重厚な手応えを初めて掴んだ日から、高根は陣内を「打撃とリズムの師匠」と呼び、深く慕うようになった。練習後には必ず、その日教わった感覚や言葉をノートに書き留める。それが彼にとって、何よりも大切な日課になったのだ。

だが、彼の「師匠集め」はそれだけでは終わらなかった。
部に入ってから数ヶ月、気づけば高根の周りには「師匠」と呼ぶ先輩が何人も生まれていた。ノックの合間に守備の基本姿勢を丁寧に教えてくれた先輩、キャッチボール時の肘の使い方や体重移動を横から見てアドバイスをくれた先輩、シートノックのちょっとした合間にふと「今の切り返し良かったぞ」と声をかけてくれた先輩。高根はその一つひとつのアドバイスを律儀にノートへ書き記してきた。

「野球ノート」と表紙に大きく黒マジックで書かれたその冊子は、入部から半年足らずですでに3冊目に突入している。表紙の角はポケットやバッグの中で擦り切れて丸くなり、ページの端は汗と手垢で少し茶色く変色していた。それは彼が日々積み重ねてきた努力と素直さの証明そのものだった。

そんな高根の走塁に対する自己評価は
「1年生の中では1,2番を争うくらい速いと思ってます。でも、まだ全然です。盗塁のスタートの切り方とか、相手ピッチャーとの走塁の駆け引きとか、そういうところがまだ開花してないので」
そう言い切る口調に、気負いや嫌味な感じは一切ない。己の現在地という事実を事実として、まっすぐに受け止めているだけだ。夕日を背にした高根の影が、橙色に染まるグラウンドへ長く伸びていた。

弱小中学出身、同学年が誰もいない環境

高根が口にする「まだ開花してない」という言葉の裏には、彼の中学時代の特殊な背景が色濃く関係している。
彼の出身は地元の公立中学校、軟式野球部だった。部員数は全体を合わせても10人前後という、お世辞にも強豪とは言えないどころか、常に廃部寸前と隣り合わせの小規模チームだった。しかも驚くべきことに、高根と同学年の部員は誰もおらず、彼はただ一人の同級生として3年間を過ごしたのだった。

日々の練習は、1年生の頃は、たった1人の新入部員として先輩の背中を追い、上級生になると、年下の後輩たちと一緒にボールを追いかける毎日。入部当初から実質的なチームの中心選手として扱われ、最上級生になる頃には、監督の手が回らない練習メニューを自分で考えて下級生をまとめて引っ張る「リーダー役」を自然と担うようになっていた。

そんな孤独で恵まれない環境の中、中学1年の高根にとって唯一にして最大の憧れであり、心の支えとなっていた存在が、1学年先輩の飯田瑠海(現・甲府学館2年生外野手)だった。
飯田は当時から口数が少なく、感情をあまり表に出さない控えめでおとなしい性格だった。身体が大きく、力持ちで、心優しく、高根曰く「怒ったところを見たことがない」
しかし、ひとたびバットを握れば、温厚な風貌からは想像もつかない凄まじい打球音を響かせ、外野の頭を越える長打を連発する頼もしい4番打者だった。
高根が中学2年生、飯田が中学3年生だったシーズン、チームは「1番・高根、4番・飯田」という打順を組んでいた。高根が持ち前の俊足で四球や内野安打をもぎ取って出塁し、盗塁を決める。そして後続が繋いで、最後は4番の飯田が一振りで高根をホームへ返し、泥臭く点をもぎ取る。これが、部員の少ない弱小チームにおける数少ない得点パターンだったのだ。
高根は中学時代から、この静かな大砲・飯田のことを「飯田さん」と呼び、心から尊敬して止まなかった。体格に恵まれない高根に対し、飯田は「バットの重みを利用して最後押し出す感じ」「インパクトの瞬間だけ力を集中させる」といった、インパクトで力を伝える技術や筋力の使い方を丁寧に教え込んでくれた。陣内が「リズムと打撃の師匠」なら、飯田瑠海は間違いなく高根にとって「長打力面の師匠」だったのだ。

