ルイの神話的起源譚《満点の呪い》第2話 《瑠衣の家 —沈黙の炉──世界が軋み始めた日》Rui’s House — The Furnace of Silence
「生き延びることだけが、俺の明日だった。」
昔の事というのは、時が経っても忘れないものだ。世界から切り離される痛みというのは、今も俺の心にしこりとなって残っている。
俺が高石の手によって公開処刑されて以来、現実の世界は音もなく軋み始めた。俺がどんな苦境に立たされても、時にそれが命の危険すら伴うものであったとしても、俺の訴えは届かない。誰も俺を見ない。それは親でさえも。
教師も生徒も父親も。俺は自分のロケット型のペンダントの中に仕込んである、5年前に自殺で世を去った亡き母親に助けを求めたこともある。俺の唯一の宝物だった。そこには優しかった母の遺影が入っている。
一人になると俺は、引き出しにしまったペンダントをそっと開けて,母に語りかける。身につけるわけにはいかない。連中にむしり取られるわけにはいかなかったからだ。誰もいない部屋で俺はやっと母を呼んで泣くことができた。
「母さん…。」なぜ、いてくれなかったんだ。母さん。今もいてほしかった。母さん。どうして俺はあなたを助けられなかったんだろう。母さん。俺を抱きしめてくれ。俺はつらいんだ。ここに、あなたがいない事が。
玄関が開く音がする。俺は慌ててペンダントをしまい、勉強をするふりをする。勢い良くドアが開く、そして、父がずかずかと部屋に入ってくるのだった。
「『漢語林』は、覚えたのか?!…まだ半分もいかないだと!!来い!!」俺は髪を掴まれて台所に連れて行かれた。そこには『新明解国語辞典』が置いてあった。
「瑠衣。俺が教育しなおしてやる。」そして、フライ返しをガス火で熱し始めた。俺の心臓がどくどくと脈打つ。
「1092ページ。言え。何が書いてある。答え合わせをしてやる。」
俺は完璧に答えた。父は舌打ちをする。ルールはこうだ。奴の質問に正解できないと、その時点で真っ赤に焼けたフライ返しが俺の腹に押し当てられるルールだ。俺は、恐怖と怒りで頭が真っ白になりながら、父の手元にあって自分の手元にない辞書を、脳内の記憶だけで一字一句間違わずに回答した。
何時間も、何時間も。そして、思考が途切れかけたころ、その夜が明けた。俺の息は、切れ切れになっていた。生き延びた。そう、一日、生き延びることがようやく出来た。
俺はその一日を積み重ねることによって息をしていた。普通の暮らしなど知らないし、とうに諦めていた。平和な瞬間はあるが、平和な一日は全くない家だったんだ。
「クソが。もうこの辞書は使えねえな。」父は俺の体中のケロイドを睨みつける。父は思った。(最初のころは面白かったのにな。解らないという度に俺はこいつに焼け火箸や熱したステンレスのお玉で罰を与えた。その度こいつは火傷の度に転げまわって、泣きわめいてよ。俺は出来ねえこいつを嬲るだけで良かった。嗜虐心が満たせた。愉快だった。
それなのにこいつは生きるために完璧に辞書を丸暗記していやがる。全問正解とは、可愛げのねえクソガキだ。)
「フン、次は英語の辞書を買ってきてやるよ。楽しみにしておけ…。」
胸の内が凍り付く。せりあがっていく吐き気を抑えきれずに、シンクで嘔吐して、その後始末をした、見つかりませんようにと祈りながら、何事もなかったように清潔に家を保った。
下らねえことに、これが俺の日常だったんだ。喜びがない。怒りも持つことを禁じられ、泣いたり笑ったり出来ない。生きるために覚えたことが俺の自由を奪い、生きるために覚えたことが何故か他人を脅かしていく。逃げ場なんかどこにもなかった。児童相談所に駆け込むべきだったのかもしれないが、俺が教わったのは父の手による徹底した国語教育、それ以外の生存にまつわる知識は誰も俺には教えて来なかったんだ。
俺は疲れ果てて学校に行った。すると、山田に消しゴムの切れ端を顔に投げられた。そして、ぐしゃぐしゃに丸めた答案用紙を口にねじ込まれそうになる。俺は抵抗したが、奴はいやに力を込めて、俺の抵抗を不愉快そのものと言わんばかりに押し込めようとした。
