翻訳の日本史 | 受容から発信へ

日本史を「翻訳」という視点でまとめてみようと思います。
日本翻訳史 | 受容から発信へ
「翻訳」と聞けば、おもに海外文学の日本語への翻訳を思い浮かべる人が多いことでしょう。
けれども、日本の歴史を繙くと、日本の翻訳文化は、『論語』や『史記』など、漢文を通じて中国文明を受容しようとしたことに始まると言えます。
日本の翻訳文化は、単に外国語を日本語に置き換えることではなく、その知識を日本社会の中で生かすことに重点が置かれていた。空海や最澄は、漢訳仏典を読み、日本仏教の基礎を築きました。
サンスクリットが中国で漢訳され、漢訳が「書き下し文」として日本語で読まれるようになりました。
江戸時代になると、オランダ語も翻訳されるようになります。杉田玄白や前野良沢らによる「解体新書」がその代表です。
興味深いことに、『解体新書』は現代の私たちがイメージするような日本語訳ではありませんでした。本文は漢文体で書かれています。杉田玄白や前野良沢らの蘭学者は、オランダ語の知識を漢文の枠組みを用いて表現しました。
その流れが変わり始めたのは、福沢諭吉や西周らによる西洋文明の「翻訳」です。それまでの日本語にはなかった概念を、新しい日本語を作って「消化する」ようになりました。「自由」「社会」「経済」「権利」という言葉はこの頃に作られた言葉です。
また、明治時代以降、二葉亭四迷らによるロシア文学の邦訳や、森鷗外らによるドイツ文学の邦訳もおこなわれるようになりました。
ここまで、外国語を日本語に翻訳するという一方的なものでしたが、徐々に日本文化を発信する時代がやってきました。
岡倉天心 (岡倉覚三) による「茶の本」(The Book of Tea)や、"Asia is one." で始まる「東洋の理想」が「発信のための翻訳」の先駆けとなりました。
新渡戸稲造の「Bushido the Soul of Japan」(武士道)や、鈴木大拙の「Zen and Japanese Culture」も発信する翻訳でした。
日本翻訳史とは、外国文化を日本へ移し替える歴史であると同時に、日本文化を世界へ語り直す歴史でもありました。
中国文明を受容し、仏教を消化し、西洋思想を翻訳し、そして日本文化を発信する。その長い営みのなかで、日本人は単に言葉を訳したのではありません。他者の知を自らの血肉とし、それを再び世界へ送り返してきたと言えるでしょう。
chatGPTさんに記事の内容を
マンガ化してもらいました😊。

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