ちなみに、甲府学館野球部へ入部が決まった際のエピソードも微笑ましい。普段はポーカーフェイスで感情を表に出すことがほとんどない飯田だったが、高根が後輩として同じ甲府学館のグラウンドに現れた時ばかりは、目が飛び出るほど見開いて驚き、めずらしく顔全体をクシャクシャにして喜んでくれたという。
「あの飯田さんが、僕の顔を見た瞬間に『うそだろ高根!?』って叫んで抱きついてくれたんです。あの大人しい飯田さんがですよ!本当に嬉しかったです!」
と、高根は思い出すたびに目を目一杯輝かせて語るのだった。

「同学年がたくさんいる」ことの新鮮さ

同学年が自分たった1人だった寂しい環境から、3学年で100人を超える部員がひしめき合う甲府学館野球部へ。この環境の激変は、高根にとって想像以上に大きなカルチャーショックであり、同時に最高の刺激だった。
「同学年と対等に競い合うとか、レギュラー争いでライバルになるとか、そういう経験が中学までほとんどなかったんです。だから最初は正直、周りに人が多すぎて戸惑いました。でも今は、その競い合いが本当に楽しくて仕方ないです」
高根は日焼けした顔をほころばせる。
「先輩にも、後輩にも、また別の意味で気を使いますけど、同じ目線で気軽に話ができる野球仲間がたくさんいる環境って、俺にとっては最高なんです」
たった一人の下級生として、先輩に可愛がられてきた経験から、先輩の懐に入り込むのが上手く、物怖じせずに馴染むのが早かった。入部当初から「とにかく素直で人懐っこい1年生が来た」と先輩たちの間で評判になっていたのも、こうした背景があったからこそだろう。
「打撃はまだまだ全然ダメです」と自分の未熟さを隠さず正直に口にする一方、グラウンドを駆け巡る足の速さにだけは、譲れない確かな自信を滲ませる。

時には打球が転がるより先に彼の足が反応して動き出していることもあり、その野生的な積極性は周りの先輩たちをしばしば驚かせている。

"理想の二塁手"、副主将・蒔田駿佑への憧れ

そんな高根が、部内で誰よりも尊敬し、憧れの視線を注いで止まないのが、副主将を務める2年生の蒔田駿佑だ。
「蒔田さんの守備、本当にかっこよくてヤバいです。声の出し方とか、周りのみんなに指示を出すタイミングとか、動きの無駄の無さとか、全部が僕の理想なんです」
練習中、蒔田が二塁の守備位置から仲間へテキパキと指示を飛ばす仕草を、高根がいつの間にか無意識に完コピして真似ているのを、同級生に見つかって「お前、完全に蒔田さんになりきってるぞ」とからかわれたこともある。指を差す角度、打球が飛んでくる直前にポンとグラブを叩く癖、声を張るタイミングに至るまで、細部にわたって蒔田の動きを穴が空くほど観察しているのは本人も自覚済みだ。
「いつか蒔田さんみたいな、守備でも打撃でもチームを引っ張れる選手になりたいです。ただ足が速いだけの選手で終わりたくないので」
無邪気な笑顔の奥に見え隠れするその言葉には、単なる先輩への憧れを超えた、アスリートとしての確かな決意が重く宿っていた。

中村寛人・原温人、二人の"新しい師匠"

