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映画感想文『田園に死す』 今は無きアルタができる前のアルタ前!まるでタイムパラドクス

監督:寺山修司/1974年 日

代表的歌集『田園に死す』にもとづく自伝的フィルム。青森県下北半島の荒涼とした風景。母親の過度な愛情と干渉。恐山の巫女と父親の霊。サーカスでみた空気女、怪力男、一寸法師。隣家の美しいお嫁さん──。懐かしくも忌まわしい少年時代の記憶が映画監督となった「私」に襲いかかる。圧巻のラストシーン。

上映館(ラピュタ阿佐ヶ谷)紹介文より

※ごく個人的な感想です。ネタバレあったらごめんなさい。


寺山監督、腕を上げる

寺山修司が亡くなった病院の近所の映画館で寺山修司作品を観るという私の勝手な企画第2弾。
とはいえ、河北病院は改修してすっかり様変わりしてるんですよ(というどうでもいい地元情報)。

私は前作『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)を「映画としてこなれていない」「稚拙」と評しましたが、本作になったら格段に「映画として」上達しています。

カメラマンが鈴木達夫になってるんです。そのおかげだと思うんですよね。
長谷川ゴジ和彦の『青春の殺人者』(76年)も『太陽を盗んだ男』(79年)も鈴木達夫カメラ。撮影大切。とっても大切。

あと、役者ね。役者の「存在感」って大切だと思うんです。
八千草薫というだけで「隣家の美人奥さん」という説得力が増すわけじゃないですか。うんうん、スケコマシて駆け落ちするのは原田芳雄だよねって納得するわけじゃないですか。
原泉の意地悪婆さんとか、空気ポンプで体を膨らまされる春川ますみとか。
なんだよ「俺の女房を勝手に膨らませやがって!」ってどんな台詞だよ。

がっつりフェリーニ、時々ベルイマン

この映画を観るのは約30年ぶりだったんですが、当時は何も分かっていなかったですね。いま観たら、めちゃめちゃフェリーニの影響を受けてるじゃないですか。
例えば『8 1/2』(63年)。

私はよく「太った女が浜辺で踊ってるような映画が観たいんだ!」と言っているのですが、『田園に死す』でも(太ってないけど)早々に海辺で女性が踊り狂っていますね。太った女は春川ますみの風船女に託してるし。そもそも、サーカスが『道』(54年)ですしね。
子ども時代の記憶ということではフェリーニの半自伝的映画『アマルコルド』(73年)の影響も大きいのでしょう。でも、映画監督が作品と現実の区別がつかなくなる構成は、やっぱり『8 1/2』だと思うんです。

あと、『千と千尋の神隠し』(2001年)のカオナシみたいな格好の、噂話をするお婆さんたちなんか、まるでベルイマン『第七の封印』(1957年)。谷ではなくて恐山で列をなしてたりとかさ。
あと、『第七の封印』は死神とチェスをする有名なシーンがありますが、本作では過去の自分と将棋を指す(笑)

でもね、このシーン、『第七の封印』のオマージュだと思ったら、違った見え方をしてきたんです。
今の自分は、過去の母を殺すという意図を持っています。ある意味「死神」的存在だったんですよ。

母さんが夜なべをして手袋編んでくれた時代

エディプスコンプレックスならぬ、息子による「母親超え」の物語というのは、意外に珍しい気がしています。
というか、なんかこの時代って、母親の存在が大きかったような気がしませんか?
「お母さ~ん!」って言ったら何を思い出します?
ハナマルキのCMとかね。あれは60年代後半から70年にかけて、流行語だったそうです。
私は、石井輝男『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(69年)を思い出します。
こうして並べたら年代が近いな。ハナマルキCMのパロディーだったんじゃないか?
森進一の『おふくろさん』っていつだ?1971年だってよ。
ちなみに、♪母さんが夜なべをして手袋編んでくれた♪「かあさんの歌」は、元々はもっと古い歌なんだけど、NHK『みんなのうた』で放送されて国民全員が知るようになったのは、60年代後半から70年代なんだそうです。
さらにちなみに、「マザコン」という言葉が日本で広く使われるようになったのは、昭和40年代(1965年~1974年)頃なんですって。

なんだ、全部「昭和40年代」の範囲内だ。

もしかするとこの映画は、当時流行の「マザコン」の深淵を捉えた映画だったのかもしれませんね。

「時間」を持つことが大人になること

本作は冒頭から、「柱時計」「腕時計」を持ち出して「時間」を意識した作りとなっています。
過去の自分や記憶というのも、「時間」に深く関係しますしね。

この映画の母親は、息子が腕時計を欲しがるのを頑なに否定します。しかし当の息子は、童貞喪失直後に「腕時計」を着けているのです。未来の自分が教えてくれた「腕時計」を持つ年齢より早くに。
(どうやら寺山修司にとって童貞とは、自分で「捨てる」ものではなく誰かに「奪われる」ものらしい)。

自分の「時計」を持つことが個人の独立として描かれているように思います。あるいは、「柱時計」が「腕時計」に変わったことで、家族中心から個人中心の時代に移った……という穿った見方もできます。

そうした「時間」の映画を、製作から実に半世紀を経た今日観ると、タイトルに書いたように、「新宿駅前のアルタができる前のアルタ前なんだけど、そのアルタも今やもうない」という変な時間感覚に陥ります。
まるで、劇中で問われた「タイムマシーンで数百年さかのぼって三代前のおばあさんを殺したら、現在の自分はいなくなるか」というパラドックスみたいに。

(2026.07.12 ラピュタ阿佐ヶ谷にて再鑑賞 ★★★★☆)

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