“昼間のスナック”には、SNSで失われたやさしさがあった
忘れられないカフェ体験
こんなカフェ、ほかにない。

以前うかがってしばらく忘れられなかった東京・東長崎のカフェ、「MIA MIA(マイアマイア)」。2025年9月にできた蔵前の2号店に、猛暑日だったある週末、出かけてきました。
元精米店の小さな木造一軒家を改装した「MIA MIA Kuramae」は、東長崎の店とコンセプトはほぼ同じで、違うのは2階が宿になっていること。
丁寧に淹れてくれるコーヒーや焼き菓子だけ見ると、素敵な普通のカフェ。ただ、一度座ってみれば、流れている空気が違うことに気がつきます。働いている人とお客さんの距離が近いのです。私がこの日話したのは、Mさんという20代の女性でした。
かつて私が旅行で出かけて気に入ったお店や宿の話、普段行くカフェの話などをしているうちに、Mさん自身の話に。学生時代ニューヨークに短期留学し、帰国後お客としてMIA MIAを訪れて、「ここにいると好きな自分でいられる」と気づいたこと。平日は全く違う仕事をしていて、副業として週末このカフェで働いていること。
話のトーンが穏やかで、ここで働くことは彼女にとって働く以上のものだと伝わってきて、こちらも満ち足りた気持ちになりました。私は今はもうあまり夜に出歩かないのですが、まるで酒を飲まない「昼間のスナック」のようでした。
SNSにはなくて、このカフェにあるもの

なぜ私がこのカフェに惹かれ、またMさんも休日を使ってまでこの場所で仕事をするのかを考えていて、アメリカ在住のジャーナリスト・竹田ダニエルさんの新刊のあとがきの一節が浮かびました。竹田さんには2022年にインタビューをしたのですが、その時点と比べても、インターネットが大きく変化したというのです。
当時は、特にアメリカのZ世代を中心とした「市民」たちにインターネットを通じて声をあげ連携し、社会を自分たちの手で動かそう、という勢いがあった、かつてSNSは、「人と人が繋がる場所」だった(原文より)、とした上でこう書いています。
特に問題に感じるのは、「発言」が過剰な意味を持たされるということだ。本来、人間の意見や感情は揺れ動くものであり、文脈やタイミングによっても変化する。しかし、SNSでは一つの投稿が切り取られ、極端に単純化され、人格全体の証明のように扱われる。
濱口竜介氏を激賞する名物映画評論家
4年で急激に変わったのではなく、以前からこの傾向があったとは思います。ただ、映画をめぐる鼎談をまとめた『ショットとは何か』を読んでいたとき、今のインターネット上では見かけない表現を各所に(いや、全体的にそうだとも言えますが)見つけて、溜飲の下がる思いがしました。
大ヒットした映画であっても、何が面白いのかその良さは全く分からない、と蓮實氏は言い切ります。もちろん一意見ですが、アニメを映画ではなく「映画のようなもの」とも喝破します。
その言葉には、インターネット上の発言空間を良くしようなどという目的はないと思いますが、こうした一つの言葉やその場の空気だけでは測れない複雑さを許容する態度は、MIA MIAで過ごした時間や、蓮實氏の媚びない批評に共通して流れているものだと感じます。 Mさんがここなら「好きな自分でいられる」という感覚も、一つの言葉が独り歩きするような空間ではないからでしょう。
私たち編集者は、過度に守りに入らず、同時に慎重にさまざまなオピニオンを伝える空間を守り続けることが必要だと感じるのです。
(2026.8.27)