突然の弟子入りを申し出られた中村寛人は、最初こそ「まじかよ」と面食らっていたものの、高根の真っ直ぐな瞳に根負けするように苦笑し、手にはめていたグラブを外した。
「まあ、人に教えること自体は嫌いじゃないしな。……ただ、俺もまだ秋のベンチ入りを争っているくらいの選手だから、教えながら俺も学ぶわ、たぶん」
そう言うと中村はファーストベースの前に立ち、リードをとる際の足の歩幅、重心の低い置き方、ピッチャーの肩や足の始動を見極める視線の配り方を、実際に自分の身体を動かしながら一つひとつ丁寧に実演してみせる。高根はそのすぐ隣に並び、中村とまったく同じ歩幅を刻み、同じタイミングで腰を落とす。二人分のスパイクが踏みしめる足音が、乾いたグラウンドの土の上に心地よく重なって響いた。
「一歩目はな、相手から"逃げる"んじゃなくて、こっちから"仕掛ける"意識でいいんだよ。相手のモーションがほんの少しでも動いた瞬間には、もう自分の体は次の塁に向かって開いてる、くらいでちょうどいい」
「もし逆を突かれて一歩出てしまっても、ギリギリ戻れるところまでリードを広げる。それが5cmでも10cmでも遠くなれば、それだけで走塁全体が圧倒的に有利になるから」
中村の論理的なアドバイスに、高根は何度も深く頷きながら、ポケットからくしゃくしゃのノートを取り出し、その場で熱心にペンを走らせていた。

一方、グラウンドの反対側で練習していた原温人は、急に高根から「原さんも僕の走塁の師匠になってください!」と声をかけられ、目を丸くしてポカンとしていた。
「え、俺に?普通にびっくりしたけど……まあ、いいよ。教えられることなら教えるわ」
2年生の中でもトップクラスの俊足を誇る原は、キャッチャーと外野手をハイレベルでこなす高い身体能力の持ち主だ。スタートの爆発的な一歩目、地面を強く蹴り出す角度、腕の振り幅。原の指導スタイルは中村とは対照的で、極めて感覚的だった。
「ここでガッと力を溜めて、ドーンと行く感じ」「足の回転を意識して地面を後ろに蹴る、足の裏全体で押し出す感じ」
といった擬態語混じりの感覚的な説明が続いたが、高根はその感覚的な一言一句すらも貪欲に脳内へ叩き込み、練習後にはさっそく「今日のアドバイスノート」へ詳細に言葉化して書き留めていた。
「中村さんは"頭を使う駆け引き"、原さんは"身体能力を引き出すスピード"。どっちも今の自分に圧倒的に足りない部分だと思ってます」
二人の異なるタイプの先輩から、それぞれの視点によるアドバイスを全力で吸収しようとするその姿勢こそが、高根裕太という男の走塁に対する並々ならぬ執着と貪欲さを物語っている。

言葉で語る男──中林滉太

一方、もう一人の主人公である1年生・中林滉太は、身長169cmとアスリートとしては決して大柄ではない。サードという強力な打球が飛んでくるポジションにおいては小柄な部類に入るが、ドッシリとした低い重心と、打球に対する鋭い一歩目の反応で広い守備範囲をカバーする堅実なタイプだ。右投げ左打ちで、足の速さは高根ほど圧倒的ではないものの、中学時代から周囲に「そこそこ速い」と評価されるレベルにあり、何より最短距離を突くベースランニングの巧さには定評があった。
バッティングに関しては、小さくまとまるコンパクトなスイングではなく、体全体を使ってしっかりと最後まで力強く振り切るパワフルさが最大の魅力だ。身体の線は細く見えるが、打球が想像以上に遠くへ伸びていくのは、このフォロースルーまでしっかりと振り切る筋力の使い方が優れているからである。低めの変化球や内角の窮屈なボールであっても、軸をブレさせずに泥臭く振り抜くことができる点も、彼の大きな武器だ。

そして何より、中林滉太という人間を語る上で絶対に外せないのが、「言葉」に対する並々ならぬ愛着とこだわりであった。
「これはまさに『温故知新』の精神だな」
「打席の中で『杞憂』を深めても意味がない」
「『石の上にも三年』……まあ、俺はまだ1年目だけどな」
彼は古文、漢文、故事成語、そして諺を心から愛する、野球部には珍しい典型的な文学少年であった。

