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世界史の飾り窓189イギリスの対ヒトラー宥和政策

 前号でテーラーという歴史家が、「ヒトラー=機会主義者」説を提唱し、それに対して猛烈な批判が出たことを少し書いた。ヒトラーが一貫してその侵略計画=東欧植民地化とスラヴ人奴隷化を計画していたことは否定できない事実であるが、また同時に、ヒトラーがイギリス・ソ連の疑心暗鬼を巧妙に利用して、外交駆け引きで成果をあげつづけたことも事実である。
 イギリスの態度は一般に宥和政策と呼ばれる。スターリンの疑心暗鬼と現実主義は1939年8月23日の独ソ不可侵条約に結実する。当時のイギリス(大英帝国)指導者層の関心を捉えていたのは2つのことだった。1つはイギリスの繁栄の根本である地球上の陸地の20%を超えた「帝国統治体制(植民地収奪体制)」をいかに維持していくかであった。第1次世界大戦(1914~18)を、イギリスは戦費・兵士を植民地に依存しなければ戦えなかった(最大の協力者はインド)。大戦がイギリスに残したものは、アメリカへの膨大な戦争債務と、戦争協力と引き替えの植民地の自治・独立要求であった。つまり、もう一度世界大戦が勃発してイギリスがそれに巻き込まれれば、さらに植民地に依存し、譲歩しなければならなくなる。
 1919年に結成されたコミンテルン(第3インターナショナル)は、翌1920年の第2回大会で「帝国主義打倒と植民地解放」を宣言、アジアに急速に共産主義が浸透した(インドネシアで1920年、中国では1921年に共産党結成!)。「帝国維持」を至上命題とするイギリスにとって、共産主義は悪魔の所業であった(イギリスもソヴィエト=ロシアへの1918年の革命干渉戦争に加わったことを思い出そう)。イギリス指導者の目に、ソ連=共産主義打倒を訴え、その侵略を東欧に向けているヒトラーは、例えバカであっても、帝国維持・共産主義打倒という2つの切実な問題を解決してくれる、「良きパートナー」と映っても不思議ではない。1938年のミュンヘン会談(チェコ代表のいないまま、チェコのズデーテン地方割譲が決定された!)後、帰国したネヴィル=チェンバレンは、その凱旋演説で、ミュンヘン協定を「われらが時代の平和の証書」と誇ったが、時代を帝国と読み替えれば、イギリスの真意がどこにあったかが良くわかる。
 翌年、ヒトラーはポーランド回廊の自由通行とダンツィヒ返還を要求してきた。ネヴィル=チェンバレンにとっては、フランスとともにポーランドとの相互援助条約を結ぶのが精一杯だった。指導者層も、国民もドイツとの戦争を覚悟した。開戦は、インドへの負債増加つまり独立運動激化を意味した。対ドイツ強硬策・植民地維持を主張しつづけたチャーチルが首相に交替する。

 チャーチルは「平時の首相」ではなく、ヒトラーという格好の敵役が存在したからこそ首相として国民を指導することも、鼓舞することもできたが、そもそもの発想は「イギリス帝国ありき」であり、帝国の崩壊を招くガンディーのインド独立運動を敵視していた(ガンディーは獄中にいたが)。当然、アジア諸地域・諸国を対等な存在と考えていなかった。それが彼の日本に対する戦後構想としての「無条件降伏」にこだわった理由だった。
 しかし、そのチャーチルも戦後の植民地の独立を押し止めることはできず、1945年のポツダム会談途中で労働党のアトリーに交代した。だが、チャーチルだけを批判する気にはなれない。アメリカも原爆投下をドイツに対して行うことは微塵も考えなかったからである。

2026年追記:19日まで夏休みの予定でしたが、その19日に再検査・精密検査が入ってしまい、一日繰り上がりました。この間、熊本の地震、千葉の水害がありました。わずかですがそれぞれ募金し復興を願いました。そういう時に自分のPV撮影を行うわ、靖国に参拝する閣僚や国会議員がぞくぞくと湧き出るわ、と戦間期のことを書いている「飾り窓」と変な形で共鳴してしまいました。嘘を平気で吐いてでも支持率を上げることしか考えていないバカが国会議員や首相になることの恐怖、それを指摘する知識人の声が届かない恐怖を感じています。

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