俺の心は冷めていた。そして、抵抗を止めた。代わりに奴の心の底を見た。
へらへら笑っていた山田の顔が真顔になる。
「山田…。」俺はもう、こいつを守ってやれない。俺の中の怪物から。
「な、何だよ、てめぇ。」
俺はゆっくり本当のことだけを言い始めた。
悪意はなかった。代わりに、外科手術でもするように、俺の人生のガン細胞のこいつの精神を切り刻み始めた。
「お前は、一人になるのが怖いんだな。いつも他人の顔色を窺っている、なあみんなって、周りを見回して、いつも同意を求めている。一人では何もできない。お前には、その度胸はない。お前、親に虐待をされているな、見ればわかる。親にも愛されない人間っていうのは何処までも惨めなものだよな。どうした。お前は俺を殴ることで自分自身の姿から目を背けているんだよ。俺に言ったことは、全て、お前が親から言われてきた言葉だったよな。もう一度それを聴きたいか。山田。山田。耳をふさいでたら、聞こえないだろうが。」
言っていて胸が冷えた。自分自身に対して、おぞましいまでの恐怖心が湧いてきた。こんなこと言うような人間だったのか?俺は?
山田の目玉の奥の黒が、ぐしゃりと潰れた。そして、奴は両耳をふさいだまま、怪鳥のような悲鳴を発した。
「ぎょへえぇぇえぇぇぇぇぇえええええ!!!!!!!」
俺は山田を壊した。山田はその場に崩れ落ちて、動かなくなった。
ああ、しまった。止められなかった。壊すつもりではなかったし、出来れば仲良くしたかったんだが、俺は、自分の質量をどうすることも出来ない天体の様だった。大質量の天体に小さな軽石が当たれば、蒸発することくらい知っていたのに、守ってやれなかった。
俺はその教室を後にした。周りは水を打ったように静まり返っていた。
そして、誰もが俺を恐れるようになるのに時間はかからなかった。クラスメートの間での噂が伝播するのはとんでもない速さだった。
「山田が壊された。」
「赤城は化け物だ。」
「危険すぎる人間だ。」
排除しなければならない。排除しなければ秩序が保てない。
その日のうちに学校側も動いた。まずは
担任の高石が俺を呼びだす。
「赤城君。君、やっぱり問題を起こしちゃったね。先生は、初めから、赤城君は、問題を起こす子供だと思っていたんだよね。でも、学校っていうのは、みんなの場所じゃないか?なあ。赤城君。みんなに合わせて、協調性と明るさを身につける練習をしようよ。それがいいんだよ。そのままじゃ、君はここには居られないよ?」
高石はさもかわいそうな動物を見るように薄笑いを浮かべていた。
秩序?
…何のための秩序だ。
俺のためじゃない。俺の世界に秩序など存在しない。
じゃあ誰のための秩序か。山田か。岩淵か吉沢か。
違う。学校に必要なだけだろう。
こいつらの保身、こいつらの名誉、こいつらのために
必要なだけなんだ。下らねぇ。
全てが下らねぇ。
もう何も、言うことはなかった。
俺は黙って学校を去った。
そしてパニック障害を起こした山田は、恐怖と悪意の入り交じった眼差しで俺を見つめて廊下の奥で震えていた。
遠ざかっていくクラスメートたちのざわめき。そしてそれは木々の間を吹き抜ける5月の風の中に溶けていった。太陽は輝いていた。俺の世界がどんな風であったとしても、ひたすら明るくきらめいていた。
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ルイはこの後、何を失い、何を得るのか。 その答えは烙印の世界にあります。
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ルイの神話的起源譚《満点の呪いのそれから》そして、時は流れた。|関口直子
⇧これを読むと、話がつながります!!!
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