日常の何気ない会話の中にも、つい教科書に出てくるような難しい語彙を織り交ぜてしまう癖がある。グラウンドでの練習中であっても例外ではなく、
「ノックの反復練習は、まさに『千鍛万錬』の心構えで臨むべきだな」
「バント処理の守備連携は『魚水の交わり』のように、言わずとも呼吸を合わせないといけない」
といった調子で難解なフレーズを連発し、周囲の部員たちをけむに巻くことが日常茶飯事だった。
周りから「中林はちょっと変わってる」「また難しいこと言ってるよ」と笑われても、本人はふざけているわけではなく、至って大真面目なのだ。

先日も、練習後の用具片付けの最中に、高根との間でこんな会話が繰り広げられていた。
「お前、また新しい師匠を"招聘"したのか。もはや弟子入りというより、多々益々弁ずというやつだな」
「た、たたますますべんず……?なにそれ、新しい変化球の名前?」
高根が聞き慣れない難解な熟語に目を白黒させる。中林は待ってましたとばかりに人差し指を立てた。
「解説してやろう。『漢書』韓信伝が由来の故事成語でな。漢の名将・韓信が劉邦から『お前はどれくらいの兵を率いられるか』と問われた際、『自分は兵が多ければ多いほど、うまく使いこなせる』と答えた話から来てるんだ。つまり本来は、仕事や扱う物事が多ければ多いほど巧みに処理できるという、手腕や才能に余裕がある様を指す言葉だ。それが転じて、今では単純に『多ければ多いほど都合がいい』という意味で使われるようになった」
立て板に水のごとく滑らかに解説してみせる中林に、高根はぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「か、韓信さんって人、めちゃくちゃすごい人だったんだね……」
「いや、そこじゃない。お前は師匠を増やすたびに、その教えを一つひとつ自分の中で咀嚼して使いこなせてるのか?っていうのがそもそもの論点なんだが」
核心を突く指摘をされ、高根は「うっ」と言葉に詰まった。そのやり取りを近くで通りかかった副主将の蒔田駿佑が耳にし、思わず吹き出した。
「お前ら、本当にコンビとして面白いな……」
「僕はふざけているわけではありません。感情や状況を表現するにあたって、常に最も正確な言葉を選んでいるだけです。語彙とは思考の精度ですから」
中林が涼しい顔でそう言い返すと、高根は「かっこいい!『語彙は精度』、それもすごく良い言葉だからノートに書いていい!?」と目を輝かせて食いついた。中林は「いや、それは野球の技術指導じゃないから書かなくていいだろ」と呆れ顔で苦笑する。そんな二人の噛み合わない掛け合いに、グラウンドの片隅が温かい笑いに包まれた。

「まあでも、高根、気をつけろよ。『船頭多くして船山に上る』という有名な言葉もある」
「え……それってどういう意味?」
「指図する人間が多すぎると、意見がまとまらなくなって、舟が海じゃなくて山に登るみたいに、逆にとんでもない明後日の方向へ進んでしまうという意味のことわざだ」
「ええっ……!それって、俺の走塁が迷子になるってこと……!?」
急に不安でいっぱいな表情になった高根に対し、中林はニヤリと意味深な笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「さあな。まあ、お前の場合は色々と指図されてはいるが、船頭が何人いようと文句も言わずに真面目にオールを漕ぐ側の人間だから大丈夫だろ。……たぶん」
「た、たぶんって何だよー!」
必死に食い下がってくる高根を横目に、中林は涼しい顔のままボールカゴを担ぎ直したのだった。
 

「文学コンビ」誕生の理由

そんな中林の少し浮いてしまいがちな"独特な言葉遣い"を、変人扱いして面白がるのではなく、純粋な知性として好意的に受け止めている存在がいた。2年生マネージャーの宮川絵菜である。
「中林くんの言葉遣いって、表現がとっても豊かで面白いよね」
グラウンドへの移動中や、練習後のジャグ洗いの時間など、ふとした何気ない合間に「この諺の本当の意味って……」「最近読んだ漢詩のこのフレーズが面白くて」と中林が話を振ると、絵菜は嫌な顔一つせず楽しそうに耳を傾け、「へえ、そういう由来なんだ!」と一緒に意味を掘り下げてくれるのだ。中林にとって、マネージャーの絵菜は自分の知的な好奇心を共有できる、数少ない"対等に語り合える"貴重な話し相手であった。
「こういう風に、お互いが大変な練習の中で助け合う状況って、まさに『呉越同舟』だね」
絵菜がふいにそんな言葉を返すと、中林の目がぱっと誇らしげに輝く。
「宮川さん、使い方が完璧です」
放課後、ベンチの横でノートや書類を抱えた絵菜と中林が並んで楽しそうに語り合う姿は、いつしかチームの部員たちの間で「文学コンビ」という親しみを込めた愛称で呼ばれるようになっていた。

