SNSの闇なんて、どこにもない。
9月の終わり、南米アルゼンチン。
首都ブエノスアイレス郊外の町、フロレンシオ・バレラ。
静かな住宅地の庭の土が、不自然に盛り上がっていた。
掘り返されたのは、三人の少女の遺体。
15歳、17歳、19歳。
みな同じ学校に通っていた。
遺体は切断され、焼かれ、暴行の痕があった。
犯人は20歳の若者とその仲間たち。
彼らはその光景をスマートフォンで撮り、
“仲間”限定のインスタライブで配信していたという。
コメントが流れた。
「やっちまえ」
「裏切り者には罰を」
絵文字が踊り、ハートが弾けた。
動機は「麻薬を盗んだ」という噂。
だが、証拠はどこにもなかった。
誰かがそう言っただけ。
それだけで、少女たちは殺された。
ニュースの映像の中、
加害者たちはどこにでもいる青年に見えた。
染めた髪、薄く笑う顔。
異常なものなんて、どこにもない。
だからこそ怖い。
“普通”が、いつのまにか“暴力”に変わること。
日本でも似たような構図がある。
「闇バイト」。
SNSで「高額報酬」「即日現金」と呼びかける。
誘われた若者は、気づけば犯罪の駒にされる。
断ろうとすれば脅され、逃げ場を失う。
画面越しの命令に従うだけで、
自分の手が人を壊す。
でも──それを笑えない私たちがいる。
ニュースを見たあと、
私たちはスマホを手に取り、コメント欄を開く。
「最低だ」「親の顔が見たい」「死刑でいい」。
怒りのリズムに乗って、誰かを叩く。
そこに悪意はなく、むしろ“正義”のつもりで。
けれど、それこそが危うい。
怒りは快感に似ている。
正義は麻薬に似ている。
誰かを責めるとき、人は無意識に自分を救っている。
“私はまだこっち側だ”と。
ヤフコメでも、Xでも、スレでも。
自分が“まともな側”にいると思い込むほど、
暴力の構造は洗練されていく。
言葉で殴り、感情を共有し、
拍手の代わりに「いいね」を押す。
行動は違っても、構造は同じだ。
彼らは刃物を持ち、
私たちはスマホを持つ。
ただそれだけの違い。
SNSの闇なんて、どこにもない。
闇はいつだって、
私たちの中で呼吸している。
少女たちはもう何も言わない。
けれど、あの土の下の沈黙は、
私たちの心のどこかにも埋まっている。
静かに、確かに、鳴っている。
誰もが正義という名の下に、自分を正当化しようとしている。
©️雑談文学

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