中学時代──たった一度の、忘れられない一打

中林は中学時代、公立校の部活ではなく軟式のクラブチームに所属していた。そこは部員数も多く、レギュラー争いは極めて苛烈で、身体の小さな中林はなかなか定位置を掴むことができず、ベンチを温める日々が長く続いていたという。
「僕がようやく公式戦のレギュラーを勝ち取れたのは、中学最後の夏の大会でした」
滑り込むようにして掴み取った7番サードのスタメン枠。その最初で最後の大会で、中林は今でも夢に見るほど色褪せない、生涯最高の一打を放つことになる。起死回生のランニングホームランだ。
「ずっとベンチで悔しい思いをしてきて、やっと試合に出られた。あのダイヤモンドを一周したときの一打と感触は、今でも昨日のことのように鮮明に覚えています」
鋭い快音を残して振り抜いた打球は、美しい放物線を描いてライト線を鮮やかに破り、広大なグラウンドのフェンス際まで転転と転がっていった。打球の行方を確認した瞬間、中林は夢中で一塁を蹴り、二塁、三塁へと激しく走った。
迷ったサードコーチャーの指示が遅れ、止まれ!と声を上げた時にはホームへ向かってフル加速していた。最後はキャッチャーのタッチを交わすように、泥だらけになりながら頭からホームベースへ滑り込んだ。球審の両手が大きく横に開いた瞬間、ベンチから歓声が爆発した。
チーム自体は強豪相手に敗れ、地区大会の途中で敗退してしまった。個人としても強豪校のスカウトの目に留まるような派手な成績を残せたわけではない。
それでも、あの日のあの確かに捉えた打感と、足の裏から伝わってきたグラウンドの感触だけは、今も中林の胸の奥で誇らしく輝き続けているのだ。
「甲府学館という恵まれた環境に入れたからには、巡ってくる少ないチャンスを絶対に逃したくないんです」
静かな語り口の中にも、たった一度しか巡ってこなかった中学時代の"あの奇跡の瞬間"に対する、強い情熱と執着が滲んでいた。

"考えすぎる"という、才能ゆえの課題

しかし、そんな中林の打撃には、明確で深刻な課題が存在していた。頭が良すぎるが故に「考え込みすぎてしまう」ことだ。
「このカウントなら相手バッテリーはインコースを見せ球にしてくるはず」「いや、次は配球パターンを変えて外のチェンジアップかもしれない」
打席の中で脳が高速回転し、頭が先に働きすぎてしまうことで、肝心の身体の反応がコンマ数秒遅れてしまうのだ。せっかくのパワフルで美しいスイングも、思考のノイズによるタイミングのズレが台無しにしてしまうことが少なくなかった。
「ああ、また『思案投首』してしまった……」
「『狐疑逡巡』は打者にとって最大にして最悪の敵だな」
見送ればボールゾーンに入るような球に手を出してしまったり、逆に絶好のストレートをバットを出せずに見逃し三振で終えた後、中林はベンチの端で頭を抱え、そうぽつりと呟く。自分の悔しさや不甲斐なさを難しい熟語に変換して吐き出すその姿は、周囲の部員から見れば少し滑稽で風変わりにも映るが、彼本人にとっては至って大真面目な自己分析であり、途切れた気持ちを次へ切り替えるための大切な儀式でもあった。

「『失敗は成功の母』と申しますが……今の僕には母が多すぎますね」
練習後、バットを拭きながら自嘲気味にそう笑ってみせる瞬間、普段着用している"頭の固い文学少年"という仮面の下から、15歳の高校生らしい素直で等身大の表情がふっと顔を覗かせるのだった。

三塁の守備範囲と自分を鼓舞する言葉

バッティングでそうした自己嫌悪や課題を抱える一方、守備の場面では中林の持ち味が極めて良好な形で表れていた。
サードというポジション特有の、強烈な打球に対しても決して恐怖心を見せず、果敢に前へ突っ込んでいく。身体の小ささを、一歩目の判断の早さと、低く素早いフットワークでカバーしようとする泥臭い姿勢は、首脳陣や先輩たちの間でも高く評価されていた。
「疲れた体に鞭打つは『臥薪嘗胆』の精神……ここで引いたら自分に負ける」
厳しい自主練習の最後、ノックの雨を浴びて太ももがパンパンに張り、疲労で足が鉛のように重くなっても、中林は故事成語を声に出して呟きながら、最後の一球まで泥にまみれてボールに食らいつく。彼の持つパワフルなスイングも、粘り強いサードの守備も、すべては彼独自の"言葉によって自分自身を限界まで鼓舞するスタイル"と切っても切り離せない形で結びついていた。
「『千載一遇』のチャンスが来た時に、準備ができていない自分が一番嫌なんです」
中学時代、たった一度だけ巡ってきた千載一遇のチャンスを掴み取り、あの鮮やかなランニングホームランを放った記憶。あの時の最高の快感を胸の奥に抱きしめながら、中林は今日も難しい言葉をブツブツと呟き、手にマメを作りながらバットを振り続けている。

対照的な二人が、噛み合う瞬間

「高根が『圧倒的身体能力・素直さ・師匠集め』なら、中林は『鋭い頭脳・文学的語彙・深い自己分析』」
二人を一番近くで見てきたチームメイトたちの評価は、驚くほど的確であった。
入部当初は、あまりにも正反対な性格と野球へのアプローチゆえに、どこかお互いにどう接していいか分からず距離を置きがちだった二人。だが、同じ内野手としてシートノックや守備練習で同じグループに入り、共に過ごす時間が増えるにつれて、野球という共通言語を通じて自然と打ち解けていった。
ある日の自主練習後、打席で考え込みすぎて凡打を連発し、ベンチでがっくりと落ち込んでいた中林に対し、高根がスポーツドリンクを差し出しながらぽつりと声をかけたことがあった。
「中林さ、難しいこと考えて悩んでる時ほど、ピッチャーが投げる前に体がカチコチに固まってる気がするよ」
それは何の捻りもない、実にシンプルな一言だった。故事成語も難しい比喩も一切含まれない、高根が直感で感じた生の感覚の話。だが、その余計な飾りのない素朴な指摘が、なぜか中林の深層心理に深く刺さった。
「……僕の『杞人の憂い』が、身体の柔軟性を奪っていたということか」
中林が呟くと、高根は「え、キジン……なにそれ?新種の鳥か何か?まあでも、そうそう!たぶんそんな感じ!もっとリラックスしてドーンと振ればいいんだよ!」と無邪気に笑った。
頭で考えすぎる中林と、考えるよりも先に身体が感覚で動く高根。一見するとまったく噛み合わないパズルのピースのようでありながら、お互いに自分にないものを持った相手をリスペクトし、補い合う瞬間が、確かにそこには存在していた。

二人の"武器"が交わるところ

身体で語り、先輩たちに飛び込んでいく高根裕太と、言葉で語り、自分自身の内面と深く向き合い続ける中林滉太。同学年であり、切磋琢磨するライバルであり、そして何から何まで正反対の個性を持つ二人は、これからも甲府学館野球部という厳しい環境の中で、折に触れて激しく交差していくはずだ。

弱小中学で同級生ゼロという孤独から、100人を超える部員が集う野球部へ飛び込み、環境の激変を心からの喜びに変えた高根。
そして、中学時代にたった一度だけ掴み取ったチャンスで放ったランニングホームランの眩しい記憶を胸に、難解な言葉で自分を鼓舞しながら泥臭く努力を重ねる中林。
二人が歩んできた過去の道筋はまったく異なっているが、その根底にある"巡ってきたチャンスを絶対に逃したくない"という泥臭い情熱の芯だけは、呆れるほどよく似ていた。
先輩たちから学んだ走塁のアドバイスを必死に書き留める高根の「野球ノート」と、自分の感情や故事成語を書き留める中林の「語彙ノート」
ノートの使い方もそこに並ぶ言葉もまるで違うが、どちらも自分という存在を少しでも高く引き上げるための切実な記録であることに変わりはない。

「頭で考えすぎるお前と、考える前に体が動いちゃう俺。案外、一緒にいたら最高のコンビなのかもな!」
グラウンドからの帰り道、高根が大きな口を開けてそう笑うと、中林は少し困ったように眉をひそめ、それでいてどこか満更でもなさそうな表情で小さく頷いた。
「……まあ、『和して同ぜず』という関係性なら、悪くはないかもしれないな」
「あ!またそれ!それどういう意味だよ中林ー!」
夕闇が迫る甲府学館のグラウンドに、対照的な二人分の爽やかな笑い声がいつまでも心地よく響いていた。

おまけトーク:中林滉太×宮川絵菜「文学と言葉と、その先にあるもの」


用具の片付けを終え、二人だけになった部室の前。中林がボールカゴを担ぎながら、ふと得意げに口を開いた。

「今日、素振りしながら思い出してたんですけど。荀子の『勧学』に『積土成山、風雨興焉』土を積んで山となせば、そこに風雨が生まれる、って一節があるんです。地道な積み重ねが大きな力を生む、まさに今の自分の状況だなと」
「その続き、言える?」
「……え?」
「『積土成山、風雨興焉』のあと。ワンセットなんだけど」
中林が言葉に詰まる。宮川はさらりと続きを口にした。
「『積水成淵、蛟龍生焉。積善成德、而神明自得、聖心備焉』水を積んで淵となせば蛟龍が生まれ、善を積んで徳となせば、聖人の心が自ずと備わる。土・水・善行、三つの比喩をセットで積み重ねの大切さを説いてる一節だから、土のところだけ切り出すと、実はちょっと片手落ちなんだよね」
「……最後まで諳んじられるとは」
中林の眉がぴくりと動く。普段、彼が”解説する側”に立つことはあっても、“解説される側”に回ることは滅多にない。

「中林くんの故事成語、実戦向きだよね。自分を鼓舞するための言葉として選んでる。私はどちらかというと、人を観察するために本を読んできたから」
「観察、ですか」
「うん。『枕草子』の”をかし”の感覚とか。あれ、人間観察のテキストとして読んでた」
静かに、しかし迷いなく答える宮川に、中林はしばし言葉を失った。

「……宮川さんは、なぜマネージャーに?本を読むのがお好きなら、図書室で静かに過ごす方が性に合っていそうですが」
中林が、以前から抱いていた素朴な疑問を口にする。

宮川は少し間を置いてから、ぽつりと語り始めた。玉野こころとの出会いのこと。おにぎりを分けたこと。見学に来たグラウンドで、たまたま先輩に怒られていた1年生選手の”過緊張”を一目で見抜いてしまったこと。

「知識でその子のことは分かった。でも、それだけじゃなかった。みんなが同じ方向を向いて、生の情熱をぶつけ合ってる。それを見た時、初めて、本を通してじゃなく、自分の中から何かが動いた」
「……」
「一歩引いて世界を見るのが得意だったはずなのに、気づいたら輪の中に入りたいと思ってた。それだけなんだ、理由は」

その言葉に、中林は何かが自分の中で静かに繋がるのを感じていた。高根に言われた「体がカチコチに固まってる」という、あの飾り気のない一言。
「……『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』か。宮川さんは、多分どちらも持ってる人なんですね」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
中林が珍しく、照れたように視線を逸らした。夕暮れの部室前に、二人分の静かな笑い声が溶けていった。

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